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2019 桜咲きました [日記(2019)]

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絵日記 串カツ [日記(2019)]

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 久々に料理しました。外食した串カツが美味しかったのでやってみました。串に刺して揚げるだけですから簡単。ビールのアテに最適です。
 追記
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子供も参加出来ます          太り気味の駄犬にはあげません

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梅原猛 『葬られた王朝』 古代出雲の謎を解く(1) [日記(2019)]

葬られた王朝―古代出雲の謎を解く (新潮文庫)砂鉄のみち』で、ヤマタノオロチ伝説は、農民と砂鉄集団の争いの渦中でスサノオが農民を助ける話として紹介されていました。出雲の砂鉄とスサノオつながりです。

第一章 出雲王朝はスサノオから始まった
第二章 オオクニヌシー王朝を繁栄させた大王
第三章 考古学が語る出雲王朝
第四章 記紀の謎

 第一章は、『古事記』『日本書紀』『出雲風土記』などの神話を手がかりに「出雲王朝」を解明し、第二章で、最近の考古学の成果からその実在を解き明かし、第四章で『古事記』『日本書紀』が朝廷で語り継がれていた古物語として史実を語っていることを証明します。

スサノオ
 日本最古の史書『古事記』は神話性が強く信憑性に乏しいとされてきました。天地開闢、八岐大蛇、因幡の白兎、天孫降臨などは神話・お伽噺として片付けられ、(高校でも)古文の教科書には載っていますが、日本史には取り上げられません。私が習った日本史は、弥生時代→卑弥呼、倭の五王→古墳時代→飛鳥時代で、スサノオもオオクニヌシも、まして出雲王朝など人かカケラも登場しません。皇国史観として退けられています。

 卑弥呼が3世紀、倭の五王のひとり雄略が5世、紀初代天皇天皇「神武」が紀元前6世紀?ですから、古墳時代が3世紀から始まるとすれば、スサノオは弥生時代の人物ということになります。古事記は8世紀初めに稗田阿礼、太安万侶が著したとされますから、千年上前の伝承です。古事記を読んでスサノオと出雲王朝をイメージしようというのですから、壮大なロマンです。

 スサノオはイザナギ、イザナミの息子でアマテラスの弟ということになっています。彼らが居たのは天上の高天原。スサノオは悪行がたたって高天原から出雲に追放されます(この間、天岩戸とアメノウズミのストリップがあります)。高天原でアマテラスとスサノオは「誓約(うけひ)」をし様々な神を産むわけですが、そのなかでタキリビメ、イチキシマヒメ、タキツヒメの女神が対馬の宗像神社の祭神というのが興味深いです。面白いのが新羅を経由して出雲に来ることです。このことから、スサノオ渡来人説が生まれます。スサノオの剣が「鋤(からさい)の剣」で、ますます怪しい。出雲王朝の祖スサノオは、朝鮮半島→対馬→出雲と渡ってきたと言っているようです。

 出雲に来たスサノオは、ヤマタノオロチを退治して「天叢雲剣」を得、クシナダヒメと結ばれます。このヤマタノオロチは背中に苔と杉が生えている姿で描かれていることも興味深い。さらに面白いのは、髭を抜いて杉を生み、眉毛から樟、胸毛から檜、尻の毛から槙を生んでいること。スサノオの子イタケルが樹木の種を高天ヶ原から持ち出してスサノオの子オオヤツヒメ、ツマツヒメとともに日本の山に植林をします。この3人は、「木の国(紀の国)」和歌山県の神であることです。
 スサノオと「木」が深く結び付いています。『砂鉄のみち』の流れからいうと、スサノオは「たたら製鉄」と何らかの関係があるのかも知れません。「韓鋤の剣」と「天叢雲剣」が鉄剣であれば面白いのですが、本書で出雲と鉄の関係は触れられていません。

 では、スサノオの退治したヤマタノオロチとは何の象徴か?。古事記には「高志の八俣のオロチ」とあり、「高志」とは越前、越中、越後の「越」であり、オオクニヌシは越のヌナカワヒメを娶っていることから、スサノオは越の豪族と戦ったと想像します。越後の糸魚川は勾玉の材料メノウが採れ、勾玉が三種の神器のひとつです。
 ヤマタノオロチを退治したスサノオは、クシナダヒメを娶ります。クシナダヒメは、オオヤマツミ →アシナヅチに連なる土着の神と考えられ、

