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木内昇 万波を翔る ① (2019日経出版) [日記 (2020)]

万波を翔る  幕末の外交官・田辺太一を主人公とした維新ものです。木内 昇は、伊東甲子太郎を主人公に新選組を裏から描いた『地虫鳴く』があります。本書でも、幕末維新を、薩長ではなく幕府側から敗者の歴史を描きます。

外国方
 田辺太一は後家人の次男坊。部屋住みですから仕官もかなわず、甲府藩の藩校教授、長崎海軍伝習所を経て外国方の書物方にもぐり込みます。外国方は、鎖国の日本に外国船がやって来るようになり(ペリー来航は1853)、その折衝のために1858年に生まれた新しい役所。外務省のようなものでしょう。その長官も、水野忠徳、井上清直、岩瀬忠震、永井尚志、堀利熙に始まって10年間に50人ほど。ひとつの役職を複数でこなす幕府の制度とはいえ、長官がころころ変わっては、その下にいる役人はたまったものっではありません。太一は書物方ですから事務職。いわば手探りの新設役所のサラリーマンの物語でもあります。読み様によっては、サラリーマンの悲哀物語です。

 幕末の外交が舞台ですから、主題は貿易、為替、開港の問題です。幕末の外交を経済の動きで描こうというわけです。おまけに時勢は「攘夷」。長州藩がバックにいる朝廷は条約や開港の勅許を出さず、攘夷派は、露軍人、仏人暗殺に始まって、生麦事件、英国公使館焼討、異国船襲撃などの事件が頻発し、外国方はこの尻拭いに忙殺される有り様。英国公使館焼討などは高杉晋作、伊藤博文などが関わっていますから倒幕派から見れば快挙、幕府側の外国方にとってみれば暴挙、テロ。政治、経済案件の交渉から攘夷の後始末までやらされますから、気の毒といえば気の毒。
 もうひとつのおまけが、将軍後継をめぐる一ツ橋派と紀伊派の抗争と、抗争に勝った井伊直弼の「安政の大獄」。派閥抗争よって有能な外国奉行の首が飛び、外交の一貫性、整合性が失なわれます。

為替
 「日米修好通商条約」によって貿易が始まります。この時の為替が1ドル=1分銀3枚。当時の日本では金と銀の交換比率は同等ですから1ドル=1分金3枚。日本で1ドル=1分金3枚で両替し、海外に持っていって銀に交換して日本に持ち込めば為替差益が稼げるというわけです。日本にとっては、差損で金が流出することを意味します。この金の流出を食い止めようするのが、太一の上司である外国奉行の水野忠徳。水野忠徳の人物造形が秀逸です。

水野忠徳は、いたずらに顔の長い男であった。その上、顎がやや左にひしゃげている。色黒のせいか、焦げた瓢箪としゃべっているようであった。

 水野もまた太一同様の部屋住みで養子に入り、傘張りの内職までする貧乏を経験したしとかで金銭に細かい奉行。太一を使いに出し2文の釣り銭を請求するという幕府の奉行。おまけに性狷介この性格で為替差損に我慢ならなかったわけです。窮余の策で、新たに1ドル相当の銀貨(二朱銀2個で1ドル)を鋳造し金の流出を防ごうとしますが、ハリスに見抜かれ実効を挙げなかったようです。本書では、太一が発想し水野が実行したことになっています。
 一方の田辺太一も己を欺けない一本気で、思うことをズバリってしまう性格。何よりも落語と吉原が好きで、切羽詰まると落語調になる辺りは作者の分身かもしれません。書物方が奉行に直接意見具申できたはずはなさそうですが(外務省の平職員が大臣に意見するようなもの?)、この水野、太一のコンビが面白いです。本書で知ったのですが、水野は京に上って足止めを食らい人質同然となった徳川家茂の奪還を実行する(不成功)という硬骨漢でもあったようです。

