Kindleで 島崎藤村『夜明け前 』② (青空文庫) [日記 (2024)]
AozoraEpub3で作った(blog内link)『夜明け前 第1部下』です。Kindleで読むメリットのひとつは辞書が使えることです。『夜明け前』は昭和4〜6年の執筆ですから現在では使われない語句が多あり、画面から辞書やWikipediaで検索して調べることができます。これは便利です。
続きです。
江戸 → 京都
黒船来航と尊王攘夷の勃興により、中山道の人の流れが変わります。半蔵の父吉右衛門は、
今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。(106)
大名役人の往来が繁くなり、木曽十一宿の助郷制度が破綻します。半蔵たち3人の庄屋が宿駅を代表し「定助郷」設置を道中奉行に嘆願するため江戸に行きます。江戸で半蔵たちが見たのは、参勤交代の制度変更による不景気です。
半蔵はよく町々の 絵草紙問屋 の前に立って見るが、そこで売る人情本や、 敵打ちの物語や、怪談物なぞを見ると、以前にも増して書物としての形も小さく、紙質も 悪しく、版画も粗末に、一切が実に 手薄 になっている。相変わらずさかんなのは江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ。とがった神経質と世紀末の機知とが 淫靡で頽廃した色彩に混じ合っている。
半蔵は10年前にも江戸に来ていますが、当時と比べると時代が殺伐となって来ているようです。
道中奉行は一宿につき三百両のお救い金を支給します。三百両は10年償還の貸付というささやかなものです。道中奉行は、寂れつつある江戸復興、参勤交代復活ためにも宿駅を保護する必要があったわけです。参勤交代復活はなりません。
天狗党
元治元年(1864年)に水戸藩の尊王攘夷派が筑波山で挙兵します。水戸天狗党の乱です。京都を目指す天狗党900人は中山道に入ります。馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には「和宮降嫁」以来の出来事だと言われる水戸浪士の通過が起きます。
馬籠ではたいがいの家が浪士の宿をすることになって、万福寺あたりでも引き受けられるだけ引き受ける。本陣としての半蔵の家はもとより、隣家の伊之助方でも向こう側の隠宅まで御用宿ということになり同勢二十一人の宿泊の用意を引き受けた。(2374)
半蔵は家の門前に「武田伊賀守様 御宿」の札も公然とは掲げなかったものの、玄関には本陣らしい幕を張り回し武人として迎えます。尊王攘夷を掲げて挙兵した天狗党を国学の徒である半蔵の精一杯のもてなしです。水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊し、11月の27日には西へ通り過ぎて行きます。
浪士らは行く先に 種々 な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の 黒糸縅 の 甲冑片袖 を残した。それは玉子色の 羽二重 に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。(2524)
半蔵の元にも、諸将の書いた詩歌の短冊、 甲冑の片袖などを残しています。伊那、中津川は国学の門人の多い土地ですから、行く先々で好意をもって迎えられます。この辺りは創作の参考にした『大黒屋日記』から採られているのでしょうか、あるいは藤村の実家の本陣に短冊や甲冑が残っていたのかも知れません。国学の濃厚なこの地方が、尊王攘夷を掲げる天狗党に好意的だったことは十分に想像されます。
伊那谷では平田篤胤『古史伝』の出版が行われ、本居宣長や篤胤を祀る社が建造されます。平田派国学の門人は 庄屋、本陣、 問屋、医者、もしくは百姓、町人に多く、東美濃から伊那へかけての庄屋と本陣問屋とがその代表だと言います。
天狗党に徴用された人足が帰路に馬籠本陣を訪れ、半蔵に顛末を語ります。千余人の水戸浪士も、途中で戦死するもの、沿道で死亡するものを出して820人となり、敦賀にいたって投降します。投降した浪士たちは狭いニシン倉に監禁され、裸で手枷足枷をはめられ粗末な食事で病に倒れる者が続出し20名以上が死亡します。投降した820人のうちの350名が処刑され天狗党の乱は終息します。 →続き
タグ:読書
尊皇攘夷を掲げた天狗党は悲惨な末路だったようですね。歴史の混乱期には様々な事が起こりますが真実は闇の中かもしれません。背景をよく調べる必要がありそうです。
by Lee (2024-10-22 11:05)
背景は本書でも詳しく記されています。水戸藩の権力党争だそうです。吉村昭の時代小説『天狗争乱』でも同様の記述があったように記憶しています。
by べっちゃん (2024-10-22 18:22)