 このように、土着の神であり、初期農業の神でであるというオオヤマツミ支配を妨げ、出雲の国を植民地として荒廃させた越の豪族が、韓の国からやって来たであろう神であるスサノオに退治されたと解釈すれば、ヤマタノオロチ伝説はよく理解できるのである。 

続き

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映画 赤い風車(1952) [日記(2019)]

赤い風車 [DVD]ロートレックを描いた伝記映画です。ロートレックは、POP調のポスターを描いていることもあって、人気の高いポスト印象派の画家です。「赤い風車」とは、モンマルトルにあった伝説のキャバレー「ムーラン・ルージュ」。ロートレックは夜な夜なムーラン・ルージュに現れ、酒を呑み踊り子や店内風景を描いたということです。

 ロートレックはフランスの伯爵家に生まれ、脚の骨折から下半身の成長が止まってしまった障害者です。そんなこともあってか、踊り子や娼婦など下層階級を好んで描き、酒に溺れアルコール依存症となって36歳で没っします。

 ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドンとの同棲も有名ですが、代わりに街で拾った娼婦との恋、告白できず破局にいたるミリアムとの恋、有名な「ムーラン・ルージュのラ・グーリュ」のリトグラフによるポスター制作が描かれます。映画としてはドラマ性に欠けますが、見どころは、ジャンヌ・アヴリル、ラ・グーリュが歌い踊るムーラン・ルージュのフレンチカンカンでしょう。20世紀初頭のパリにタイムスリップした気分に浸れます。

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ラ・グーリュと骨なしヴァランタン
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ジャンヌ・アヴリル

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 『真珠の耳飾りの少女(フェメール)』、『モンパルナスの灯(モディリアーニ)』、 『宮廷画家ゴヤは見た』、『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』、『レンブラントの夜警』(オススメ)など有名な画家を扱った映画はけっこうあります。

監督:ジョン・ヒューストン
出演:ホセ・ファーラー ザ・ザ・ガボール

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司馬遼太郎 砂鉄のみち(街道をゆく7) [日記(2019)]

街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか (朝日文庫)  『壱岐・対馬の道』で、鉄を求めてヤマト王権が壱岐・対馬から辰韓に至る海の道の話がありました。鉄繋がりで出雲の砂鉄の話です。

 古朝鮮
 著者は沖縄を訪れ、沖縄の人々は、日本人が「集団になった場合の猛々しさや鋭敏な好奇心」からまぬがれているという感想を持ちます。これは、室町時代まで鉄器の普及が十分でなかったため、沖縄の人々は鉄器を使ったことによって起こる人間の際限のない欲望の伸張から免れたのではないか、と想像します。鉄器の普及は耕地面積を広げ富を蓄積し、殺傷能力に優れた武器となって権力を生みます。
 鉄は朝鮮南部から鉄鋌の形で輸入されますが、古墳時代になると国内でも砂鉄から鉄が作られるようになります。この製鉄技術も朝鮮からもたらされたのではないか、製鉄集団が日本に渡ってきたのではないかというのが、著者の想像です。砂鉄から鉄を取るには、鋼1トンを得るに砂鉄12トン木炭14トンと、大量の木材が必要となります。朝鮮の山を丸裸にした製鉄集団は、砂鉄と木材を求めて日本に渡って来たのではないかといいます。

 朝鮮は、七世紀の新羅の統一以後、特に十四世紀から二十世紀初頭まで続いた李朝は儒教体制をとり文明史的に停滞します。このことは、鉄器の不足と無縁ではないというのです。朝鮮人は歴史的にも優秀な民族であり高い能力を持っているとしたうえで(この辺りは、無用な摩擦を避けようという配慮でしょう) 

しかしその能力を十分に反映した社会を近世まで持ち得なかった理由の一つは、鉄器の不足にあるといってよく同時に鉄器の不足が農業生産がゆるがなかったともいえる。・・・裏返せば日本列島に住む我々アジア人が、他のアジア人と違った歴史と、そして時に美質でもあり、同時に病根でもあるものを持ってしまったことにもつながっている。要するに、砂鉄がそうさせたことではないか。

 司馬遼太郎の「史観」は、東アジアを俯瞰する視点が魅力なのですが、朝鮮半島から砂鉄と木材を求めて製鉄集団が渡って来た、という仮説です。木を伐り使い尽くした朝鮮の製鉄集団が、「倭」には砂鉄と木炭にする木があると聞いて九州に渡来し、東進して良質の砂鉄を産する出雲にやって来たのでしょうか(北九州や壱岐には古代の製鉄遺跡がある)。