 「安政の五ケ国条約」の締結により箱館・横浜・長崎で貿易が開始されます。輸出品は生糸、蚕卵紙、茶で、価格競争力のあるこれらの品は輸出に回ることで国内で品薄となり、海外からは機械生産された安価な綿織物が大量に輸入されたため、綿花、綿織物、木綿産業がダメージを受ます。これらの流通のアンバランスによって物価は高騰することとなり、為替差損だけではなく流通においても難題を抱え込むこととなります。生糸、雑穀などの五品目について江戸の問屋を経由する法令(五品江戸廻送令)を定め統制を図りますが、外国方はここでもまた列強の圧力に神経をすり減らす始末。
 この辺りは教科書的な記述で、経済小説というには物足りませんが。

続きます。

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司馬遼太郎 坂の上の雲 ③--日露戦争(1) (1969、2004文藝春秋) [日記 (2020)]

坂の上の雲 四 新装版 坂の上の雲 三 新装版続きです
日露戦争
 開戦に踏みきった日本の戦略を作者はこう書きます、

ロシアという大男の初動動作の鈍重さを利用して、立ち上がりとともに二つ三つ殴りつけて勝利のかたちだけ見せ、大男が本格的な反応を示し始める前に、アメリカというレフリーに頼み、間に割って入ってもらって止戦持ち込むというものであった。緒戦ですばやく手を出して殴りつければ国際的印象が日本の勝利のように見え、戦費調達のための外債もうまくゆく。アメリカも調停する気になる。この点をひとつでも踏み外せば、日本は敗亡するという際どさである。

 その戦術は、第一軍を朝鮮に上陸させて鴨緑江付近でロシア軍を叩き、第二軍を南満州に上陸させて遼陽でこれを撃滅し、陸軍を輸送するために海軍は旅順のロシア艦隊を沈めて制海権を握る、というものです。

 なにはともあれ、緒戦において勝って世界を驚倒させねば、外債募集がどうにもならぬ

 日本の国庫にはわずか1億1700万円、これの7~8倍の金額を外債で賄わなければ戦争は覚束ないという心細さ。
 金子健太郎をアメリカに派遣し、ハーバード大学の同窓である時の大統領セオドア・ルーズベルトと接触させ、高橋是清を英米に派遣し、外債の募集を行わせます。誰も日本が大国ロシアに勝利するとは思っていませんから、緒戦でロシアを叩き形だけでも日本の優勢を印象付け調停に持ち込まなければ、財政的にも行き詰まる日本の”際どさ”です。日露戦争というのはそれほどの「綱渡り」であったわけです。逆にいうと、綱渡りをしてでもロシアの脅威を除くことが安全保障上必要だったことになります。この「綱渡り」の戦いがどうだったかというと、

ロシア帝国の常備兵力は、二百万である。日本帝国のそれは二十万(13個師団)でしかない。ロシアの歳入は二十億円であり、日本のそれはただの二億五千万円でしかない。ゆらい陸軍というのは機械力を中心とした海軍とは違い、その国の経済力や文明度などをふくめた風土性を露骨にその体質をあらわしている。南山の戦いは貧乏で世界常識に欠けた国の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めようとし、日本より十倍富強なロシアは、それを機械力で防ごうとした関係において展開する
 南山の戦いでは死傷者4000名を出し、遼陽会戦ではロシア23万に対し日本は14万の兵力に過ぎず、おまけに砲弾が欠乏しているという戦いです。

旅順
(日本軍首脳は)近代戦における物量の消耗ということについての想像力がまったく欠けていた。この想像力の欠如は、この時代だけでなく彼らが太平洋戦争の終了によって消滅するまでの間、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。
 日本陸軍の伝統的迷信は、戦いは作戦と将士の勇敢さによって勝つということであった。このため参謀将校たちは開戦前から作戦計画に熱中した。「詰将棋」を考えるようにして熱中し・・・戦争と将棋とは似たようなものだと考える弊風があり、これは日本陸軍の続く限りの遺伝になった。・・・「詰将棋」が予定どうりにうまく詰まないときは、第一線の実施部隊が臆病であり死を恐れるからだとして叱咤した。とめどもなく流血を強いた。

