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先崎彰容 吉本隆明 共同幻想論 (1) (2020NHK出版) [日記 (2022)]

吉本隆明『共同幻想論』 2020年7月 (NHK100分de名著)
 NHK「100分de名著」のムック本です。1970年代に『共同幻想論』を何度読んでも結局「解らなかった」私には、100頁ほどの解説書はちょうどいいです。『共同幻想論』の出版は1968年で、「過ぎし日を懐古する青春の書」です。
 この難解な論考を読み解くために、著者は『共同幻想論』の序文と吉本の戦争体験に注目します。

序文
国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。・・・国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。

幻想とは唯物史観の言う上部構造です。「共同」という文言が付くのは、著者の言葉を借りれば、

「俺はマルクス主義とはまったく違う形で国家や人間について考えるのだ」と言いたかったのではないでしょうか。

人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっているして共同幻想のうち男性または女性としての人間がうみだす幻想をここでとくに対幻想と呼ぶことにした。
 法が人間の無限の欲望を規制することから生まれたすれば、たしかに法(共同の幻想)と欲望(個人の幻想)は逆立ちの関係にあると言えます。

戦争体験
 『共同幻想論』は、『遠野物語』と『古事記』を下敷きに「禁制論」「憑人論」から始まります。何故『遠野物語』と『古事記』かと云うと、吉本によると、日本には、国家権力や法といった西欧型の国家(社会契約論的)や中国の中央集権国家のイメージとは異なり、民族や同胞という概念によって形作られた国家イメージがあるといいます。これは、国のために死ぬという大義は、個人においては、家族、同胞、民族のための死と置き換えられた戦時の体験にあると思われます。

 著者によると、『共同幻想論』には吉本の敗戦体験が色濃く反映されていると言います。天皇制は民主主義に変わり、敗戦によるパラダイムシフトは吉本の精神に深刻な混乱を与え、「国家とは何か?」という命題が突きつけられます。吉本は、時代がどう転んでも揺るがない絶対性を模索する人間として戦後を生きます。政治の変化によって変わる「国家論」ではなく、欧米流の近代国家論や戦後の流行のマルクス主義国家論(唯物史観)とは異なる独自の「国家論」、時代の変化に左右されない究極の「国家論」を模索したのです。その精神の営為が『共同幻想論』を生んだと言うのです。吉本は、価値観の変動にも左右されない思想の確立を目指したのです。

関係の絶対性
 吉本は、戦前の天皇制も戦後の民主主義も、人が抱く幻想、集団の構成員が共通に抱く幻想だと考えたわけですが、さらに考察の対象は幻想そのものへと踏み込みます。天皇制、民主主義、宗教にしろ、「なぜ人はなにかを信じてしまうのかる」という疑問です。「信じる」とはどういう構造を持っているのか?。人がある想念を抱く(信じる)ことは、人と人、人と環境の「関係」に支配された結果だと結論付けます(当たり前と言えば当たり前)。著者は、『マチウ書試論』引用します。

(人間は自由意志を持っているが)人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(略)関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。(略)秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。

 著者は、これらが『共同幻想論』を読み解く鍵だと言います。

タグ:読書
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