SSブログ

吉本隆明 共同幻想論 (1) 「母制論」(1968河出書房新社) [日記 (2023)]

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)
吉本隆明『共同幻想論』 2020年7月 (NHK100分de名著)
  先崎彰容『吉本隆明 共同幻想論』によると、『共同幻想論』は、

 1)集団生活が原始的な共同体以来もち続ける「禁止」の意味を考察した「禁制論」
 2)その禁止が、特定の人物に集約される過程を追いかけた「憑人論」「巫現論」 「巫女論」
 3)共同性の感覚が、宗教的な集団観念として具体化される過程を分析する「他界論」「祭儀論」
 4)家族から、国家の誕生を明らかにした「母制論」→いまココ「対幻想論」「罪責論」
 5)国家=法の成立と邪馬台国の誕生を見届ける「規範論」 「起源論」

に分類されると言います。「母制論」から読むと『共同幻想論』は理解できるという先崎氏のアドバイスに従うことにします。難解な『共同幻想論』を私なり読む〈メモ〉みたいなものです。

エンゲルスの集団婚説
人類の共同性がある段階で〈母系〉制の社会をへたことは、たくさんの古代史の学者にほぼはっきりと認められている。

 吉本は〈母系〉制はどの様に生まれたか、その本質は何かを探ります。〈母系〉制が生まれるのではなく、〈母系〉制の心的な構造の解明です。俎上に上るのはエンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』。エンゲルスは、〈母系〉制→氏族制→国家の発展段階の最初に、最も原始的な家族形態として〈嫉妬〉から開放された「集団婚」を想定します。集団において男全員が女全員を性的に所有し合うというものです。集団婚において、子供の〈父〉がたれであるかを知っているのはその子供を生んだ〈母〉だけであり、血統は〈母〉方によって受け継がれ〈母系〉制が生まれると云うものです。有名な一節です。

兄弟姉妹の対幻想
 吉本は、例えば村のような共同体で、村人は子供の父親が誰であるかを知っている筈であるとして、エンゲルスの集団婚→〈母系〉制を否定します。〈母系〉制は

部落内の男・女の〈対なる幻想〉が共同幻想と同致しえたときにだけ成立する(2056)

と。字義通りに解釈すれば、〈対なる幻想〉とは男女(あるいは家族、兄弟姉妹)がお互いに結びついているという思い(性的とは限らない)、共同幻想とは集団が一つの観念を共有しているということで、その2つが同致した場に〈母系〉制が生まれる、と云うこと。同致というのも造語で、共同幻想が対幻想を包み込んでいる、あるいはダブっている状況かと思われます。
 対幻想が部落の共同幻想に同致するためには対幻想が〈空間〉的に拡大しなければならないとした上で、この対幻想は夫婦ではなく、兄弟姉妹の間の対幻想だとします。

それは〈兄弟〉と〈姉妹〉が自然的な〈性〉行為をともなわずに、男性または女性としての人間でありうるからである。いいかえれば〈性〉としての人間の関係が、そのまま人間としての人間の関係でありうるからである。それだから〈母系〉制社会のほんとうの基礎は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致するまでに〈空間〉的に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる。(2076)

その根拠を、古事記のアマテラス、スサノオの「誓約(うけい)」、南島久高島の女性が巫女の資格を得る祭儀〈イザイホウ〉に求めます。「誓約」は

原始的〈母系〉制社会の本質が集団婚にあるのではなく、兄弟と姉妹のあいだの〈対なる幻想〉が種族の〈共同幻想〉に同致するところにあり、この同致を媒介するものは共同的な規範を意味する祭儀行為だということが大切なのだ。そして〈母系〉制の社会はこういった共同的な規範を意味した祭儀行為を、種族の現実的な規範として、いいかえれば〈法〉としてみとめたとき〈母権〉制の社会に転化するということができる。(2105)

古事記の方は想像出来ませんが、南島久高島の〈イザイホウ〉はイメージし易いです。イザイホウは、祭儀が終わると女性(ナンチュウ)たちは兄弟が作った団子で頬に印を付けて貰います。

〈 兄弟〉がつくっ た団子で印しをつけてもらうという儀式がおこなわれるのは、神の託宣を女たちが〈兄弟〉とむすびつけるものとかんがえられ、これが何を意味する擬定行為かはわからないとしても、共同規範の〈姉妹〉から〈兄弟〉への受授を物語っていることはほぼあきらかであろう。(2151)

儀式を通過した巫女たちの〈 兄弟〉が、部族において現世的な支配権を持つ条件を準備したと仮定すれば、巫女たちの共同規範はすぐに実的な政治的強力へと転化することができるからだ。(2160)

卑弥呼が神事を司り弟が卑弥呼の託宣を伝える役を担っていたという『魏志倭人伝』の記述を連想します。
 では古事記とイザイホウをどうやって「母権制」に繋げるのか?。

〈兄弟〉と〈姉妹〉のあいだの〈対なる幻想〉は、自然的な〈性〉行為に基づかないからゆるくはあるが、また逆にいえばかえって永続する〈対幻想〉だともいえる。そしてこの 永続する という意味を空間的に疎外すれば〈共同幻想〉との同致を想定できる。これはとりもなおさず〈母系〉制の社会の存在を意味している。(2204)

疎外とは「あるものから生じたものが、そこから離れて、生じた元と対立関係を生ずること(wiki)」とすれば、〈兄弟〉と〈姉妹〉対幻想が家族を飛び越えて共同体の意識と混じり合うると云うのです。対幻想も共同幻想も「幻想」には違いないので、そう云うこともあるわけでしょう。

母系制から氏族制へ
 〈母〉が死ぬと兄弟姉妹の対幻想は解体され、兄弟たちは母と関係のない女性と結婚し部落の外に四散します。

同母の〈姉妹〉と〈兄弟〉は〈母〉を同一の崇拝の対象としながらも、空間的には四散し、またそれぞれ独立した集団をつくることになる。〈姉妹〉の系列は世代をつなぐ媒体としては尊重されながら、現実的には四散した〈兄弟〉たちによって守護され、また〈兄弟〉たちは〈母系〉の系列からは傍系でありながら、現実的には〈母系〉制の外にたつ自由な存在になる。ただ同母にたいする崇拝の意識としては、いいかえれば制度としては、この〈母系〉の周辺に存在するだろう。ここに氏族制へ転化する契機がはらまれている。

分かった様な分からないような話ですが、エンゲルスの「集団婚」より古事記とイザイホウから母制を導く吉本の方が実証的です。→(2)対幻想論

タグ:読書
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。