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森万佑子 韓国併合 (4) 高宗と独立協会 (2022中公新書) [日記 (2023)]

韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで (中公新書 2712)朝鮮紀行 (講談社学術文庫) 反日種族主義との闘争 (文春e-book)








 続きです。

1894年:甲午農民戦争、7/25日清戦争、甲午改革
1895年:4/17下関条約(朝鮮独立)、10/8閔妃暗殺
1896年:2/11露館播遷、4/7独立新聞創刊、6月独立門改修、7/2独立協会設立、9/24内閣廃止
1897年:2/20高宗還宮、5/1上疏、6/3史礼所設置、8/13断髪令廃止、10/1圜丘壇着工、10/12高宗即位=大韓帝国成立

皇帝になりたい高宗
 1896年2月に高宗はロシア公使館に逃げ込み、公使館から勅令を出し国政を執ります。国政を執るといっても、やったのは、内閣(議政府)、財務省(度支衛門)を廃止し、行政区画や、教育制度を元に戻すという1894年に始まった甲午改革の否定です。従って、甲午改革は露館播遷で終焉します。またアメリカに京仁鉄道敷設権と雲山金鉱採掘権、ロシアには咸鏡道慶源・鐘城の鉱山開発権と鴨緑江・鬱陵島の伐木権などを売り払います。

 朝鮮は、下関条約で冊封関係が無くなり清と対等の独立国となり、高宗の呼称も「殿下」から中華皇帝同様に「陛下」となります。高宗は皇帝になることを目論み、皇帝即位式の祭壇「圜丘壇」の建造を指示し、皇帝即位を求める「上疏」を側近に命じます(中華世界では、皇帝即位は臣下からの推戴される)。帝国に見合った国家典礼を整備する役所「史礼所」を設け、大韓帝国に向けて着々と準備を進めます。

 高宗はどんな人物だったか?、イザベラ・バードのによると

落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居ずまいやものごしに威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。会話の途中、国王がことばにつまると王妃がよく助け船を出していた。・・・王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。・・・その意志薄弱な性格は致命的である(朝鮮紀行)

 『反日種族主義との闘争』よると、高宗は、在位期間に合わせて七回も外国公使館への播遷(逃避)を試みたらしいです。1882年に壬午軍乱が起きると日本公使館に播遷を打診し(第1回目)、1894年甲午農民戦争が起きるとアメリカ公使館に避難を打診、アメリカが断るとイギリスに →これも拒否されます。1896年に閔妃暗殺事件が起き、4回目でやっとロシア公使館に逃げ込むことに成功します。日露戦争が始まると、またも2回目の露館播遷を打診し(断られる)、日本軍が韓国に上陸すると、イギリス、フランス、アメリカに播遷を頼み込む始末。

(高宗)にとっての国家とは、祖先から譲り受けた家産としての王業でした。民の生命と財産を支配すると同時に保護するという、統合的で双務的な秩序としての国家意識は、彼には存在しませんでした。それで危機が迫るたびに、新しい宗主国を求め、繰り返し他国の公館に身を避けることばかりを考えていたのです。臣下や民と一緒になって、甲冑を身に付け、彼の王国を生死をかけて守り抜こうという意思は、その発想すらありませんでした。(『反日種族主義との闘争』3709)

 この高宗の下で日韓併合が行われるわけです。高宗という王を持った朝鮮の悲劇です。

近代化を目指す独立協会
 一方で4月に開化派の徐載弼によって「独立新聞」が創刊されます。独立新聞はハングルを使い(英文併記)、国民・国家の形成を朝鮮に移植しようと意図した新聞です。7月には独立と近代化を目指す政治団体「独立協会」が設立され、民間に独立の機運が高まります。高宗の圜丘壇を意識したのかどうか、独立協会はモニュメント「独立館」「独立門」を建造します。

「清からの独立」を可視化する新たな事業を始めていた。「清国に属する人」だと思ってきた朝鮮人の意識を改めるためである。それは、過去に中国皇帝が派遣した使節が、朝鮮に到着したとき、朝鮮の王世子や百官が出迎える場所で、中国の使節を盛大にもてなした「慕華館」とその前に立った「迎恩門」を、それぞれ「独立館」「独立門」に改修・改称(p101)

します。ちなみに今日の韓国では、独立門は清ではなく日本からの独立の門と捉えられているそうです。

 高宗は、保守へ舵を切って大韓帝国を目指し、独立協会は近代化へ舵を切り、このチグハグさが面白いです。高宗は国家元首ですから、朝鮮国のために独立協会と共に近代化を進めても良かった筈ですが、私利私欲に走ったわけです。

独立新聞を創刊し独立協会の立役者である徐載弼は、

一八八四年の甲申政変では、主役の一人として参画。失敗後、金玉均・朴泳孝・徐光範とともに「四凶」の反逆者とされ日本に亡命。その後、朴泳孝・徐光範とともにアメリカに渡った。なお、当時の法( 縁坐) により徐載弼の家族は自殺を強いられるか、惨殺された。  渡米後、帰国は難しいと考えた徐載弼は、アメリカ国籍を取得し、Philip Jaisohnと改名。一八九〇年からはアメリカ陸軍軍医図書館の翻訳官として働きながら、コロンビア医科大学夜間部で学び、医師の資格を取得した。(P94)

趙廷来の長編「歴史」小説『アリラン』は累計350万部売れたそうですが、金玉均(甲伸政変)、全琫準(甲午農民戦争)、徐載弼を主人公に、甲伸政変 →甲午農民戦争 →甲午改革 →大韓帝国の十余年を小説に描けば500万部は固いでしょうw(それとも焚書か?)。

1) 朝貢体制と条約体制 2)日清戦争 3)甲午改革、露館播遷 4)高宗と独立協会 5)朝鮮から大韓帝国へ (6)日韓議定書、日韓協約 (7)高宗の譲位、伊藤博文の朝鮮政策 (8)日韓併合、歴史認識


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