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六草いちか それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影(2013講談社) [日記 (2023)]

それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影
 『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の続編です。エリスとは、森鴎外の『舞姫』のヒロインで、ドイツ留学時代の恋人。鷗外の後を追いかけて来日にしますが、鷗外はこれを追い返したという(日本文学史では)曰く付きの女性です。前作で著者はエリスが1866年生まれのエリーゼ・ヴィーゲルトであること、ドイツに帰って後1904年まで帽子製作者としてベルリン東地区住んでいたことを突き止めます。本書は1904年以降のエリーゼを追ったノンフィクションです。

エリーゼは鷗外の子を産んだのか?
 第1章から刺激的なタイトルです。『舞姫』ではエリスは豊太郎の子供を身ごもっていますから、エリスも鷗外の子供を産んだのではないかという想像は可能です。鷗外の妹・小金井喜美子は鷗外とはこんな会話をしたといいます。

喜美子:ほんとにお気の毒の事でした、妊娠とかの話を聞きましたが
鴎外:それは後から来ようと思ふ口実だつたのだらう、流産したとかいふけれどそんな様子もないのだから、帰って帽子会社の意匠部に勤める約 束をして来たといつて居た。いや心配をかけた宜しくいつていや心配をかけた宜しくいつてくれ。

と書いています。さらに、鷗外の母・峰の日記に、1904明(治34年)から1907年(明治40年)まで毎月80円がドイツに送金した記載があります。その前後に送金があったかどうかは不明です。エリーゼが来日した1888年に妊娠の話があった(鷗外は否定)、その後毎月ドイツに送金している、このふたつからドイツへの送金は養育費と考えても不思議はありません。で、著者の鷗外子供探しが始まります。

 この女(エリーゼ)とはその後長い間文通だけは絶えずにいて、父は女の写真と手紙を全部一纏にして死ぬ前自分の眼前で母に焼却させたと言う。(小堀杏奴 『晩年の父』)

鷗外の娘・杏奴が母親・志げに聞いた伝聞ですが、1888年にエリーゼと別れて後文通していた様です。1904年5/6の峰の日記に「於と(鷗外長男)、横文字の手紙を(鷗外が出征している日露戦争の)戦地に出す」とありますから、エリーゼからの手紙を転送したのでしょう。

エリーゼは結婚していた
 州立公文書館、婚姻届からエリーゼが1905年に38歳で結婚していたことが明らかになります。夫は2歳年上のマックス・ベルンハルド。さらにエリーゼの死亡届けも見つかり、1953年にベルリンの老人ホームで86歳で亡くなっています。鷗外とエリーゼの関係をまとめると、

1866年(慶応元年)エリーゼ:9/15シュチェチンで生まれる
1876年(明治9年)エリーゼ:ベルリンカイザー・ヴィルヘルム通26番地に住まう
1887年(明治20年)
 鷗外:4月、第一の下宿に移り、ベルリンでコッホの衛生試験所に入所、6月第二の下宿クロースター通97番地に転居、この頃エリスと知り合う
1888年(明治21年)
 鷗外:3月プロシア近衛歩兵第2連隊で軍隊任務に就く、4月第三の下宿に転居、7月帰国の途、9月8日帰国
 エリーゼ:9/12来日、10/17ドイツに帰国
1889年(明治22年)
 鷗外: 登志子と結婚、賀古鶴所、山県有朋と訪独
 エリーゼ:住民登録の職業は「裁縫業」
1890年(明治23年) 鷗外:『舞姫』発表、登志子と離婚
1901年 エリーゼ:住民登録の職業は「帽子制作」
1902年(明治35年) 鷗外:志げと再婚
1904年(明治35年) 鷗外:ドイツに送金の記録(1907年まで、峰の日記)
1905年 エリーゼ:マックス・ベルンハルドと結婚、住居ハーゼンハイデ48番地
1918年 エリーゼ:マックス死亡
1922(大正11年)鷗外:死亡
1953年 エリーゼ:死亡

 婚姻届に記載された立会人エルスベス・フェターがエリーゼの妹であることが分かり、エルベストの子孫からエリーゼの写真にたどり着きます。遂に著者はエリーゼに「会えた」のです。
下宿.jpg IMG_20230128_0002.jpgエリーゼ2.jpg
97が鷗外の下宿、26がエリーゼの住まい

声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり
 鷗外とエリーゼが何時何処でどのように出会ったかは未だ明らかになっていません。1887年4月にミュンヘンからベルリンに移り、1888年7月に帰国の途につくまでベルリンで3ヵ所の下宿に住んでいます。この第2の下宿がクロースター通97番地。著者の今回の調査で、エリーゼが住んでいたカイザー・ヴィルヘルム通26番地とは目と鼻の先。同じ町内会ですから、1887年6月以降に

今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。(舞姫)

のような出会いがあったんでしょうね。鷗外は、1988年4月に第3の下宿に転居しています。7月に帰国を控えた鷗外がこの時期に転居する理由はありません。鷗外とエリーゼの仲が進展し、同棲を始める為の下宿であったと考えて不思議はありません。鷗外はエリーゼを第3の下宿に移し、一旦帰国してベルリンに帰ってくるつもりだったのでしょう(とまでは著者は書いてませんが)。

我をば欺き玉ひしか
 賀古鶴所は、鷗外の遺書を口述筆記し「一切秘密無ク交際シタル友」と記した親友で、鷗外の意を受けて来日したエリーゼの帰国にも一役買っています。1889年(明治22年)に山県有朋の随員としてドイツを訪れています。鷗外は賀古にエリーゼの様子を見てくるように頼んだはずです。著者は、このとき賀古がエリスと会い鷗外がドイツに戻る意思のないこと、登志子との結婚が進んでいることを伝えのではないかと推測します。『舞姫』の「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」の言葉はこの時のエリスの発言だったと想像します。

 一族総出でエリーゼを追い帰し、彼女を「路頭の花」と呼んだ小金井喜美子の発言にカチンと来た著者は、エリーゼの名誉回復のために彼女の真実の姿を追いかけたわけです。結局、「エリーゼは鷗外の子を産んだのか?」という謎は解明されないまま本書は終了します。

 鷗外は、帰国に際しエリーゼと暮らす「第三の下宿」を用意し、彼女を日本に呼んで両親に引き会わせ、結婚とドイツに行くことの許諾を求めたと想像されます。鷗外は(森家の実権を握っていた)母・峰の反対に会い、エリーゼを裏切り森家の家長を選択をします。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」の遺言を口述筆記したのは、「鷗外の裏切り」をエリーゼに伝えた賀古鶴所です。「石見人森林太郎」の中にはドイツでの青春と悔悟が込められているのかも知れません。

タグ:読書
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