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先崎彰容 吉本隆明 共同幻想論(2)-2 (2020NHK出版) [日記 (2022)]

吉本隆明『共同幻想論』 2020年7月 (NHK100分de名著)続きです。元々が難解な論考ですから、解説書といえど読んでも分かり難いです。

農耕社会の共同幻想
穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、 分娩し、男性の分担も加えて育て、 成人させるという時間性がちがうのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の〈対〉幻想とのちがいを意識し、またこの差異を獲得していったのである。(略)それを人間は農耕祭儀として疎外するほかに矛盾を解消する方途はなくなったのである。農耕祭儀がかならず〈性〉的な行為の象徴をなかに含みながらも、ついに祭儀として人間の現実的な〈対〉幻想から疎遠になっていったのはそのためである。(対幻想論)

 妊娠、出産、子育てしながら米を育て収穫する、この二つを同時平行にすると色々不都合が生じます。それを乗り越える(解消する)手段が収穫祭などの農耕祭儀だと言うのです。性行為による妊娠出産が対幻想の領域なら、農耕祭儀は共同幻想の領域です。吉本は、こうして対幻想から共同幻想が生まれたと言うのです。男女がペアになって生活し、自衛のため狩猟のために群れて生活するようになると、共同の約束事が生まれ共同の幻想が生じたのでしょう。農耕社会になって共同幻想が生まれたというより、顕著になったと理解します。エンゲルスの方は、ツッコミ所はあるものの比較的スンナリ理解できますが…。

遠野物語(タナトス的共同幻想)
 吉本は、『古事記』で、対幻想から共同幻想が生まれる構造を解き明かしました。著者はこれをエロス的関係と捉え、一方『遠野物語』の分析をタナトス(死)的関係から共同幻想を考察したと考えます。吉本は、『遠野物語』から「鳥御前」という鷹匠が山で異形の者と出会い、これを討とうとして果たせず家に帰り3日に死んだ話、「蓮台野(デンデラノ)」に捨てた(棄老、姥捨て)お婆さんが霊となって帰ってくる話を引きます。「鳥御前」は遠野の村人の共有する「祟り」。「蓮台野」は、深沢七朗『楢山節考』で有名になった「姥捨て」「口減らし」の話です。村落共同体を維持していくために、働けなくなった老人は邪魔な存在なので、老人が六十歳となると家族が「姥捨て山」に捨てる風習です。遠野に限らず、日本全国に流布しているそうです。
 家族や隣人を捨てることは精神的葛藤を伴います。人が死んだらこの世とは異なる他の世界=他界に行くという伝承を作り出し、村落共同体から排除する葛藤から逃れようとしたわけです。

 人の死に結び付く「鳥御前」、「蓮台野」は村落共同体が生み出した共同幻想だと言います 。

人間の生理的な〈死〉が、人間にとって 心の悲嘆や怖れや不安としてあらわれるとすれば、このばあい 〈死〉は個体の心の自己体験の水準にはなく、想像され作為された心の体験の水準になければならない。そしてこのばあい想像や作為の構造は、共同幻想からやってくるのである。(他界論、著者引用)

死が体験できない以上、死は「想像」の領域にあり、容易に共同幻想に転化します。死に関わった体験を持つ村人全員が、死を祟りや霊として共有しているわけです。コッチは、対幻想→共同幻想に比べると分かり易いです。

 著者は、吉本の「共同幻想」は対幻想と時間性、死(他界)の3つの要素で成り立っていると結論付けます。『遠野物語』の話は納得できるのですが、『古事記』の対幻想と時間制は、イマイチ未消化。後ほど原典を読んでみます。

タグ:読書
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