 この「とめどもなく流血を強いた」戦闘が「旅順攻囲戦」です。ロシア陣地に正面から突貫を繰り返し、いたずらに戦死者15000人、戦傷者44000名の犠牲をはらいます。作者は、司令官・乃木と参謀・伊地知幸介を口を極めて「無能」と罵ります。満州の戦車隊で太平洋戦争を戦った作者は、他人事ではなかったようです。

 庶民が「国家」というものに参加したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突き刺さってきたのは、徴兵ということであった。

 それ以前は兵士は武士という職業的兵士であり、原則として庶民が戦争に駆り出されることはありません。明治国家は国民を徴兵して戦場に送り、そこから逃れる自由を認めず、兵士は無能な指揮官の無謀な命令にも服従する他はなかったわけです。

 国家というものが、庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前はない。
 が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛ではなく、時にはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものに初めて参加し得た集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった。二〇三高地における日本軍兵士の驚嘆すべき勇敢さの基調には、そういう歴史的精神と事情が波打っている。

 「坂の上」に「雲」という近代国家を打ち立てた明治の一側面です。

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EOS kiss X5で野鳥 (2) [日記 (2020)]

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呉 善花 攘夷の韓国 開国の日本②--北九州、出雲、相模・武蔵 (1996年文藝春秋) [日記 (2020)]

攘夷の韓国 開国の日本 続きです
北九州(渡来 →さすらい)
 著者は、済州島出身で日本に帰化した現代の”渡来人”です。自身の経験から、日本に住み着いた来た外国人(渡来人)は、「渡来 →さすらい →日本化 →土着」の4つ過程を経てこの国に定着するという仮説をたてます。著者は、根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失うという速佐須良比売神(はやさすらひめ)に故郷を捨て倭国にさすらう自己を重ね、韓国から日本へと流れ、新宿・赤坂・上野などの韓国クラブで働く彼女たち(『スカートの風』?)を投影します。このサスラ姫から宗像大社の三女神、辺津宮の市杵島姫神(イチキシマヒメ)、新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となったアカルヒメ、日本から済州島に渡った三女神に思いを馳せます。著者は、古代には対馬海峡、玄界灘を渡って半島と日本を往来した人々の想いが、宗像三女神、アカルヒメ、済州島三女神に結実したと考えます。なかなかロマンティックで、この日韓関係の論客は詩人でもあったわけです。

出雲(日本化)
 北九州で渡来人の「渡来 →さすらい →日本化 →土着」過程の「さすらい」を考えた著者は、出雲のスサノオ、オオクニヌシに「日本化」を見ます。スサノオはアマテラスの弟ですが、新羅に渡ってのち出雲に現れますから、渡来人のバリエーションです。スサノオをめぐる伝承、神話には韓半島が色濃く投影され、スサノオを祀る神社は唐国新羅神社などの名を持つことから、「スサノオ渡来人説」があります。司馬遼太郎は、『砂鉄のみち』(街道をゆく7)でスサノオと出雲に渡った韓半島の砂鉄集団との関係を示唆し、梅原猛は「出雲王朝」の存在を唱え、渡来系の集団の存在を説いています。
 スサノオは、ヤマタノオロチを退治し地元の豪族の娘クシナダヒメを妻に迎える神話を、渡来人の日本化の過程と考えます。スサノオの6代後の子孫オオクニヌシは、スサノオを渡来1世とするなら、(在日)2世、3世(実際は6世?)に当たります。出雲王朝を建て国譲りをするオオクニヌシは、世代へ経て日本に同化し日本の歴史に組み込まれたことになります。これは、在日三世の鞍作止利が、日本的感性で飛鳥寺や法隆寺の仏像を造ったことと同じ位相だということです。

相模・武蔵(土着)
 著者は、埼玉県日高市の高麗町を訪れ、渡来人の「土着」を考えます。武蔵国には、今でも渡来人の末裔がいるわけでしょうが、1300年の時間に晒されて日本に同化した彼らに渡来人の意識はなく、高麗町という地名と、高麗山、高来(麗)神社が祖先の遠い記憶として残っているいるだけです。当たり前といえば当たり前の話しですが、現代の渡来人である著者は「高麗町」で感慨深にふけることになります。