 出雲
 出雲には、スサノオノミコトが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を獲る有名な神話があります。

神話の中で、スサノオに退治られる鳥上山の八岐大蛇というのは、鳥上山にいた古代の砂鉄業者であるという。
古代には砂鉄を採集し山中でこれを鉄にする専門家が群れをなして中国山脈を移動していた、というのが、この解釈の前提になっている。想像するに一団は百人以上だったであろう。・・・当然ながら山間の盆地で稲を作っている農民の利益とは食い違ってしまう。 

という砂鉄集団と農耕民の対立のなかに、スサノオが現れるわけです。伝奇小説さながらです。もっともスサノオ渡来人説というのもあって、本書でも紹介されていますが、スサノオが助けたのは農民ではなく、砂鉄集団だったといいます。八岐大蛇に悩まされていたのは農民ではなく、砂鉄採りの集団で、八岐大蛇は先住民として出雲に住んでいた「海人族」だといいます(梅原猛『葬られた王朝』?)。

 いずれにしろ、朝鮮半島と日本南西部が文化圏として一体であった頃の「鉄」のロマンです。平戸に流れ着いた女真(満州)族の姫君を、その故地に送ってゆくという歴史ロマン『韃靼疾風録』を書いた司馬遼太郎ならではの話です。

タグ:読書
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蓮池薫 半島へ、ふたたび [日記(2019)]

半島へ、ふたたび (新潮文庫)  著者は、24年間北朝鮮に拉致され2002年に帰国を果たした蓮池薫氏。本書は、2008年にソウルを訪れた訪問記「僕がいた大地へ」と、帰国後、翻訳家として生きる決意をする「あの国の言葉を武器に、生きていく」の二部構成です。

 訪問記は、ソウルでの見聞に常に24年間暮らした北朝鮮の生活がダブり、ソウルを語りながら北朝鮮を語っているのが特徴です。拉致生活が赤裸々に語られると思ったのですが、拉致家族への配慮、政府の進める拉致者帰国政策への配慮もあって、その辺りは抑制が効いています。著者自身も拉致生活を書きたかったでしょうが、書けば第一級のノンフィクションになったでしょう。

 例えば、望郷の念は、北で聴いた歌「イムジン河」(日本では1968年にフォーク・クルセイダーズ)に託されます。「イムジン河」は、南北の分断と祖国統一を歌った歌ですが、著者にとって、鳥になって日本に飛んでゆきたいとう望郷の歌だったわけです。米の出来に一喜一憂するなど北の食糧事情を彷彿とさせます。
 南北の体制比較も慎重です。7世紀、新羅が半島を統一しますが、これも北と南では評価が分かれます。南は半島南東部に位置した新羅が朝鮮半島を統一したとし、北は高句麗は新羅に滅ぼされたのではなく、高句麗が発展解消して渤海になったと主張しているそうです。いずれも、自国領土にあった古代国家に肩入れするわけです。著者は、韓国と北朝鮮は、古朝鮮、三国時代から継承されてきた同じ伝統文化の根を持つ一つの民族、と冷静です。

 北に住んでみないと分からない記述もあります。

僕が拉致された、70年代から80年代までは、北朝鮮は社会主義的生活様式の確率を全面に出しながら、民族の伝統的な生活文化を「復古主義」という理由のもと、一部を排斥もしくは抑制していた。ところが、東欧社会主義が崩壊した90年以降になると、民族主義路線を色濃く打ち出し民族伝統を積極的に奨励するようになった。そこにはすでに東欧で大きな挫折を経験した社会主義思想より、民族主義のほうが国民も心をつかみやすいという読みがあったと推測される。

と。

 第二部「あの国の言葉を武器に、生きていく」は、帰国した著者が、市役所の職員から韓国語の翻訳者として自立する姿を描いたものです。ものを書くことに執念を見せる著者のことですから、拉致の経験は、密かに書き継がれていたと想像されます。既に完成し、公表に時期を待っているのかも知れません。第二部の韓国語の翻訳家宣言は、拉致被害告発の密かな宣言だとも取れます。

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司馬遼太郎 壱岐・対馬の道(街道をゆく13) [日記(2019)]

