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田川建三 イエスという男 姦、淫するなかれ (2004三一書房) [日記 (2024)]

イエスという男 第二版 増補改訂
 1.jpg 映画『マグダラのマリア』
姦淫するなかれ、と命じられていることをあなた達は知っているはずだ 。しかし私ならば言う、欲情をみたすために女を見る者は誰でも、その女に対してすでに心の中で姦淫を犯したことになる。(マタイ5.27)

 「姦淫するなかれ」はモーセの十戒のひとつだそうです。イエスは欲情をみたすために女を見ることも姦淫したことになる、と言います。これだと毎日姦淫していることになりますw。

そんなに姦淫姦淫と騒ぎ立てるのなら、だいたい欲情をもって女を見るのがそもそも姦淫だろ、と言ったのは、いかにもイエスらしい、そこまで言うとすれば、誰にも「姦淫」を避けることなどできはしない。…むしろ逆に、こういったせりふは、女を見れば心のときめくのを押さえることのできない者しか言えないせりふだ。このせりふの裏には、誰だって欲情をいだかずに女を見ることなどできはしない、という思いが存在している。(p295)

これもイエスの逆説。聖書には「姦淫の女」があります。たぶん律法学者ががイエスの前に女を連れて来て、どうするんだ石で打つのか、と問い

あんたらの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがいい(ヨハネ8.1)

映画なんかでは、この姦淫の女がマグダラのマリアということになっていますが。イエスの周りにはいろんな女性が登場します。「ベタニアのマリア」もそのひとり。
 シモンの家に招かれた際のことです、

一人の女が高価な香油をぶちまけて、それをイエスの足にぬり、おのれの髪の毛でイエスの足をぬぐいはじめた。(マルコ14.3)
スクリーンショット 2024-08-10 6.47.45.png フェルメール『マリアとマルタの家のキリスト』

絵画にもなる有名な挿話です。自分の髪で足を拭うとは、信仰を超えていそうです。この女性はベタニアのマリア、マグダラのマリアに擬されているそうです。著者は、イエスに惚れた女性は何人もいただろうと想像します。

病気を癒されたりした感謝やら、肺腑をえぐるような鋭い言葉に感動した畏敬の念やら、…そういったいろいろな感情と恋心とのさかい目を定めることはできない。イエスにしたところで、それらの女と向いあう心楽しい時を喜んでいたに違いない。この時も、男と女が向いあった時のおのずと高まる心の動きに、イエスは身をまかせていたのだろう。(p301)

マタイ伝の理屈では、この時イエスは姦淫を犯した、と言うことになりそうですが。

 イエスが死んだ時、十字架のイエス遠くから見まもり、埋葬に付き合ったのは何人もの女達です。マグダラのマリア(ルカ82)もその中にいたといいます。

 彼女たちとイエスの間に行き交ったに違いない多彩で豊かな感情の交錯を、その一つ一つの場面を我々はもはや知ることができないし、それを想像をたくましうして描こうとするのは無意味だろう。

 ただ、その一つ一つの内容を我々がもはや知ることができないとしても、少くとも、多彩で豊かな感情が交錯していたに違いない情景をイエスの生活の雰囲気として常に想像しながらイエス像を描くのでないと、この男を此の世ならぬ薄っぺらな観念に還元することになってしまうだろう。…そして、イエスの逆説的反抗の鋭さをよく理解し評価しえたのは、イエスの弟子達よりも、これらの女達だったのかもしれぬ。
 イエスの死後エルサレムにかなり権威主義的なキリスト教団をつくっていった弟子達は、彼女達と違って、イエスの十字架の死の場面には居あわさなかった。(p301)

「姦淫するなかれ」を締めくくるにはナカナカのオチです。使徒達はゴルゴダの丘に行かなかった(ヨハネは行った?)。イエスに「鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしを知らないと言う」と言われ、その通りになったペテロなどのイエスは弟子には恵まれていませんw。マグダラのマリアについては岡田温司 『マグダラのマリア ~エロスとアガペーの聖女』が面白いです。

タグ:読書
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