 著者ははるか古代の渡来人に思いを馳せ、武蔵国高麗郡が成り立つ7~8世紀の渡来人の移住記録を『古事記』『日本書紀』から拾い上げます。

665(天智4):百済人百姓男女400余名を近江国神前郡に住まわせる
666(天智5):百済人男女2000余名を東国に住まわせ三年間官食を支給
669(天智8):百済人男女700余名を近江国蒲生郡へ移住させる
684(天武13):百済人23名を武蔵国へ住まわせる
685(持統称制):高句麗・百済・新羅・の百姓男女および僧尼62名を筑紫太宰が朝廷に献上
687(持統元):高句麗人56名を常陸へ、新羅人14名を下毛野へ、新羅人22名を武蔵へ住まわせる
689(持統三):渡来してきた新羅人を下毛野へ住まわせる
690(持統4):新羅人14名を武蔵へ、新羅人若干名を下毛野へ住まわせる
716(霊亀2):甲斐・駿河・上総・下総・常陸・下毛野の高句麗人1799名を武蔵へ移して高句麗郡を設置
758(天平宝字2):新羅人74名を武蔵国に移して新羅郡を設置

 これは、韓半島から人々が倭に移住した記録ではなく、大和朝廷が半島からを韓族(漢族)を「受け入れた」記録だといえます。

韓半島から日本への渡来の流れの中で、いかに亡命者・難民の流れが太いものであったかは、次の年表からはっきり浮かび上がってくる。
①紀元前後(韓半島南部の韓族系の者たち)
 紀元前108年、漢が韓半島北部から南部に賭けて侵出し楽浪郡はじめ五郡を設置
 205年、漢が帯方を郡設置
②四世紀~五世紀初頭(楽浪郡・帯方郡在住の漢族や韓族、百済人・伽耶人)
 313年、高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす
 369年、倭軍が百済救ため出兵
 391年、倭軍が百済・伽耶・新羅に侵攻(好太王碑文)
 400年、高句麗が南下し伽耶を攻撃
 404年、倭軍が高句麗軍と戦闘し敗退
③五世紀後半~六世紀(百済人技術者、新羅人・高句麗人・伽耶人)
 475年、高句麗が新羅に侵入
 532年、新羅が伽耶の金官国を領有
 554年、百済の聖王が新羅との戦闘で戦死。倭軍が百済救援に出兵
 562年、新羅が伽耶を併合(日本府の消滅)
④七世紀後半(百済や高句麗からの亡命者、新羅人・唐人)
 660年、百済が唐・新羅連合軍に敗れる
 663年、倭軍が白村江の戦いで唐軍に敗れる。百済の滅亡
 668年、高句麗が唐・新羅連合軍によって滅ぼされる
 674年、唐が新羅を攻撃。後、唐軍が韓半島から撤退する
 676年、新羅が韓半島を統一する
⑤九世紀半ば頃まで(帰化を希望してやって来た少数の新羅人や唐人)

 これを以って戦乱の半島から亡命者や難民が続々と日本にやって来たとはいえませんが、戦乱や国の滅亡によって、古くから交流のあった倭国に難を逃れた人々があったとしても不思議はありません(秦氏、東漢氏、西漢氏など)。そのなかには、スサノオのように日本から半島に渡った倭人も含まれていたでしょう。歴史に現れない無名の渡来人が相当数いたと思われます。
 楽浪郡などには漢民族が移住し、高句麗がツングース民族の国家であり?、半島そのものが漢人、女真人、渤海人など東アジアの諸民族の流入によって成り立っているとすれば、倭国もまた東アジアの南端でその影響を受けていたと考えられます。古代に国境はなかったわけですから。

韓半島はいったい、この1000年間でどれだけの亡命者・難民を生み出し日本に流出させたのか。どれだけの人材を切り捨て、どれだけの文化を灰燼に帰していったのだろうか。・・・日韓交流の歴史の大半は、実にこの激しく展開された1000年間の歴史に集約されている。以後の1000年の歴史とは比較にならない、濃密な文化的・人的な交流関係があったのである。

