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森万佑子  韓国併合  (6)  日韓議定書、日韓協約 (2022中公新書) [日記 (2023)]

韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで (中公新書 2712)
1904:2/10日露戦争、2/23日韓議定書、8/19第1次日韓協約(財政外交の掌握)
1905:7/29桂・タフト協定、8/12第2次日英同盟、9/5ポーツマス条約、11/10伊藤博文訪韓、11/17第2次日韓協約(保護国化)
1906:2/1統監府設置
1907:6/26バーグ密使事件、7/20高宗譲位、7/24第3次日韓協約
1908:東洋拓殖会社
1909:1月純宗巡幸、5/25伊藤統監を辞任、7/6韓国併合を閣議決定、10/26伊藤博文暗殺、韓国銀行、南韓大討伐作戦、12/4一進会の日韓合邦声明
1910:8/22日韓併合、8/29朝鮮の冊封

 日露戦争開戦の2週間後、1904年2/23に日韓議定書が調印されます。

日本軍は、日韓議定書第四条に則って、鉄道の軍用使用、人夫募集、物資動員、軍用地のための土地収用を行う。一九〇四年三月半ばに平壌を占領後、平壌─ 元山以南の地域で、大韓帝国駐箚軍とその憲兵隊で民衆の抵抗を鎮圧した。(p164)

日韓協約
 続いて日本は政府は「対韓経営計画実施方針」を閣議決定し、大韓帝国に示します。

1)財政を司る度支部への「財務監督」の導入
2)外交を司る外部への外国人顧問の導入
3) 条約締結・外交案件処理について日本政府との事前協議

財政と外交を日本政府の指導のもとに置くということです。大韓帝国は抵抗を示しますが、8/19これが「第1次日韓協約」として調印されます。その他にも、日本政府は軍部、警務、学部などに日本人を配置し、顧問を通じて大韓帝国の内政支配を強めてゆきます。

日露戦争に勝利した日本は、アメリカ、イギリスに続きロシアからも大韓帝国への保護権の承認を得て、大韓帝国の保護国化に歩を進める。日露講和条約締結から三ヵ月後の一九〇五年一一月一七日に日韓保護条約とも呼ばれる第二次日韓協約( 保護条約) を締結する。
この条約によって大韓帝国は外交権を日本に掌握され、統監府を設置されて、内政全般が事実上、日本の支配下に置かれることになる。(p169)

日本は、アメリカのフィリピン支配(桂・タフト協定)、イギリスのインド領有(第二次日英同盟)と交換に、日本の大韓帝国の保護国化を承認させ、日露講和条約(ポーツマス条約)においてロシアにもこれを承認させます。

日韓協約を巡る  伊藤博文 vs. 高宗
 1905年11/10に伊藤博文は訪韓して高宗に親書を出します。伊藤博文 vs. 高宗のやり取りが面白いです。「」内は、日本側の資料『外交資料 韓国併合』からの引用です、たぶん。なかなかリアルです。

伊藤:「大韓帝国は不幸にして国防もいまだ備わらず、自衛の基礎もいまだ固まらず、東亜全局の平和を確保できない」ので、日韓議定書の趣旨を発展させて「両帝国間の結合を一層強固」にしよう。つまり、アンタがウロチョロロシアに近づくと日本の安全保障にかかわる、ということです。

高宗:閔妃暗殺についても、「もちろん凶行の実行は、朕の待臣および雑輩によって醸成されたものであるけれども、彼輩は日本の勢力を頼りにして行ったのは事実である」と1985年以来の日本の介入を非難します。続いて高宗は、日本による財政整理への不満、日本による郵便事務や通信機関の整備は「指導」を超えて「監理」であり、大韓帝国は「 袖手傍観」するのみだと非難した。

伊藤:大韓帝国はいかにして今日生存できているのか」「大韓帝国の独立は 何人 の 賜 ものなのか」と 居丈高 に話し、さらに通訳の発言を 遮り、「貴国における対外関係、いわゆる外交を貴国政府の委任を受け、わが政府がこれを代わって行う」、と恫喝。

高宗:大韓帝国の独立国家としての体面だけは残したい、事が重大なので、自分がいますぐに決裁することはできない、大臣たちと相談させてくれ。

伊藤:貴国は憲法政治にあらず。万機すべて、陛下の御親裁に決すという、いわゆる君主専制国ではないのか

高宗:(狼狽!)では外務大臣と公使に協議させて、その結果を政府で検討して最終的に皇帝が裁可する。(p171〜175)

生まれながらにして殿下、のち陛下であった高宗と片や百姓の子からの叩き上げ、役者が違いますw。

 11/17、林公使と外部大臣朴斉純の交渉が開始され、日本軍は威嚇のため漢城に入城します。高宗臨席の御前会議が開かれ、大臣たちは協約拒絶を上奏し会議は紛糾。結論が出ないため、高宗は、大臣に協約案を協議させ妥協をとげさせるの伊藤に周旋を依頼します。伊藤はこの高宗の「周旋」依頼を利用し大臣たちを説得し、賛成5、反対2、別席1で11月18日に第二次日韓協約を調印します。

ハーグ密使事件
 
 高宗が反撃します、一度結んだ条約をひっくり返すのいつものこと。高宗は、第二次日韓協約の無効を訴えるため、1907年6月のオランダ・ハーグで第二回万国平和会議に役人2名と米国人1名を派遣します。日本の手が回っていたため、頼みのロシア代表、オランダ外務省にも面会を断られます。これを契機に、日本は大韓帝国の内政掌握に動き出し、これが後の第三次日韓協約につながります。


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