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現代史資料 1 スパイ・ゾルゲ  ドイツ大使館へ浸透 (2) [日記 (2023)]

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クーリエ
 オットのゾルゲに対する信頼は並々ならぬものがあります。1934年(昭和9)オットと共に満州を視察旅行し、1938年(昭和13)大使となったオットの伝書使(クーリエ)としてマニラ、香港、広東へ行き、1939年(昭和14)には上海に赴いています。機密文書を運ぶクーリエですから外交特権を持っています。

オット大使から特別な政治的使命を託されて行きました。其の内香港旅行丈けは之を私の秘密な諜報活動上の連 絡に利用したのでありますが、以下其の顛末を申上げれば次の通りであります。丁度西暦一九三八年(昭和十三年) 四、五月頃の事でありますが、私の諜報グループでは、伝送物が大分溜りましたので、私は之を香港に持って行き度いと思って居りました。
其処で私は独大使館に出掛けてオット大使に会ひ、新聞の用件で香港に行き度いと申出ました処、同大使から夫れでは大使館の伝書使になって行って呉れぬかと云はれましたので、私はこれ幸ひと思って早速承諾し、同大使館から其の伝書使の証明書を貰ひ、謂はば二重の伝書使として双方の伝送物を携へて先づマニラへ参り、同地では独大使館の伝送丈けを済ませて香港に渡り、同地で独大使館の伝送を果すと共に、予め日本出発前ラジオでモスコウ中央部と打合せて置いた通り其の伝書使に会って秘密の伝送物を授受したのであります。私は斯様に独大使館の伝書使たる証明書を持って居りましたお蔭で、日本は勿論マニラや香港でも米国や英国の官憲から検査を受けずに無事に済ます事が出来たのでありますが、 其の時私が携へて行った秘密な伝送物は文書、報告書簡等を写真に撮影したフィルムで、之は全部自分の腹に巻附けて持って行ったのであります。(237)

オット大使はソ連のスパイに外交文書を運ばせたわけです。

一石二鳥、三鳥
 ゾルゲの大使館利用はクーリエに留まりません。1934年(昭和9)オットとの満州視察旅行では「満州国に関する論説」を執筆して雑誌社に送り、二二六事件については「二・二六事件に関する論説」を執筆してオット経由でドイツ陸軍参謀本部トーマス将軍に送ります。1938年(昭和13)クーリエとしてマニラ及香港、広東行きは、「日支紛争下の香港に関する論説」『日支紛争下の西南支那即ち広東に関する論説』に結実し、オットに提出する一方、雑誌「ゲオポリティーク」に寄稿します。当然、モスクワにも報告したわけで、ジャーナリスト、オットの私設顧問、ソ連のスパイとして一石二鳥、三鳥の働きをします。

 雑誌「ゲオポリティーク」に掲載されたゾルゲの記事は、

1935,6月:『変革途上の満州国』(オットとの満州視察旅行)
1936,5月:『東京に於ける軍隊の反乱』(ニニ六事件の分析)
1937,1~3月:『日本の農業問題』
1937,5月:『内蒙古に関する論説』(ライプチッヒ大学教授と内蒙古へ旅行した成果)
1938,7,8月:『日支紛争下の香港』『日支紛争下の西南支那即』(クーリエとして訪れた際の調査、取材)
1939,2 3月:『支那戦争下の日本経済』(陸軍参謀本部トーマスの要請)
1939,8,9月:『日本の膨張』(トーマスの要請)

大使館の人脈や資料も利用し『支那戦争下の日本経済』『日本の戦時工業問題』を執筆し、独参謀本部に報告しています。例えば航空機、

即ち飛行機に就ては、マッキ武官のみならず、空軍武官ネーメッツからも不十分な資料を得たのみで、之に依って三菱、川崎、中島、愛知時計等の各工場の生産能力を記述し、自動車に就ては日産や豊田の各工場の生産能力を示しましたが、特に之等の性能が悪い点を指摘し、戦車に就ては大森や新潟の某工場の生産能力を示して之等の生産状態が悪いことを強調し、アルミニューム及人造石油に就ては独大使館経済部や空軍武官室に相当詳細な資料がありましたので、之を利用し、執れも非常な増産が行はれて居る点を述べ、製鉄に就ては年産六百万屯なる数字を示したのみならず、其の貯蔵量は一年半乃至二年間は大丈夫であることを指摘し、製鋼に就ては最近ベッセマー法なる直接製鋼作業が行はれて居り、年産二、三百万屯の状態であると云ふことを述べたのであります。勿論之等の計数は全部秘密なものでありました。
(241)

 ゾルゲによって日本の国力、戦争遂行能力が分析され、仮想敵国・ソ連に筒抜けとなっていることになります。ゾルゲをみると、諜報活動が情報を集め分析するインテリジェンスであることがよく分かります。

二つの論説の資料は極めて重要な資料でありましたので、独大使館で之を使用した際、秘密に全部写真に撮影して其の都度モスコウ中央部に送ったのでありまして、要するに私として之等の論説を研究執筆することに依り独逸側の信任を獲得すると同時に貴重な資料を諜報すると云ふ一石二鳥の効果を収めた訳であり、更に只今申上げた日本の戦時工業問題に関する最後の二つの論説を除き、 他の諸論説は其の都度秘密な部分や公表を憚る部分を削除して改作し、之を前述の雑誌ゲオポリティークに寄稿して居たのであります。
(241)

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 ライカ                 ロボット
 写真撮影はライカとロボットが使われています。現像とマイクロフィルムの作成は、ゾルゲ諜報団のヴーケリッチによって行われ、マイクロフィルムはゾルゲ自身やマックス・クラウゼンの妻アンナが上海に運び、ソ連のクーリエによってモスクワに運ばれます。

 オットが情報を提供し、ゾルゲが分析し報告書にまとめ、オットは報告書を本国に送り点数を稼ぐわけです。ゾルゲはその報告書を雑誌「ゲオポリティーク」に寄稿してジャーナリストとしての地位を固め、同時にスパイとしてモスクワに報告します。オットとゾルゲは持ちつ持たれつの関係だっわけです。

ゾルゲ、パートタイマーとなる
 ゾルゲの目覚ましい働きを見て、オットは正規の大使館員にならないかと誘います。大使館員となれば諜報活動に支障がでるためゾルゲは断りますが、代わりに情報宣伝課のパートタイマーとなりますw。

私は西暦一九三九年 (昭和十四年)十月第二次欧州戦乱勃発後独大使館情報宣伝課で情報関係の業務を取扱ふことになり、以後毎日午前六時から同十時頃迄の間同課に出勤して働きました。其の業務の内容は、第一には伯林からの各種情報中より重要なものを選定して之を上級館員が直に見ることが出来る様に準備することであり、第二には之等の情報中公表して支障のないものは日本の諸新聞や在留独逸人の為に取纏めることでありました。
そして斯様な業務は、私の秘密な諜報活動にとって極めて重要な意義を持って居たことは申す迄もないことで、私は之を自分の諜報に利用した訳であります(243)


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