 と嘆息し、本書をこう締めくくります、

・・・政治的・民族的な優位性のモチーフを背景に潜ませた「日本文化のルーツ=朝鮮」説の展開が、日韓の文化的・人的な交流に有意な役割をはたすことなどあるわけがない。
 古代日本列島の渡来人たちがたどった心の足跡は、諸民族の融合というグローバルなテーマを喚起させてくれる未来の物語でもある。

確かに。情に流されたところもありますが、なかなか面白い本です。


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暖冬で菜の花 [日記 (2020)]

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司馬遼太郎 坂の上の雲② --ロシア(1969、2004文藝春秋) [日記 (2020)]

坂の上の雲 <新装版> 2 続きです。
ロシアの南下
 ロシアの南下によって「日清戦争 →三国干渉 →日露戦争」が起こったというのが、作者の考えです。この南下の淵源は、タタール人と毛皮だといいます。ロシアは、ノルマン人がウクライナ(キエフ、ルーシ)に建てた王国が基となっていますが、その時、広大なシベリアは狩猟遊牧民ツングース人、ヤクート人が暮らすたぶん原始の地です。13世紀にモンゴルがウクライナに侵入しこの地を支配します、いわゆる「タタールのくびき」です。モンゴル人は騎馬民族、その機動力でアジアからヨーロッパに跨がる大帝国を築きます。この支配は250年ほど続き、タタール人(モンゴル人)がロシア人に与えた影響は、専制主義と領土拡張思想だそうです。たかが2百数十年のモンゴル支配で、ロシア人が侵略的民族に変わるとも思えないのですが、アジアからヨーロッパを席巻したタタール人が騎馬民族であることを考えれば、さもありなんと思ってしまいます。さらにタタール人が消えたあとの中央アジア=前支配者の土地に「俺たちの領土だろう」というノリでロシア人が進出し、コサックが毛皮を求めてシベリアに侵入します。

古い時代、ロシア国家というのは、一個の巨大な毛皮商人であった。とくに17世紀以後、毛皮輸出が国家の重要財源になり、専売制がとられたこともある。シベリアは、その宝庫である。・・・人類(ツングース人、ヤクート人)も、まばらながら住んでいる。・・・彼らが毛皮をとる。ロシア人がそれを買いに来る。・・・かれらはシベリアを東へ東へと進み、ついに沿海州に達し、更にカムチャッカ半島にまで達した。ーーここは、ロシアの領土だ、ということになった。

 国家の主権の及ばない未開のシベリヤを、毛皮を求めて西進、南進するロシア人というのは想像できます。

彼らは長い歳月のあいだ、なし崩しの「侵略」を重ねつつ遂にカムチャッカ半島に達し、さらに千島列島に南下し、占守(しゅむす)、幌筵(ぱらむしろ)の両島を占領し、いよいよ進んで得撫(うるっぷ)島以北の諸島を侵したとき、はじめて日本と接触した。・・・日露戦争からほぼ150年前のころである。
 日本人が、当時でいう赤蝦夷ーーロシアの危機を感じた最初である。

 1781年、工藤平助は『赤蝦夷風説考』を書いて、南下するロシアの脅威と蝦夷地の開発を説きます。
 ロシアの南下は最初ヨーロッパで行われます。クリミア戦争を起こし外交で英仏に破れた後、1891年にシベリア鉄道を起工、その領土的野心は極東に向かいまます。極東でも、イギリスとロシアが角を突き合わせます。インドまで視野に入れ不凍港を求め南下するロシアに対して、クリミアでロシアの野望を阻んだイギリスは対馬海峡を封鎖するため済南島の北東にある巨文島に進出し、これに対しロシアは対馬に上陸し租借を強要します。英露の租借は実現しなかったわけですが、ロシアを過疎敵国とした攻守同盟、日英同盟に至ることになります。

