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魔都・上海のゾルゲ スパイ・ゾルゲの昭和 (2) [日記 (2022)]

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 アグネス・スメドレー        魔都 上海

続きです。
上海での任務
 1930年、ゾルゲは赤軍情報部よって上海に派遣されます。『手記』(現代史資料 ゾルゲ事件1)によると、中国でのゾルゲの任務は、「モスクワから与えられた任務」と「自発的な調査活動」に分類されます。

《モスクワから与えられた任務》
 1)南京政府(蒋介石政権)の社会的、政治的分析及び軍事力の研究。
 2)南京政府の外交政策の研究。
 3)南京政府に対するアメリカ、イギリス、日本の政策の研究。
 4)中国農工業の発達と労働者および農民の状況に関する研究。

《自発的な調査活動》
 1)ドイツ、アメリカの中国投資の研究。
 2)日本の中国(満州)政策とその対ソ影響。
 3)上海事変での日本の目的と日本軍の配備。
 4)南京政府と日本の間の関係の悪化に関する観察。

中国に対する日本の新しい政策は強く私の注意を惹き、ついに私は日本問題全体について興味をもつようになった。中国にいる間に問題の根底まで究めることはできなかったが、それでも私が中国で研究したことは、後に日本で活動するときの役にたった。モスクワ本部は私の択んだ研究項目を容れ、これについて満足の意を表した。(現代史資料 ゾルゲ事件 1 p162)

 モスクワの指令は、南京政府の動向とそれをアメリカ、イギリス、日本がどう捉え、どう動こうとしているのか、に集約されます。そしてゾルゲの課題は、それを補完するように日本の動向を読み解こうというものです。

 当時の上海には1)ジム・グループ、2)フローリッヒ・フェルトマン・グループ、3)ハルピン・グループ、4)コミンテルン・グループの赤軍諜報部の諜報団があったようで、ゾルゲは5番目のグループを組織します。上海には治外法権の英米仏日の租界があり、そこを拠点に各国の諜報機関があったはずで、これに共産党の「中京中央特科」、国民党の「藍衣社」が加わり、各国入り乱れての諜報戦があったんでしょう。
 少し後の話ですが、日本陸軍のジェスフィールド76号、児玉機関、関東軍のハルピン特務機関、土肥原賢二の奉天特務機関などが中国で暗躍しています。1932年、上海公使館附武官・田中隆吉は、関東軍参謀・板垣征四郎の指示で中国人を使って日本人僧侶を襲わせ、これが上海事変を引き起こします。まさに魔都・上海です。

 上海にわたったゾルゲは、当時著名であったアメリカのジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介して、王学文、尾崎秀実などの協力者を獲得してゆきます。

スメドレー・サロン
 アグネス・スメドレーは、毛沢東の共産主義運動を取材したジャーナリストで、コミンテルンのシンパ。上海の著名知識人であるスメドレーの元には、新聞記者・尾崎秀実、ソ連のスパイ、ルート・ウェルナー、中国共産党の王学文陳翰笙、孫文の妻・宋慶齢など、ジャーナリスト、共産主義者、中国革命運動家が集まります。ゾルゲは、スメドレー・サロンから尾崎秀実、中国共産党の要職を歴任する王学文、陳翰笙などの主要メンバーをリクルートします。

(ゾルゲ)は、上海では主に王といっしょに仕事をし、ただ例外的にほかのメンバーとも仕事をした。王はいろいろな方面から資料や情報を齎(もたら)し、われわれはそれらについて検討した。そして、もっと正確な説明や報告を必要とするような場合は、王と二人でその情報や資料を供給した者に直接会って話をしてみた。情報の蒐集について命令したり依頼したりする場合はすべて王を通じ、例外の場合のほかは箇々の諜報者に直接会って私の命令を説明するようなことはしなかった。 しかし、王が同席している場合は上海以外から来た諜報者にも会った。(P156)

 王学文によって中国人の支援者を獲得し、ゾルゲの情報ネットワークは大連、南京、広東、北京、漢口に及びます。王は、東亜同文書院の学生、中西功(満鉄調査部、中国共産党員)、西里竜夫(同盟通信記者、中国共産党員)等日本人を組織して反日の「日支闘争同盟」を作り、このグループには、尾崎のほか後にゾルゲ事件の検挙者に名を連ねる川合貞吉、船越寿雄、水野成が含まれています。

 コミンテルン党員で経済学者の陳翰笙とゾルゲがどんな活動をしたかは不明です。1932年にスメドレーの指示でゾルゲと西安に行き、ゾルゲの招聘で1934~1935年東京に滞在していますから、ゾルゲとの関係は濃厚です。王学文と陳翰笙のふたりが、ゾルゲの任務ある南京政府の動向と中国経済の調査の情報源だったと考えられます。(楊国光 ゾルゲ、上海ニ潜入ス 日本の大陸侵略と国際情報戦 (2009評論社))

 「上海ゾルゲ諜報団」が存在したわけではなく、上海のコミンテルン、中国共産党、日本人の共産主義者のグループから情報を得ていたというのが実態ではないかと思われます。

尾崎秀実
 朝日新聞上海特派員の尾崎は、スメドレー・サロンに参加し、内山完造を通じて郭沫若や魯迅とも交流のある中国問題の専門家です。ゾルゲは、後に「東京ゾルゲの諜報団」の主要メンバーとなる尾崎と上海で出会います。

