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森万佑子 韓国併合  (2) 日清戦争 (2022中公新書) [日記 (2023)]

韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで (中公新書 2712) 続きです。李朝末期の内政外交を年表にすると、

1864:大院君政権樹立
1866:   丙寅教獄(キリスト教徒弾圧)、米シャーマン号事件、丙寅洋擾(フランス)
1868:   明治維新(書契問題)
1871:   辛未洋擾(米の江華島攻撃)
1873:高宗親政大院君失脚、閔妃台頭
1875:    江華島事件
1876:    日朝修好条規(独立国か?)
1882:壬午軍乱(清が大院拉致)、米朝修好条約(属国自主の書簡)、商民水陸貿易章程(属国の明文化)
1884:甲申政変(開化派によるクーデター、閔妃失脚
1885:               袁世凱ソウルに常駐
1886:   露朝密約事件
1887:   駐米、英、露、仏大使任命
1894:甲午農民戦争 →日清戦争甲午改革
1895:乙未事変(妃暗殺)
1896:露館播遷
1897:大韓帝国(下関条約)

 著者は、李朝末期は西洋列強が持ち込んだ「条約体制」が「朝貢体制」浸透する過程だとします。属国であれば条約は結べませんから、そこで問われるのは「朝鮮は独立国か中国(清)の属国か?」という問題です。日本は、日朝修好条規(1862)で中国との宗属関係を否定せず朝鮮が独立国であることを認める曖昧な立場を取り、清は米朝修好条約(1882)の付属書簡、中朝商民水陸貿易章程(1882)の前文で

 朝鮮は中国の属国であり、内政外交は自主である(米朝修好条約の書簡)
 朝鮮は久しく中国の藩封に列し、このたび締結する水陸貿易章程は中国が属邦を優待する意からなるものである(中朝商民水陸貿易章程の前文)

と明言します。つまり、朝鮮は「属国自主」の国と主張します。

 1890年代に入ると、この属国自主の問題が一気に表面化します。兵士による壬午軍乱(1882)が起き、朝鮮は清に鎮圧を依頼。一方、開化派によるクーデター甲申政変(1884.12 →閔妃失脚)が起き、清の介入によって政変は潰されます。清は失政の続く大君院を北京に拉致し(1882.8)袁世凱をソウルに常駐させます(1885.11)。続いて全羅道では官吏の悪政に反発し甲午農民戦争(1894.2月)が起き、朝鮮は又も清に派兵を要請、天津条約に基づいて日本も朝鮮に出兵(1894.6)します。両軍の衝突によって日清戦争が始まるわけです(1894.7)。この清の派兵に際し、大鳥公使は朝鮮が清に出兵要請文にある「保護属邦」について質します(1894.6)。朝鮮は独立国だと言わせたいわけです。内政の失敗によって、清の属国だが内政外交は自主という朝鮮の「属国自主」は崩れ、清の属国化は強まります。国内問題を自ら解決出来ず宗主国に頼るわけですから独立国ではなく「属国」です。
 甲午農民戦争から日清戦争に至る過程は、朝鮮の独立をめぐる日清の駆け引きです。

日清戦争は世界史の分水嶺と言われる。日清戦争の前と後では、中国の存在感がまったく異なるからだ。東アジアで中華秩序は旧習となり、中国の空白を埋めるかのように日本が勃興し、日本を警戒するロシアが台頭する。(p.41)

 日清戦争で日本は勝利し、下関条約第一条は、

清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。よって、右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は、将来まったくこれを廃止すべし。

 独立と言っても、朝鮮の宗主国が清から日本に代わると云うことに他なりませんが。日本は何故ここまで朝鮮に拘ったのか?。朝鮮公使にも、大鳥圭介、井上馨の大物起用しています。日本は朝鮮を植民地としたかったのかと云うと、朝鮮に見るべき産物は無く日本の物産を消費する国民もいません。植民地としては不適確な国です。では何故朝鮮に進出する必要があったのか。日本が恐れたのは、不凍港獲得を目指すロシアの南下政策だと思われます。ロシアが朝鮮を侵略すれば日本のマジノ線は対馬海峡となります。日本としては、朝鮮を独立国としてロシアの南下を防ぐ防御線としたかったのでしょう。

 李朝末期の朝鮮は、属国自主どころか属国です。日清戦争によって独立を果たしのではなく、宗主国が清から日本に代わっただけだと思われます。

1) 朝貢体制と条約体制 2)日清戦争 3)甲午改革、露館播遷 4)高宗と独立協会 5)朝鮮から大韓帝国へ (6)日韓議定書、日韓協約 (7)高宗の譲位、伊藤博文の朝鮮政策 (8)日韓併合、歴史認識


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