 日清戦争の結果、2億両(テール)の賠償金と、台湾、澎湖島、遼東半島の領土を得ますが、露独仏の三国干渉によって遼東半島を放棄させられます。不凍港である旅順港の欲しいロシアはにとって、遼東半島を領有する日本は邪魔物。「東アジアの平和のため」とか何とか言って武力をチラつかせて遼東半島の返却を迫り、日本は一戦交えてでもという軍事力は無く、ましてドイツ、フランスまで敵にまわす国力はありません。ここから国民の間に「臥薪嘗胆」の気分が生まれ、ロシアに対抗できる軍備の拡張(海軍)が行われるわけです
 当時の日露の海軍力の差は、ロシアが1万トン以上の戦艦10隻、7千トン以上7隻、7千トン未満は10隻、日本は戦艦はゼロ、巡洋艦を持っているに過ぎないという貧弱さです。ロシアと対抗するためには、軍事費がとてつもない額になります。日清戦争が終わった明治28年に、総歳出9100万円に占める軍事費の比率は32%。翌29年は歳出は2億円に跳ねあがり同48%、30年55%で額は28年の三倍。この突出した軍事費で日本は海軍を充実させ、これが日露戦争まで続きます。当然、皺寄せは国民に行ったわけですが、国民はこの大きな軍事負担に耐えたわけです。それほど三国干渉の屈辱は大きかったのでしょう。

満州と朝鮮半島
 ロシアは、露清条約(1896)を結び旅順・大連の租借権(1898)を得て旅順に要塞を築き、シベリア鉄道と直結する”東清鉄道、南満州支線”の施設権を得、兵站の準備まで整えます。1900年義和団事件が起き、ロシアは満州に出兵しそのまま居座ります。
 ロシアの領土的野心を、たぶん蔵相ウィッテの回顧録がネタ元だと思われますが、作者はまるでニコライ二世の宮廷に潜り込んでいるかのように描きます。陸相クロパトキンにこう語らせます。

北京へ兵力を出す。が義和団は北京だけにいるのじゃありませんからね、満州にもいる。我々は満州にも大群を出す。そのまま座り込んでしまう。満州は自然ロシアのものになる。

 満州の次は朝鮮。退役軍人ベゾブラゾフを登場させてニコライ二世に説きます。

朝鮮をも領有なさらねばなりませぬ

満州と遼東を占領しただけで朝鮮を残しておいては何もならない。朝鮮は日本が懸命にその勢力下に置こうとしており、将来日本はこの半島を足がかりにして北進の気勢を示すであろう。その日本の野心をあらかじめ砕くには、いちはやく朝鮮をとってしまうほかない

朝鮮半島を得てはじめて陛下が欧亜にまたがる史上空前の帝国の主になられるということになります

 朝鮮こそいい面の皮ですが、かつては高宗が頼ってその公使館に逃げ込んだロシアは、こう考えていたことになります。

19世紀からこの時代(日露戦争前夜1903年)にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力を持ち、帝国主義の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国(現在の平和国家日本)こそ当時のあるべき姿とし、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際社会に割り込ませて国家の在り方の正邪を決めるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。

・・・日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、その時から他国(朝鮮)の迷惑の上において己の国の自立を保たねばならなかった。

 日本は、その歴史的段階として朝鮮を固執しなければならない。もしこれを捨てれば、朝鮮どころか日本そのものもロシアに併呑されてしまうおそれがある。この時代の国家自立の本質とは、こういうものであった。

 この年、駐日ロシア大使ローゼンは、北緯39度線で朝鮮半島を日露で分割する提案がなされます。ロシアはすでに満州を奪い、その武力を背景としたロシアの企業は満州国境から北朝鮮を抑えています。この提案を飲めば、いずれロシアは南下し39度線上で軍事衝突が起き、日本列島はロシアに飲み込まれざるを得ません。

ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした。死力をふるって猫を噛むしかなかったであろう。

続きます。

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いただきもののカニ [日記 (2020)]

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 カニ食べにいったヨ!、とお土産もらいました。手と口を汚して食べるカニは格別。他の地方はどうなのか知りませんが、関西人は本当にカニが好き、道頓堀にも大きなカニがいるし。山陰生まれの奥さんに言わせると、こんなカニは子供の頃のオヤツだったそうです(笑。

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シンビジューム [日記 (2020)]

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 こちらで株分けしたシンビジューム、花を付けました。

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呉 善花 攘夷の韓国 開国の日本 ① --渡来人 (1996年文藝春秋) [日記 (2020)]

