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太田尚樹 尾崎秀実とゾルゲ事件(1):近衛文麿の影で暗躍した男(2016吉川弘文館) [日記 (2023)]

尾崎秀実とゾルゲ事件: 近衛文麿の影で暗躍した男  ゾルゲが赤軍情報部に送った電報を集めた『ゾルゲ・ファイル』を読むと、コードネーム・インベストこと尾崎秀実の情報の数と質に改めて驚かされます。ゾルゲがオット大使を始めドイツ大使館から独自に入手した情報も多いですが、尾崎なくしてはかくまでスパイ・ゾルゲが喧伝されることは無かったでしょう。

上海
 尾崎は1926年に朝日新聞に入社し、1928年に上海支局に異動します。当時の上海は、ロイター、UPIなどの通信社がひしめき、中国共産党、国民党、赤軍やコミンテルンの諜報員が暗躍する情報と諜報の魔都でもあります。尾崎は上海で文芸左派のグループと関係を持ち、機関紙に寄稿し理論的指導者となっています。尾崎の人脈は、夏衍、王学文、陳煥章、魯迅、アグネス・スメドレーと華麗です。

 当時の上海は列強の帝国主義に翻弄されている大きな矛盾を抱え、なお1927年までの左翼主義の高潮の余波が完全に残っておりました。文芸左派の一団である創造社は、その一例でした。私はその上海にあって、若さと未熟な情熱とをもって、完全にその環境の虜となったことは、きわめて自然だったと思います。
 私はその上海において、はじめはきわめて初歩的な小グループ運動から、ついに最も大きな国際的な左翼組織に入っていきました。 これがゾルゲやスメドレーとの出会いの背景であります。(p38、引用元『現代史資料2 上申書』)

 「初歩的な小グループ」の他に、尾崎は、東亜同文書院、王学文の日支闘争同盟を介して中国共産党とも通じています。王学文は中国共産党の諜報機関「中央特科」の指導者で、尾崎は王学文によって諜報の世界に足を踏み入れていたと言うのです(p43)。尾崎に諜報活動の自覚は無く、後の尾崎とゾルゲの関係のように、日本の政治外交情報と分析を「解説」していたに過ぎないと思われます。そこには、日本に侵略される中国とそれに抗う共産党へのシンパシーがあります。
 そうした活動の中で、1929年末(あるいは翌年初め)コミンテルンのスメドレーと、1930年11月に赤軍情報部のゾルゲと出会うわけです。ここでも尾崎がゾルゲのために諜報活動をしたのではなく、日本の政治外交情報や王学文から得た中国情報をゾルゲに「解説」していたと想像されます。

著者は、

スパイ活動は通常、自国や自らの帰属する組織に利するのが目的であるが、尾崎の場合は帰属性をもたないソ連と中共の勝利のために、日本の情報を提供していた。彼がスパイ行為にはしったのは、単なる価値観の共有ではなく、自国の国家体制、なかでも軍部主導の体制打倒が根底にあるそのために尾崎個人としては、コミンテルンが掲げる世界共産主義革命を信じていくしかなかった。
だが一方のゾルゲは、世界革命など夢想にすぎないと、すでに気が付いていた。(p50)

 「軍部主導の体制打倒」は疑問ですが、軍国主義への反発と共産主義革命への憧れはあったでしょう。一方ゾルゲは、1935年に一時帰国した時にスターリンの粛清、コミンテルンの弱体化、上司で赤軍情報部のベルジンの左遷、を目の当たりにし、世界革命など夢想にすぎないと覚めていたでしょう。

 1932年、尾崎は大阪朝日新聞に異動します。尾崎の異動は定期異動ではなく、コミンテルンのスパイ・ヌーランが逮捕された事件が契機だといいます。中国官憲がヌーランを内偵し、スメドレーの元に出入りする尾崎が網にかかり、朝日新聞が帰国させたといいます。尾崎は志半ばで日本に帰ったことになります。日本に帰った尾崎は中国と繋がりが絶えたわけではなく、スメドレーと連絡を取り合い、日支闘争同盟の川合貞吉と中国を訪れています。従って、尾崎がゾルゲ機関に易々と参加するのは、上海の活動の延長線上ということです。

東亜共同体
 尾崎は、「太平洋問題調査会」で西園寺公一の知遇を得、1937年7月には一高の同級生・牛場友彦(総理秘書官)の要請で中国問題の専門家として近衛内閣の嘱託となます。同時に近衛の私的政策問題研究グループ「昭和研究会」、「朝飯会」に参加し人脈を広げます。1939年1月の近衛内閣総辞職により満鉄調査部嘱託となりますが、朝飯会のメンバーとして1941年まで近衛の政策に関わっていきます。
 尾崎が参加した昭和研究会の「東亜協同体論」は、東亜新秩序(第一次近衛内閣)、大東亜共栄圏(第二次近衛内閣)につながってゆきます。

「東亜協同体論」は、米英型の資本主義世界と共産主義圏に対抗でき る、日・満・中国国民党による新ブロックの構築であった。 日華事変の解決策として生まれた新構想だが、 蒋介石国民党に替わる、日本の後押しでできた汪兆銘政権、さらに満州国を加えたニュー経済ブロックであである。
(p76)
 尾崎が東亜新秩序構想に近衛のブレーンの一人としてどの程度かかわったかについて、近衛内閣が蒋介石国民党と決別し、汪兆銘を担ぎ出した新たな南京政府樹立の仕掛け人は尾崎秀実だった、という指摘がいくつかある。その論拠の一つは、盧溝橋事件勃発直後の『中央公論」 9月号 (昭和12年〈1937〉)に発表した「南京政府論」のなかで、(尾崎は)蒋介石国民党は「半植民地的・半封建的支 那の支配層国民ブルジョワ政権軍閥政治である」と断定し、これと決別する道を探るべきである、と主張していることである。(p79)

著者によると、これが近衛の「爾後、国民政府を対手にせず」の発言に繋がったといいます。国民党の排除は、中国共産党を支持する尾崎にとっては都合の良い政策です。尾崎の思想は、「昭和研究会」に参加することで世界革命 →東亜共同体に変質していることになります。

 尾崎は、「日本帝国主義」を中ソとの結合に見合った体制へ変革せしめ、これにより東亜の被圧迫諸民族の解放が実現すると信じていたとみられる。この歴史認識が、尾崎をして日中戦争の早期解決、日米戦争の回避のため、近衛・ローズヴェルト会談の実現を近衛に進言させた(した)と言ってよい。だが現実は独ソ戦の勃発により、ソ連の中立国としての存在は破綻してしまった。そこで尾崎の任務は、諜報活動を通じて、ソ連防衛に力点が定まっていった。日本軍のシベリア侵攻の日程を確実に掌握し、通報することにあったのみならず、自ら「シベリア傾斜論」を以て、近衛側近を説得するという、本来の諜報活動では避けるべき政治活動を行った理由であった。(p94)

「シベリア傾斜論」とは、日本が必要とする石油・ゴム等の資源は南方にはあるがシベリアには無いという考えで、近衛内閣に南進策を採用させ、日本のソ連侵攻(北進)を放棄させようとしたわけです。尾崎の目的は、世界革命 →東亜共同体 →ソ連の防衛へと変質します。
 「ゾルゲ事件」を尾崎秀実の文脈で見ると、こうなります。

タグ:ゾルゲ 読書
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