Kindleで 島崎藤村『夜明け前 』① (青空文庫) [日記 (2024)]
明治維新を準備したものは成熟した江戸社会であり、政治経済の成熟とともに教育の普及や富裕な商人層の台頭も重要な因子です。そうした富裕層や地方の読書階級が支えた「国学」は、尊皇攘夷思想に影響を与え、維新の原動力になります。
十六代続く中仙道・馬籠本陣の当主で庄屋・問屋を兼ねる青山半蔵の物語です。藤村の父・島崎正樹をモデルに、信州の草深い田舎から明治維新という時代のうねりを描いた歴史小説です。
序章でペリーの黒船来航に触れられていますから、『夜明け前』は嘉永6年(1853)から始まります。
中仙道・馬籠本陣
彦根の藩主( 井伊掃部頭)も、久しぶりの帰国と見え、 須原宿泊まり、 妻籠宿昼食、馬籠はお小休みで、木曾路を通った。(位置: 205)
というふうに本陣を渡って参勤交代をするわけです。参勤交代以外にも、役人や武士の宿泊も本陣、脇本陣が使われます。清河八郎の「浪士組」も妻籠、馬籠を辿り、文久2年(1862)に参勤交代が緩和され、人質として江戸に置かれていた大名の妻子の帰国が許可された際、続々と中山道を通過する様が描かれています。武士階級は本陣、脇本陣、庶民は「旅籠」と分かれていたようです。
五十余年の 生涯 の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸がこの街道を通った時のことにとどめをさす。
…同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。
…木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那の 助郷 が出たのもあの時だ。諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。(位置: 88)
本陣の駅長は宿泊、休憩だけではなく物流も扱い、人足(助郷)の手配もする宿場役人で、庄屋や問屋を兼ねることが多かった様です。半蔵の父・吉左衛門も名字帯刀を許され、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねています。
青山半蔵
中山道の本陣は京大阪と江戸の人と物の中継地ですから、黒船のニュースもいち早く入ります。この環境が半蔵を社会へ目を向けさせ国学へと向かわせます。平田篤胤の国学は尊王攘夷のバックボーンです。庄屋で国学を学ぶ半蔵も明治維新と深く関わっています。中津川本陣の景蔵は京都で勤王活動をしていますが、半蔵は国学の研鑽に励み弟子を取り、一方で子供達に字を教え、馬籠にジッとしています。唯一の例外は、平田篤胤の後継者・鉄胤を横須賀に訪ね、正式な門人となったことです。主人公の半蔵、モデルの島崎正樹の最期からは想像できない幕開けです。
庄屋
黒船の来航とそれに続く開港は木曽にも影響を及ぼします。役人の中山道往来が繁くなり、金の流出は物価の高騰を招き、社会不安をもたらします。
銭相場引き上げ、小判買い、横浜交易なぞの声につれて、一方には財界変動の機会に乗じ全盛を 謳わるる成金もあると同時に、細民の苦しむこともおびただしい。米も高い。両に四斗五升もした。 大豆 一駄 二両三分、酒一升二百三十二文、豆腐一丁四十二文もした。 諸色 がこのとおりだ。
世間一統動揺して来ている中で、村民の心がそう静かにしていられるはずもなかった。山論までが露骨になって来た。(3449)
「 山論」とは、限られた草刈場の境界線をめぐる揉め事です。その山論が、社会不安を背景に増えつつあるわけです。その調停も、半蔵たち庄屋の仕事です。
「 山論」とは、限られた草刈場の境界線をめぐる揉め事です。その山論が、社会不安を背景に増えつつあるわけです。その調停も、半蔵たち庄屋の仕事です。
「和宮降嫁」の行列が中山道を通ることになり、「助郷」の問題が発生します。助郷とは、「宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、 継立てを応援するために設けられた」制度で、宿駅近在の農民に課せられる「公役」です。
黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されて 嶮岨な木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、 継立てにもさしつかえるような村々が出て来た。(3730)
交通量が増えて助郷が増えた上に、和宮降嫁という一大プロジェクトが加わり農民の負担は耐えがたいものとなります。これを解決するのも半蔵たち庄屋の仕事です。妻籠、 馬籠などの庄屋連名で奉行所あてに嘆願書を出します。一宿へ金百両ずつを貸し付け10年賦で返済するというささやかな嘆願です。妻籠・脇本陣の徳右衛門の最後の一言が時代を象徴しています。
徳川様の御威光というだけでは、百姓も言うことをきかなくなって来ましたよ。(3752)
作者の「幕末史講義」が続きます。半蔵が身を置く時代背景としては必要なのでしょうが、「生麦事件」の詳しい顛末を聞かされても退屈です。
将軍上洛の日も近いと聞く新しい年の二月には、彼は京都行きの新撰組の一隊をこの街道に迎えた。一番隊から七番隊までの列をつくった人たちが雪の道を踏んで馬籠に着いた。…尽忠報国をまっこうに振りかざし、京都の市中を騒がす 攘夷党の志士浪人に対抗して、幕府のために粉骨砕身しようという剣客ぞろいだ。一道の達人、諸国の脱藩者、それから 無頼な放浪者なぞから成る二百四十人からの群れの腕が馬籠の問屋場の前で鳴った。(4718)
と、(正確には「浪士組」ですが)見て来たような話を描いてくれた方が楽しいです。藤村に、近藤勇と半蔵の会話を期待しても無理ですがw。
藤村は、馬籠の造酒屋「大黒屋(作中の伏見屋)」が記した『大黒屋日記』を第1部の資料として使ったそうです。「新撰組」の下りもこの日記を引用したのでしょうか?。
国学同門の中津川本陣の景蔵、新問屋和泉屋の香蔵は国事奔走のため京都にいます。「われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」という半蔵の呟きで「第一部上」は終わります。
タグ:読書
2024-10-16 11:06
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コメント(2)
ブログ記事ありがとうございます。時代のざわざわした空気が伝わってくるようですね。平田篤胤の国学というのが単に尊皇攘夷ではないとききますが。続きを楽しみにしています。
by Lee (2024-10-20 12:23)
コメントをありがとうございます。
国学は、当時のモラルの中核であった儒教を否定し、日本古来の精神に帰ろうという「復古神道」だそうです。復古の中核には天皇があり、儒教(朱子学)は幕府の御用学問ですから、儒教の否定は幕府の否定に繋がり尊王攘夷と結びつく、そんなところかと思います、一種のナショナリズムかな?。
by べっちゃん (2024-10-20 17:23)