攘夷の韓国 開国の日本  『韓国併合への道』が面白かったので、引き続き呉善花氏。タイトルは『攘夷の韓国 開国の日本』ですが、現代の「渡来人」である著者が、古代渡来人の足跡を求めて飛鳥、北九州、出雲、相模・武蔵を旅する紀行です。
 著者は自身の経験から、日本に来た外国人(渡来人)は、渡来 →さすらい →日本化 →土着の4つ過程を経てこの国に定着すると仮説を立てます。

韓国版 「日本古代史」
 著者によると、韓国人の一般的な日本古代史に対する理解は、

1)「韓半島」「漢民族」を意味するとされる多数の歴史的な地名・人名・社寺名などは、膨大な数の百済人・新羅人・伽耶人・高句麗人などが日本各地に居住して生活や文化を展開していた。

2)寺院や仏像をはじめとする古代の飛鳥・奈良・京都の文化遺産のことごとくが韓半島のものを取り入れたものであり、韓半島から日本へ移住した知識人や技術者によって、あるいはその子孫たちによって作られたものである。

3)政治や仏教のあり方について、その法・制度・諸儀礼・服装などが韓式にのっとたものであり、多くの貴族・高級官僚・僧侶・学者などが韓半島人によって占められていた。

 故に、古代日本文化は漢民族がつくった、古代日本文化のルーツは朝鮮文化にある。・・・従って今日の経済発展を遂げた日本文化のベースは韓国人によってつくられたのである。

 というものだそうです。日本史で「渡来人」を習いますから、渡来人が日本に与えた影響は否定しませんが、「日本文化のベースは韓国人によってつくられた」というのは何処まで正しいんでしょう。
 高麗大学の崔在錫教授は、埴原和郎の「二重構造モデル」(だと思います)を使って奈良時代の人口の96%は渡来系であるという説を展開し、日本書紀等の記述から、大和王朝は百済が建てたものであり大和は百済の植民地でああったという説を唱えているそうです(『百済と大和倭の日本化過程』1990)。

 さらに面白いのは、金洪吉『日本人の韓民族に対するコンプレックス2000年--憎しみと侵略で一貫した敵対の歴史、その実相と原因』1993。タイトルだけで中身が想像できます。金氏によると、日本人の本体は、韓半島で生きられなくなって日本に渡った漢民族である。だからこそ本国の韓民族に対するコンプレックスと強い恨みを抱き、歴史的に韓国に対してさまざまな悪辣・野蛮な行為(三国時代の侵略、秀吉の壬申倭乱、日帝36年の支配などなど)を働き続けてきた。ということだそうです。ホモサピエンスのDNAに2.5%のネアンデルタール人のDNAが含まれている程度には、日本人は韓国人でしょうね。さりながら、韓民族に「コンプレックスと強い恨み」などつゆ程も抱いたことはありません。
 茶道からソメイヨシノまで元は韓国が発祥だという「韓国起源説」のある国ですから、ありそうな論です。著者によるとこれらの論は、民族を統合するための「反日」教育の一環であり、

反日教育の狙いは、36年間植民地支配にあまんじてきた「屈辱の歴史」を精神的に精算し、民族の誇りを回復することにあった。そのために、国内に「自民族優位主義」の思想を固め、日本民族対する漢民族の優位性を歴史的に示すことが重要なテーマとなったのである。

 李栄薫のいうところの『反日種族主義』です。「現代の渡来人」である著者は、これらの「妄想史観」を否定し自らの異文化体験を踏まえ、韓半島経由で渡来した文化が、どのように日本で受け入れられどのように日本文化となり、渡来人はどのように日本人となっていったか、を考える旅に出ます。

渡来人
 著者はまず飛鳥寺を訪れ飛鳥大仏(釈迦如来像)と対面します。仏像と伽藍建築が、韓半島の仏教文を化背景に、韓半島人の血を受け継ぐ人々によって作られたことに民族の誇りを感じて涙が出るほどに「嬉しく」なります。飛鳥寺は渡来人ともいわれる蘇我氏ゆかりの寺であり、大仏の作者も蘇我氏に連なる鞍作止利ですから、韓国人の著者が感激するのももっともです(蘇我氏と止利が韓国系渡来人であったとしてですが)。

