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イザベラ・バード 朝鮮紀行 ② (1998講談社学術文庫) [日記(2019)]

朝鮮紀行 (講談社学術文庫) 朝鮮奥地紀行〈1〉 (東洋文庫)  第一部は朝鮮の自然と民情が主題でしたが、第二部では甲申事変、乙未事変(閔妃暗殺)、朝鮮と日本の関係など、イザベラ・バードのジャーナリストとしての才能が遺憾なく発揮されます。閔妃暗殺事件は、彼女が在朝鮮中に起こった事件であり、閔妃と数度面会していますから、聞き書きとは言え記述は生々しいです。


李麻末期の朝鮮近代史を大雑把に年表にすると、

1882:壬午軍乱(大院君が煽動→清に拉致→閔妃復権)、済物浦条約、商民水陸貿易章程、袁世凱が朝鮮国王代理
1884:甲申政変(開化派によるクーデター、三日天下、権力は依然閔妃)→天津条約
1885:大院君帰国、露朝密約事件
1894:1月イザベラ・バード朝鮮へ、5月・10月甲午農民戦争 →日本出兵、大院君を擁立、実質は金弘集内閣、7月日清戦争、井上馨朝鮮公使(金弘集内閣を成立させ改革)、大院君帰国
1895:4月下関条約(李朝は清との冊封体制から離脱)、10月閔妃暗殺(乙未事変)
1896:2月露館播遷(高宗ロシア大使館へ)
18973月イザベラ・バード朝鮮を離れる10月大韓帝国独立
1904:2月日露戦争   となります。

 19世紀末の朝鮮は混乱の極みにあります。その主な原因は、国王・高宗の父親・大院君と高宗の妃閔妃の舅嫁の対立。大院君の勢道政治に対して1873年閔妃一派はクーデターを起こし大院君を追放します。宮廷は親中国(清)の旧守派(事大党)と親日本の開化派(独立党)に分かれ、両派を後押しする清と日本、南下するロシアも加わるという複雑な状況。大院君は軍を焚き付けて閔妃一派を追い出すものの(壬午軍乱)、乗り出した宗主国・清によって幽閉され閔妃一派が返り咲きます。1884年には日本に留学した開化派が、日本公使、日本軍の支援でクーデター(甲申事変)を起こすも、清によって潰されます。
 壬午軍乱も元々は財政難による兵士に対する給与遅配、支払で起きた政府の不正が原因。政治は私闘で明け暮れ民衆は疲弊するというのがこの時期の朝鮮です。疲弊した農民は役人の不正をきっかけに甲午農民戦争(東学党の乱)を起こすわけですが、これも閔妃一派の失政の結果でしょう。農民の指導者・全琫準と大院君が裏で繋がっていたという説もあり、大院君のあくなき権力志向はご立派。農民戦争の戦後処理をめぐって日清戦争が勃発し、朝鮮半島での日本の覇権が確立され日韓併合に至るわけです。
 イザベラ・バードが朝鮮を訪問した1894年1月~1897年3月は、こうした混乱の時代です。

閔妃
 イザベラ・バードは国王・高宗と后閔妃と会見しています。

王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。その政治的な影響力がなみはずれてつよいことや、国王に対してもつよい影響力を行使していること、などなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父 大院君 を主とする敵対者たちはみな、政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いをつのらせている。王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と鋭い洞察力と知恵のすべてを動員して、権力を得るべく、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失墜させるべく闘っていた。
・・・王妃は皇太子の健康についてたえず気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々さらされていた。

一方高宗はというと、
国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、・・・落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居ずまいやものごしに威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。会話の途中、国王がことばにつまると王妃がよく助け船を出していた。・・・王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。・・・その意志薄弱な性格は致命的である。

大院君とも会見しています、
わたしは宮殿で大院君に拝謁し、その表情から感じられる精気、その鋭い眼光、そして高齢であるにもかかわらず力づよいその所作に感銘を受けた。

 無能な国王、権力掌握に腐心する父親としっかり者の妃という宮廷の構図が透けて見えます。この構図は、イザベラ・バードが接した朝鮮人や朝鮮在住の外国人からの情報でもあり、会見によってそれが裏付けられたわけでしょう。国王の声明が法律となる朝鮮で、言いなりになる国王を持った国民は悲惨です。

