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イザベラ・バード 朝鮮紀行 ① (1998講談社学術文庫) [日記(2019)]

朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)  言っては悪いですが、最近の日韓関係は本当に面白い。秀吉の侵攻や日韓併合で日本は恨みを買っているんでしょうが、よくもここまでこじれたものだと思います。同じ統治下にあった台湾に比べてこの差は何なんでしょうか、少し朝鮮、韓国について読んでみます。朝鮮、韓国に関する本はバイアスのかかったものが多いので、選択が難しい。19世紀の英国の・女性旅行家の紀行『朝鮮紀行』であれば、問題なかろうと、この辺りから始めてみます。

 イザベラ・バードは、1894年1月~1897年3月、モンゴロイドの調査のため朝鮮を4度訪れています。本書の第一部では、ソウルから南漢江を遡って半島内陸部の永春と北漢江を船で遡行し馬で金剛山を経て元山(現在は北朝鮮)までの旅。次いで釜山、長崎を経由してウラジオストクに渡りウスリーまで足を伸ばし、朝鮮の国境に近い朝鮮人の入植地を訪ねる旅が記され、朝鮮の自然と民族が描かれます。第二部は、ソウルから臨津江(イムジン河)を超え、日清戦争の戦禍禍々しい街道(北京街道)を平壌まで進み、中国との国境に近い徳川など北朝鮮深部を尋ねる旅です。また、高宗とその后閔妃との面談、閔妃暗殺をめぐる朝鮮の暗部、日本と朝鮮の関係が記され、イザベラ・バードの優れたジャーナリストの一面を読むことができます。

 イザベラ・バードが朝鮮を訪れたのは1894~1897年、李氏朝鮮の末期。年表から拾ってみると、
1864:興宣大院君による勢道政治開始
1866:丙寅教獄、フランス軍と衝突(丙寅洋擾)
1871:ジェネラル・シャーマン号事件(辛未洋擾)
1873:閔妃一派によるクーデター、事大党と開化派
1875:江華島事件 →1876年、日朝修好条規=開国
1882:壬午事変(済物浦条約→日本軍の朝鮮駐留)
1884:甲申事変
1894:甲午農民戦争、日清戦争
1895:閔妃暗殺、下関条約
1896:露館播遷
1897:大韓帝国独立
1905:第二次日韓協約
1910:日韓併合

 甲午農民戦争、日清戦争、閔妃暗殺、大韓帝国成立と激動の時代で、35年続いた日韓併合の前夜にあたります。半島国家の朝鮮は古代から中国の冊封体制をとっており、この時代の李氏朝鮮も清の属国のようなもの。内政では、王(李氏)に代わって有力貴族が権勢を振るう勢道政治で、権力をめぐって苛烈な闘争に明け暮れるわけです。この当時国政を握っていたのは高宗の実父・興宣大院君。一族を重用して政府の枢要な地位に付け、攘夷(鎖国)主義で欧米列強と武力衝突を繰り返しキリスト教を弾圧し、やりたい放題。興宣大院君と敵対するのが高宗の后閔妃。政治上の主義主張が違うわけではなく、単なる権力闘争。まぁ姑と嫁の衝突です。

 庶民はというと、国民の3%を占める貴族・両班が役人とつるんで搾取を欲しいままにしています。金があると聞くと、税金の名目で巻き上げる始末。上は上、下は下で一国の治世など眼中になく、私利私欲に走っていたというのが19世紀末の朝鮮の実状。こうした背景の下に1984年の甲午農民戦争が起こったのでしょう。

 と言うようなことはイザベラ・バードは書いていませんが、両班の弊害(つまり政府の失政)については、

朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある・・・両班に求められるのは究極の無能さ加減である・・・非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。

 と記し、ウラジオストク郊外の朝鮮人入植地に訪れロシアの朝鮮人の勤勉さと裕福な生活を目の当たりにします。朝鮮人には自治権があたえられ、村長は秩序と徴税の責任を担い、官吏はすべて村民の手で村民のなかから選ばれるという、両班のいないロシアの統治下では、朝鮮の庶民は裕福な暮らしを実現していると記します。

本国朝鮮人の特徴である猜疑心、怠惰と慢心、目上への盲従は、きわめて全般的に、アジア的というよりイギリス的な自主性と男らしさに変わってきている。きびきびした動きも変化のひとつで、 両班 の尊大な歩き方や農夫の覇気のないのらくらぶりに取ってかわっている。金を儲けるチャンスはいっぱいあり、儲けてもそれを搾り取る官僚や両班はいない。
・・・朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。

 朝鮮の惨状は両班と政治のせいであると、イザベラ・バードの目には写ったわけです。

 またソウルの印象を以下のように記しています、
 

(規制のため)二階建ての家は建てられず、したがって推定二十五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。
路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。
悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、 疥癬 持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。

北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、 紹興 へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。

これが1894年当時の朝鮮の首都の庶民の暮らしです。

 イザベラ・バードは、船で川を遡り、馬の背で旅をします。
司馬遼太郎『耽羅紀行』に、18世紀に朝鮮には物資を流通させるための荷車が無かったという記述ありましたが、本書にも似たような記述があります。

ソウルをはじめ二、三の都市では大ざっぱな造りの荷車が見られるものの、農作物や商品の輸送手段は馬、人、牡牛で、積み荷は木製の荷鞍に載せて重さを均等にしたり、あるいは小さな物の場合、わらかごや網かごに入れる。

 李氏朝鮮の時代に資本主義の萌芽があった、朝鮮の資本主義の芽を積んだのは日帝だ!という「資本主義萌芽論」があるそうです。本書を読む限り、19世紀末の朝鮮には資本主義の芽のようなものは皆無。資本主義萌芽論」はどうもマユツバのような気がします。
 英国人旅行家イザベラ・バードの見た19世紀末の朝鮮は、幹線道路は泥濘に埋まり川には橋はなく、宿屋ではノミとシラミに悩まされ、人と物資は馬と牛によって運ばれ物資は農産物と手工業品であり、庶民は
両班と役人の搾取に晒されていたということです。我が国ではイザベラ・バードの『日本奥地紀行』は新訳が出るなど評価が高いですが、誇り高い韓国で、『朝鮮紀行』は出版されているのでしょうか?。

翻訳について。例えば、

手ごろな海岸で船を退避させられるところなら必ずある海岸沿いの村落は、その存在理由を沿岸漁業とする。
日本語になっていません。
朝鮮の音楽を朝鮮式の平均律と訓練ではなく、「時」を不可欠な要素として求める西洋のそれで解そうとするからである。

朝鮮の音楽を耳障りと感じた下りです。意味不明。特に第一部はこうした訳が目立ち、はたして、講談社学術文庫の『朝鮮紀行』はイザベラ・バードの原文を正しく伝えているのか、と疑いたくなります。

 第二部に続きます。


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