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ゾルゲ 御前会議を盗む ① スパイ・ゾルゲの昭和(11) [日記 (2022)]

続きです。
 1941年6/22、ヒトラーは独ソ不可侵条約を破ってソ連へ攻め込みます。日独伊三国同盟を結ぶ日本の動向が気になるソ連は、ゾルゲに日本の動向を探るよう指令を出し、ゾルゲは尾崎秀実の情報基づき、日本の独ソ戦に参戦は無い云う情報を打電した、というのが前回までの話です。この情報に基づき、ソ連は極東軍を西部戦線に投入して独ソ戦に勝利するわけですが、それは1945年のこと。

 ゾルゲは1941年(昭和16年)に検挙され、訊問でゾルゲがこの情報の入手した経緯が明らかにされます。みすず書房『現代史資料 1』にはゾルゲの側から、『同2』には尾崎秀実の側から、この昭和史のドラマがリアルに描かれています。訊問が行われたのは昭和17年2月ですから、独ソ戦の帰趨は未だ決まっていません。

 日本が太平洋戦争に歩み出した1941年6/19~9/14、の動きをみると、
6/19:政府に於て対独対ソ方針(中立を維持)を決定
6/22:独ソ戦開始
6/23:陸海軍首脳部会議に於て日本ハ独ソ戦ニ参戦セズ、この頃尾崎は6/19の情報を得る(西園寺公一より)
6/25:尾崎6/23の情報をキャッチ(朝日新聞政治部長田中慎次郎より)
6/26:19、23日の情報を宮城経由でゾルゲに報告
7/2  :御前会議で南進を決定(情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱)
7/5頃:尾崎情報キャッチ、宮城経由でゾルゲに報告
7/7:関東軍特殊演習(関特演)動員令
7/10 :ゾルゲ、御前会議の内容をモスクワに打電、この頃オット大使は松岡外相から御前会議の情報を得る
7/13:関特演動員始まる
7/27:大本営政府連絡会議(世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱)
7/28:南部仏印への進駐開始
8/9  :大本営陸軍部と関東軍は年内の対ソ開戦の可能性を断念
8/20頃:尾崎情報をキャッチ
8/25頃:西園寺公一に確認
9/14:ゾルゲ、日本ハ独ソ戦ニ参戦セズと打電

 尾崎は、近衛文麿内閣の政策研究会「朝飯会」「昭和研究会」のメンバーですから、その人脈を通じて政府中枢の動きを把握しています。主な動きは6/19の対ソ方針(中立を維持)の決定、6/23の陸海軍首脳部会議(南北両面作戦)、7/2の御前会議です。
 尾崎は時を経ず情報をキャッチしてゾルゲに報告、ゾルゲはモスクワに打電しています。日本政府中枢の動きがリアルタイムでモスクワに伝わっていることになります。

以下ゾルゲの調書から。
 6/22独ソ戦が始まり6/23ドイツ大使オットは松岡外相を訪ね日本の出方を探ります。7/2に御前会議が開かれ、オットは1週間後に松岡から会議の内容を聞きます。

第一は日本は北方に対しては軍備を拡充して近隣からボルシェヴヰズムを放逐する為凡ゆる準備をなすこと、

第二は日本は南方に対しては積極的進出を継続すること。でありました。
 然かもオット大使は之等の決議事項中の第一の点を最も重要視し之をば日本は北方即ち満州に軍備を充実して近隣即ち、シベリヤから共産主義を放逐する為凡ゆる準備、即ち軍事上の動員を実施することであると解釈し此の動員は取りも直さず対ソ戦の開始であると考へ、第二の点には余り重点を置かず日本の対ソ戦参加は必至であると判断して居たのであります。(『現代史資料1』p275)

 本国から日本政府に独ソ戦に参戦する工作を訓令されたオットは、希望的観測をしたわけです。
 一方の尾崎の情報は、

 尾崎自身は寧ろ前述の第二の点に該当する部分に重点を置いて居り御前会議の内容に関する情報としては尾崎の報告の方が正確を得て居りました。
 即ち私としては此の御前会議に依って日本は北方に対しては準備丈けをして積極的に対ソ攻撃は遣らず、寧ろ北方の安全を期すると云ふ措置を講じ南方即ち仏印方面に対しては積極的な軍事行動を開始すると云ふことに決定されたと云ふ印象を受けて居りました。
 斯様な次第で私は此の御前会議の内容に関する情報としては、オット大使から聴取した分と尾崎から報告を受けた分とを共にモスコウ中央部にラジオで通報致しましたが、之には特に尾崎からの報告が情報として正確であると云ふ注意を附加して置いたのであります。(『現代史資料1』)

 外交ルート通じてカウンターパートから得る情報と、政府中枢に食い込んだ尾崎から得る情報の差です。

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