乙未事変(閔妃暗殺)
 閔妃は権力志向の強い女性だったようで、クーデターで大院君を失脚させ、大院君派の死刑・暗殺など血で血を洗う抗争を繰り返します。権力をにぎると一族を高官に就け、呪術に凝って国庫を疲弊させ、甲午農民戦争の遠因ともなります。日清戦争後は、大院君を推す日本に対抗して親露政策とりクーデターを起こすも、反閔妃派によって暗殺されます。暗殺は朝鮮軍部によってなされたものの、事件の背後には日本公使・三浦梧楼が在り、親露派の閔妃を排除する日本のクーデターだったいうのが定説です。
 閔妃暗殺を聞いたイザベラ・バードは、長崎からソウルに駆けつけます。直後のことですから彼女が聞いた事件の顛末はリアルです。

三浦子爵は大院君とのあいだに結んだ周知の取り決めをいよいよ決行に移すときが来ると、王宮の門のすぐ外にある兵舎に宿営している日本守備隊の指揮官に、訓練隊(教官が日本人の朝鮮人軍隊)を配置して大院君が王宮へ入るのを護衛し、また守備隊を召集してこれを助けるよう指令を出した。

その際三浦は、二〇年間朝鮮を苦しめてきた悪弊が根絶できるかどうかは、今回の企ての成功いかんにかかっているのだと告げ、宮中に入ったら王妃を殺害せよとそそのかした。

一〇月八日の午前三時、彼らは王子の乗る 輿 を護衛しつつ竜山を出た。出発の際、仲間から信望のあつい岡本[柳之助] 氏(朝廷顧問)が全員を集め、王宮に入り次第「狐」(=閔妃)を「臨機に応じて」処分せねばならないと宣告した。

暗殺団から逃げだした王妃は追いつかれてよろめき、絶命したかのように倒れた。が、ある報告書は、そこでやや回復し、溺愛する皇太子の安否を尋ねたところへ日本人が飛びかかり、繰り返し胸に剣を突き刺したとしている。

 暗殺は、三浦の独断説、日本政府の陰謀説、大院君説などがあり真相は不明ですが、日清の干渉をロシアを使って牽制しようとする閔妃は、日本にとって(清にとっても)邪魔者であったことは事実。一族で政治を壟断し、巫女や神事で国庫を空にした(それによって兵士の給与が滞った)閔妃は、大院君ならずとも排除すべき存在と考える勢力があったことは事実でしょう。暗殺を指揮した?岡本柳之助は外務卿・陸奥宗光の腹心です。ロシアに接近する閔妃は、日本政府にとっても危険な存在ですから、日本政府が黒幕であっても不思議はありません。
 乙未事変の5ヶ月後、恐怖に駆られた高宗はロシア公使館に逃げ込み、そこから政治を執るという異例の事態になります。朝鮮は古くから冊封体制をとっていることもあり、自主独立という考え方が希薄。甲午農民戦争も自力では解決できず、清に泣きついたため天津条約によって日本も派兵し、日清戦争を引き起こすことになります。

 朝鮮の国教である儒教は国家経営の思想のはずですが、『朝鮮紀行』を読む限り閔妃も大院君も国家運営という自覚は無く、朝鮮という国も国民も全く考えず、ひたすら己の権力に固執し国家を私物化しています。甲申政変を起こした金玉均、朴泳孝も現れますが、同調する勢力も無くわずか3日で滅びます。支配層たる両班、官僚は搾取に明け暮れ、

朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりでなく、政府の機構全体が悪習そのもの、底もなければ汀もない腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう。職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食いものにする権利だけは存続するのである。

搾取の手段には強制労働、法定税額の水増し、訴訟の際の 賄賂 要求、強制貸し付けなどがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり 笞 で打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守る

 この国はもはや国家の体を成していません。こういう場合、有力貴族、豪族が反旗を翻すわけですが、そういう勢力も育っていない。日韓併合を正当化するわけではありませんが、日本が併合しなければ、おそらく帝政ロシアに併合されていたことでしょう。すべてを日帝のせいする韓国は、李朝末期の政治とそれを改革できなかった民族をどう考えているのでしょう。

続きます

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