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近代国語辞典の祖 谷川士清 [日記 (2022)]

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 三重県出身の歴史上の有名人と云えば、江戸期では松尾芭蕉、本居宣長、大黒屋光太夫松浦武四郎、近代では江戸川乱歩、小津安二郎などです。実家の近くに谷川士清(ことすが)の旧宅があり、マイナーですがこの人を「国語辞典の祖」として加えてみます。以下、竹内 令『倭訓栞と谷川士清』(私家版)によります。同書はローカルで配布された100頁程の薄い冊子で、著者は1932年生まれので郷土史家で元教員のようです。

日本書紀通證
 谷川士清は、宝永6年(1709)伊勢国安濃郡八町(現在の津市)に、町医・恒徳堂の長男に生まれます。ちなみに、八町は藤堂藩の津城と支城・伊賀上野城を結ぶ幹線道路の伊賀街道沿いにある、当時は繁華な町だったようです。士清は家業を継ぎ町医となり、けっこう流行ったようです。士清は国学に興味を持ち、『日本書紀』の解析に取り組み『日本書紀通證』を完成させます。この『日本書紀』の研究から生まれたのが『倭訓栞』。士清は、用例と出典を記した2万もの「語彙カード」を作成、分類していたというのです。著者は、このカードを引出しの沢山ある箪笥に50音順に整理していたのではないかと想像しています。

倭語通音、倭訓栞
 この過程で、動詞の活用表『倭語通音』が生まれます。動詞は、50音の行に沿って変化する法則です(例:書ない→、書ます→書→書ば→書う)。50音図は平安中期には成立していた様ですが、「いろは」の語順が一般的です。士清が復活させたわけです。「語彙カード」と『倭語通音』を使って国語辞書『倭訓栞』が生まれます。士清の50音図は、ア行にヲが、ワ行にオがあり、本居宣長がこれを正したということです。

 『日本書紀通證』35巻は寛延元年(1748、40歳)の頃完成し、宝歴12年(1762、54歳)に出版されます。明和8年(1771、63歳)『倭訓栞』の草稿を本居宣長に贈っていますから、その頃完成したのでしょう。『倭訓栞』は、古語を集めた前編45巻、雅語の中編30巻、方言、俗語、外来語の後編18巻、膳93巻82冊。前編の1+13巻が出版されたのが、士清の亡くなった1年後の安永6年(1777)、後編が出版されたのは明治20年(1887)。出版は、長男・士逸、孫・士行、曾孫・士相によって継続され、通算110年の事業です。

本居宣長
 本居宣長は同じ伊勢国・松阪ですから、国学の研究者として交流があります。『倭語通音』を感心して書き写しているそうです。宣長は、明和2年(1765)士清に手紙を出しています。内容は、『日本書紀通証』の批判だそうです、士清57歳、宣長37歳です。面談もあり、『倭訓栞』『古事記伝』の原稿を見せあっているそうです。

 士清は、安永5年(1776)68歳で没します。辞世の歌は、

何故に 砕きし身ぞと 人問はば それと答へむ やまとたましひ
(どうしてそんなに身を粉にするほど勉強するのかと人に問われたら、私は迷わずに答えます。それは「日本人の心が知りたいからです」と)

著者は、宣長の歌並置します。

敷島の 大和こころを 人間はば 朝日に匂ふ 山桜花

宝歴事件、『読大日本史私記』
 本居宣長は教科書に載っていますが、谷川士清はWikipediaにも載っていませんありました)。この人物が何故歴史に埋もれているのか?。著者は士清と同郷ですから、どうしても身びいきになります。
 『倭訓栞』もほぼ親族で出版しています。士清は、尊皇論を唱えた宝歴事件に関わった竹内式部(京都時代の学友)を匿っていた節があり、『読大日本史私記』で水戸光國の『大日本史』を手厳しく批判して幕府に目をつけられます。士清は「町内預け」、長男の士逸は所払いとなり、藩は水戸学を導入します。著者は、これが士清が忌避された理由ではないかと言います。

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  草稿を埋めた「反故塚」       墓(国指定史跡)

タグ:読書
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