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山本淳子 枕草子のたくらみ ③ 女房の勧め (2017朝日新聞) [日記 (2022)]

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)
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続きです。
女房という生活
 平安時代、貴族は五位以上だそうです。清少納言父親・清原元輔は従五位上ですから、清少納言は(下級)貴族の女。和泉式、紫式部、彰子の女房であった赤染衛門、伊勢大輔も貴族の女。后や中宮の後宮に仕える女房は、彼女たちから選ばれます。

 当時男性に顔を見られることははしたないことでしたから、女性は屋敷に閉じ籠り、人と出会う機会は殆どありません。貴族の娘が女房として内裏に出仕すると、主人の世話で来客取り次ぎ、応接で様々な人と接するようになります。後宮は男性との出会いの場でもあったわけです。

将来性もなく、現実的に、偽物の幸運などを夢見ている人は、鬱陶しいし馬鹿にしたくなってしまう。やっぱりそれなりの家の娘さんなどは、宮仕えに出して、世の中の様子も見慣れさせてやりたいし、できれば内裏の女官を取り締まる内侍司の次長・ 典侍なんかの仕事に、しばらくでも就かせてやりたいものだ。(第22段)

 清少納言は、貴族の女に、邸に閉じ籠るのではなく宮仕えを薦めています。「偽物の幸運」を親の薦める縁談と結婚だとするなら、清少納言は、「女房になって『出会い』をつかもうよ」と言っていることになります。その好例が定子の母・高階貴子(きし)です。貴子は、宮仕えして内裏の掌待になり藤原北家の嫡男・道隆にみそめられて玉の輿に乗ります。清少納言の最初の結婚が「偽物の幸運」だったかどうか?ですが、バツイチの彼女も和泉式も女房を経て再婚、第二の人生を歩み出しています。

宮仕えする女房を、尻軽でよくないと言ったり思ったりする彼氏なんかときたら、本当に憎らしい。でもそれもまた一理あるのよね。口にするのも畏れ多い帝をはじめとして、公卿、殿上人、五位、四位といった貴族の方々はいうまでもなく、女房が顔を合わせない人は稀だろうから。(第22段)

 女房と殿上人の恋あるいは情事はよくある出来事だったようで、その辺りから 「宮仕えする女房を、尻軽」という偏見が生まれたのでしょう。内裏の後宮は、恋愛と結婚の場だったわけで、現代で云えば職場恋愛、職場結婚です。
 当時は男が女の元に通う妻問。紫式部は、深夜に誰か(道長?)が局の戸を叩いたと日記に記しています。女房たちの住まう局は襖などで仕切られたプライバシーの無い生活ですから、彼、彼女の逢瀬はどんなものだったのでしょう。

理想の女房
一方で、妻に典侍などの役職があって、時々内裏に参上し、祭りで朝廷の使いなどに立つのも、実に鼻の高いことではないか。その後退職して家に入るのは、さらに理想的だ。夫が国司で、宮廷行事の五節の舞姫を調達しないといけなくなった時なども、宮仕え経験のある妻なら、お話にもならないことを人に聞きまわったりするような野暮ったいことはするまい。それこそ奥ゆかしいというものではないか。(第22段)

 清少納言と云えど、女房が恋愛→結婚し、内裏で学んだノウハウで夫を支えることを理想としていたようで、 著者(山本淳子)は、清少納言が理想とする二人の女房を挙げています。
 ひとりが定子の母・高階貴子。貴子は、宮仕えして内裏の掌待になり藤原北家の嫡男・道隆にみそめられて玉の輿に乗り「家に入り」ます。貴子は娘の定子に漢学の教育を施し、定子はその教養で一条天皇の后となり敦康親王を生みます。
 もひとりが一条天皇の乳母として典侍となった橘徳子。徳子は、藤原有国と結婚し、典侍を勤めながら内助の功を発揮、有国を公卿(正三位)まで出世させたそうです。

 良妻賢母の勧めですから、現代でからすれば古風と云えば古風。但し平安時代の話ですから、当時とすれば清少納言の「女房の勧め」は画期的だったのかもしれません。というか、平安時代も現代も変わらない、と言うべきか…。

タグ:読書
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