街道をゆく 13 壱岐・対馬の道 (朝日文庫)  『耽羅紀行』の続きです。UDデジタル教科書体にしてみました。

 壱岐・対馬の歴史的存在は、古代における輸入鉄の海上輸送の経路に浮かんでいるということで、神話や伝承の上での不可思議な相貌を帯びているのである。・・・壱岐・対馬が古神道の上でも特異な存在であったことは、鉄をなかだちに朝鮮と往来していた情景をはずして考えることはできず・・・もし鉄という媒介がなかったら朝鮮から日本へ人間が移動するということもすくなかったであろう。

 ヤマト王権を支える農業生産と軍事は、鉄に支えられています。日本が砂鉄から鉄を採るたたら製鉄の技術を持つのは6世紀からですから、当時製鉄技術を持たなかった日本は、南朝鮮(辰韓)から武器や農具の素材である鉄鋌(てい)を輸入するため、壱岐、対馬は重要な寄港地だったようです。たぶん、大阪湾→瀬戸内海→唐津(末盧国)→壱岐→対馬→釜山のルートだったのではないかと思います。

卜占
 鉄以前、以後も多くの人・モノが行き来したはずです。そのひとつが鹿の骨や亀の甲羅を焼いて吉凶を占う卜占。律令制度の神祇官には対馬壱岐の卜占氏が属していたようで、北アジアを発祥とする鹿卜や亀卜は、朝鮮半島、対馬、壱岐を経由して日本に入ったはずです。稲の伝来、朝鮮語と日本語が膠着語として親戚関係にあること等々、当たり前といえば当たり前ですが、壱岐・対馬が大陸との十字路であったことは間違いのないことでしょう。

朝鮮通信使
 朝鮮通信使は、江戸時代には12回にわたって対馬、壱岐を経由してが日本を訪れています。対馬(府中)藩は、釜山に「倭館」を持つ幕府の対朝鮮外交、通商の窓口です(倭館は、オランダ貿易における長崎の「出島」のようなもの)。第9回通信使(1819)の随員(儒者)・申維翰についての記述が面白いです。申維翰は、報告書『海游録』を著していますが、その『海游録』です、

かれの文章癖として、日本人を人間として見ず、一種の人間であるところの、「倭」という言葉で表現する。朝鮮は中国以上に中華思想がつよく、むしろ激烈である。中華思想を持つものだけが「人」であり、持たないものは夷狄であり、それを漢字文化としてしか持っていない中途半端な日本人の場合、特殊人として「倭」としか言いようがない、というのがその基本思想であろう。・・・(対馬の民情は)「民の俗は、詐りと軽薄さがあって、欺くを善くす。すなわち、少しでも利があれば、死地に走ること鷲の如くである。」

 つまり「朱子学」を基準とする日本人観です。

 米が慢性的に不足する対馬藩は、朝鮮から米・豆100石の扶持を受ける「両属」の状態?とも言えます。固陋な申維翰は対馬藩を朝鮮の属領と見なし、藩主に礼をとろうとしません。これを察した藩主は、賢明にも姿を現さなかったとか...。

 対馬藩の応接係である儒者の
雨森芳洲と申維翰の交流を書いた一節が興味深いです。

 申維翰の『海游録』では、全文を読めば彼の雨森芳洲への愛情がにおってくるようであるが、しかし要所要所では、抽象的ながら、雨森が悪党でもあるかのように書いている。
「この人物は、険狼にして平らかではない。外向きには文(かざ)った辞を言うが、肚の中は剣を蓄えている。・・・もし彼をして国事に当たらしめ、権力をもたせれば、かならず隣(国境)に事を起こすに違いない

具体的根拠も挙げず、雨森芳洲を秀吉のように侵略してくる人物と書いています。著者は、雨森の生涯と思想から考えてそうした人物評を不当とし、

申維翰は保身のためにこのように書いたとも考えられる。倭奴(ウェノム、日本人の蔑称)の一小吏と仲良くしたという印象を読み手に与えないように、ことさらに『海游録』の末尾に、それまでの雨森の印象を、墨で消すようにして、このように唐突に評したのではないか。後で政敵から攻撃されるかもしれない理由と危惧をこんなかたちで消しておいたかと思われる。

朝鮮朱子学の太宗・李退渓は士禍によって官界を終われ、秀吉の朝鮮の役で水軍を率いて日本軍を破った李舜臣も讒訴によって獄に繋がれています。

 朝鮮と日本の関係は、時に個人レベルでの友情も成立させ難いほどに難しい。そのことがすでに十八世紀初頭から存在していたのである。

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