(ゾルゲ)は、過去における日本の対華政策について、また満州事変および上海事変に照らし日本は将来果してどんな態度に出るだろうかといった予想について、尾崎から話を聞いて大いに得るところがあった。こうした問題について尾崎と交した話の詳細は忘れてしまったが、私は日本の歴史や政治について一般的な概念を得ることができた。殊に満州事変の前後に起った日本の国内政治上の変化については、尾崎は実に詳細に説明してくれた。また、一九三一年から三二年にかけての日本超国家主義運動についていろいろ適切な知識を与えてくれたのも彼であった。(p167)

 (上海事変は)日本の外交政策が新しい方向をとったことを物語るものであった。もちろん、当時われわれには、それがただ一箇の偶発的な衝突事件にすぎないのか、それとも満州獲得に次いで中国を征服しようとして日本が企てている努力の現われなのか、どうもよく判らなかった。また、日本は北進してシベリアに向おうとしているのか、それとも南下して中国に征め入ろうとしているのかも判らなかった。
 尾崎はこうした諸問題について言わば私の先生で、その取扱った分野は広汎にわたっていた。彼は、過去数年間における日本の対満政策とその将来における計画について説明してくれた。私は彼に、北満およびシベリア国境地帯に対する日本の計画について報告を提出し、将来日本が中国およびシベリアに対し侵略の意図をもっているかどうかを判断するための資料を集めるように頼んだ。

尾崎の紹介で、後に「ゾルゲ事件」で逮捕される鬼頭銀一、川合貞吉がゾルゲグループに加わります。

 また彼と相談の上川合を満州と華北に二回派遣して、これらの問題を調べさせるとともに軍事情報を集めさせた。川合は満州と華北からあらゆる種類の情報をもたらした。彼は満州における日本軍の作戦状況、中国のゲリラ戦術、満州における日本の政治的、経済的目標、その他の事柄について報告した。彼はまた華北における日本の政策についてもいろいろの資料をもたらしたように思う。(p166-167)

上海ゾルゲ諜報団
(ゾルゲ)は、成員のもたらす情報では満足できなかったので、自から乗りだしてできるだけ多くの事実や資料を集めた。上海には大使館はなかったが、私はすぐさまドイツ人の社交界に入りこんで、さまざまな情報を手に入れた。 社交界の中心はドイツ総領事館であった。私は皆に知られるようになり、またずいぶん頼まれ事もした。交際の相手はドイツ人の商人、軍事教官、 学者に亘っていたが、中でも私にとって最も大切だったのは南京政府に派遣されていたドイツ軍事顧問団であった。私は、団員中から、南京で軍事問題のみならず政治問題でも活躍している者を択んで交際した。 先任軍事顧問で後に総領事になったフォン・グリーバー大佐はその一人であった。軍事顧問たちは“私を南京に招き、また私を訪ねて上海へもやってきた。私は、また彼らといっしょに嘉興や杭州へも行った。私は彼らから、南京政府の内部事情、軍閥征討の計画、経済および政治政策についていろいろの情報を得、また一九三二年の上海事変の際は、日本軍の作戦計画や兵力の実数などについて的確な情報を提供してもらった。私は欧亜航空公司のドイツ人飛行士たちとも懇意になった。(p158)

 「上海ゾルゲ諜報団」とは、1)尾崎、川合の日本人グループ、2)王学文、 陳翰笙の中国人グループ、3)赤軍諜報部の派遣諜報員、4)自ら開拓したドイツ領事館、社交界、の4グループに大別出来ます。中でもスメドレーの果たした役割が大きく、彼女無しではのゾルゲの諜報活は成立しなかったと思われます。その他のグループのメンバーは、

アレックス:赤軍情報部所属、ゾルゲに同行して上海に潜入。情報部との連絡及び軍事問題担当
ゼーバー・ワインガルデン:無線操作担当
ジョーン:ポーランド共産党員。1931年赤軍情報部から派遣、暗号と写真
パウル:軍事問題担当、ゾルゲの後任者
マックス・クラウゼン:赤軍情報部所属の無線技師。後に東京に呼び寄せる
ハンブルグ:ドイツ婦人。住まいを提供し連絡、書類の保管。
ジェーコブ:アメリカの新聞記者、外国通信者の情報をもたらした などがいます。

 赤軍諜報部派遣の諜報員に、逮捕時には日本にいなかったため『調書』には登場しませんが、ソーニャのコードネームを持つソ連のスパイ、ウルスラ・クチンスキー(ルート・ウェルナー)がいます。wikiには
1930年に上海へ渡り、リヒャルト・ゾルゲの助手かつ愛人として活動した。1933年、ゾルゲの推薦でモスクワの諜報学校に送られて訓練を受け、その後満州およびスイスで活動した。
とあります。マンハッタン計画主要メンバーでソ連参謀本部のスパイであったクラウス・フックスとも接触があった様です。

 上海は、ゾルゲが初めて諜報活動をした地であり、初めて組織を作り諜報活動をします。「東京ゾルゲ諜報団」は「上海ゾルゲ諜報団」を雛形とした組織といえます。尾崎を中核に、米共産党員の宮城与徳、コミンテルンのフランコ・ヴーケリッチ(アヴァス通信社)、赤軍諜報部の無線技師のマックス・クラウゼンを加え、ゾルゲ自身はドイツ大使館と外国人社交界に浸透して情報収集します。大使館付武官のオイゲン・オットの信頼を得、オットが大使となると大使館に部屋まで与えられます。1938年にはオットの後任駐在武官のショル中佐と親しくなり、この二人からナチスドイツの情報を得ています。ドイツ大使館の比重が重くなりますが、上海とよく似ています。

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