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森万佑子 韓国併合  (7) 第3次日韓協約、伊藤博文の朝鮮政策 (2022中公新書) [日記 (2023)]

韓国併合-大韓帝国の成立から崩壊まで (中公新書 2712)
1907:5/22李完用内閣、6/26バーグ密使事件、7/20高宗譲位、7/24第3次日韓協約、軍隊解体、義兵運動、8/27純宗即位
1908:東洋拓殖会社、
1909:1月純宗巡幸、5/25伊藤統監を辞任、7/6韓国併合を閣議決定、10/26伊藤博文暗殺、韓国銀行、南韓大討伐作戦、12/4一進会の日韓合邦声明
1910:8/22日韓併合、8/29朝鮮を冊封

高宗の譲位
 バーグ密使事件は日本政府内でも問題視されますが、高宗譲位の話までは出ません。譲位は大韓帝国から火の手が上がります。

『日本外交文書』によると、一九〇七年七月六日、李完用は伊藤統監を訪ねてハーグ密使事件の重大さゆえ「国家と国民とを保持すれば足る。皇帝の身上の事に至っては 顧る必要はない」と高宗の皇帝譲位をほのめかした。(p190)

総理大臣の李完用始め閣僚一同も譲位を促します。つまり身内からも見捨てられ、高宗も譲位を決断します。ハーグ密使事件(6/26) から一ヵ月も経たずに7/20高宗は攘夷します。

明治天皇は伊藤統監宛に自らの考えを渡韓する林董外相に託している。その内容は、大韓帝国皇帝の心事、実に定まらず、日韓協約も表面上のみで、何度変動したかわからない。今度の期に際し、大韓帝国皇帝の頭脳を改良し、将来、強固不変動な方法を立てるように、というものだった。(p192)

なんと明治天皇まで高宗に不信感を持ち、「大韓帝国皇帝の頭脳を改良」と言い出したのです。

第3次日韓協約
 「日韓併合」は、1904年の日韓議定書に始まり、第1~第3次日韓協約を経て1910年の併合となります。

日韓議定書(1904) →①侵略、内乱等の際には、日本政府は必要な措置を取る、韓国政府は日本政府に十分な便宜をあたえる、②日本政府は軍略上必要な地点を臨機収用できる、③この協約に違反する協約を第三国との間に結ばない。

第1次日韓協約(1904) →①「財務監督」の導入 、②外務部への外国人顧問の導入 、③条約締結・外交案件処理に日本政府との事前協議  →外交権の剥奪

第2次日韓協約(1905) →①外交は日本の外務省が仕切る、②大韓帝国は単独で条約を結べない、③皇帝の下に統監を置く →保護国化

第3次日韓協約(1907) →①官僚の任免権は統監が有する、②官僚、官吏に日本人を登用することができる。協約締結後ただちに大韓帝国の軍隊を解散させた。→内政の完全掌握

 第3次日韓協約により高級官吏の任免権が統監に移り、韓国政府の官吏に日本人が登用可能となったため

1908年末までに、日本人官吏は総数約2,000名で、財務を司る度支部では1,685名中、約半数の825名が日本人だった。そのほか、法部や農商工部で日本人官吏の割合が高く、一方で皇室関係の儀典を管掌する宮内府や朝鮮人子弟の教育を担う学部では日本人官吏の割合が低かった。(p215)

大韓帝国政府の中枢は、完全に日本に乗っ取られたわけです。

伊藤博文の朝鮮政策
 ロシアの南下を阻止する目的で朝鮮半島に進出した日本は、日清、日露戦争の勝利で両国を排除し朝鮮を保護国とします。その立役者、伊藤博文は1905年に初代統監となり1909年に辞任します。伊藤は朝鮮を併合≒植民地にした張本人として安重根に暗殺されますが、伊藤は朝鮮を併合したかったのか?、

学界では一九〇七年七月の第三次日韓協約締結の頃を境に、保護国期の統治について「文化政策」と「自治育成政策」に分けて理解されている。これは伊藤博文統監の保護国化構想が、日本の財政負担を軽減しながら大韓帝国の自治を育成することで、朝鮮人から日本統治への合意を得ようとするものだったためだ。(p199)

伊藤博文は統監就任後の一九〇六年三月一三日、一〇〇〇万円の企業資金を日本から朝鮮に貸与し、普通教育振興、道路改修、水道新設、殖産興業、衛生施設の充実を推進する。日本の対韓政策の恩恵を受ける朝鮮人を増やす目的である。(p200)

伊藤の統監職就任は1905年12/21ですから(在位は1909年6/14まで)、1000万円を持って統監職に就任したわけです。伊藤が目指したのは保護国化で、併合までは当初考えていなかったと言います。1908年には東洋拓殖会社、1909年に韓国銀行を設立し、朝鮮の経済的自立を考えています。

伊藤は大韓帝国政府の存立を前提とし、出資者や役員に日韓両国の人を入れることで、朝鮮人の自発的な協力を引き出し、朝鮮人の利益を増進して統治コストを抑えようと考えたという。(p216)

1907年1月には明治天皇の巡幸に倣って純宗の巡幸が行われています。皇帝を国民に披露するわけですから、これも大韓帝国の存立が前提です。

(伊藤は)朝鮮人のための政策で、朝鮮人から感謝されるべきものと考えていた。だが、収束しない各地の義兵運動や、民衆の抗日行動から、併合やむなしとの考えに変わったと見られる。(p225)

 ところが高宗と政府の自主的な改革は期待できず、国民の激しい抵抗に会い、伊藤は併合やむなしに傾きます。


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