飛鳥・奈良で多くの韓国人が感じるこの種の「嬉しさ」は、日本人を排除し、日本人の主体を抜きにした我田引水の「嬉しさ」になってしまうことが少なくない。実際、飛鳥・奈良の偉大な古代文明を生み出したのは「韓半島人と韓半島文化」なのであって、「日本人と日本文化」なのではない、といったエゴイスティックな民族幻想が、韓国人の間には広くいきわたっている。

 が、その「嬉しさ」を感じた瞬間、国内ではこんな深い感慨に耽ることのできるどんな対象もないことに気づいて唖然とする。・・・わが韓半島の先祖たちは、さまざまな理由があったにせよ、古代仏教文化の人為的な破壊と自然崩壊を推し進め、その大部分を灰燼に帰してしまったのである。

 自民族に対する皮肉は痛烈です。この皮肉は日本人にも向けられます。国宝級の作品が朝鮮民族の手で作られたと書く柳宗悦、「百済観音」の作者が朝鮮人か日本人かにこだわる和辻哲郎を引き合いに出し、「何人か」と言う目で歴史や文化を見るのは無意味ではないか、古代東アジア国際社会に生きた人々の営為を、現代的な民族意識に引きずり込んで価値づけようとすることは、きわめて暴力的な歴史意識だと批判します。
 日本書紀に書かれた渡来人は、四世紀初頭から五世紀初頭に日本にやってきた人々であり、飛鳥寺を建立した渡来系の人々は祖先が渡来してから100年150年は経っている、

六世紀半ばの時点で渡来人といわれた者たちの多くは、日本に土着して数世代から十数世代の歴史を持っている人々だということである。・・・従って、彼らは本当の意味ではもはや渡来人ではありえず・・・「先祖を外来のものとする伝承をもつ日本人」というべきなのだ。

至極もっともな話です。著者は鞍作止利の造ったとされる飛鳥大仏と法隆寺の釈迦三尊像の顔がアシンメトリーであることから、そこに非朝鮮、日本の美意識を感じ取ります。

飛鳥仏を造った鞍作止利は(在日)三世であり、彼をして「韓半島人の血を受けた者」という点を重視し、日本風土の中で「二代半」にわたって自己形成を遂げたことを軽視するのは、まったく不当である。

 現代の渡来人ならではの論考です。

続きます

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司馬遼太郎 坂の上の雲 ①--日清戦争 (1969、2004文藝春秋) [日記 (2020)]

坂の上の雲 <新装版> 1  朝鮮半島の歴史をあれこれ読んできたのですが、個人的な疑問は、日本政府が何故あれほど半島にこだわったのか?、ということです。南下政策を取るロシアが半島に進出れば、日本は対馬海峡を隔ててこれと向き合わねばならないという恐怖、というのが正解なのでしょうが、明治の日本にとってロシアがどんな存在であったかが分かれば、李朝末期から日韓併合に至る経緯、満州国成立の背景の理解が深まるのではないか。日清、日露戦争を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』を、「ロシア」という変則的な視点で読んでみます。

好古、真之、子規
 『坂の上の雲』の主人公は三人。露戦争で騎兵を率い、史上最強といわれるコサック騎兵を破る伊予松山の旧藩士族・秋山好古。海軍参謀となって日露戦争でバルチック艦隊を破った好古の弟真之。もうひとりが、俳句、短歌という日本の伝統文芸に近代文学の光をあてた正岡子規。作者は、この三人を主人公に明治という時代を描きます。たとえば、陸軍省は好古に軽騎兵の戦術、内務、経理、教育の研究を命じます。

要するに日本陸軍はこの満三十になったかならずの若い大尉に、騎兵建設についての調べのすべてを依頼したようなものであった。それだけではなく、帰国した後は好古自身がその建設をしなければならない。建設するだけでなく、将来戦いがあればその手作りの騎兵集団をひきいてゆくのは彼であり、一人ですべての役をひきうけていた。この分野だけでなく他の分野でもすべてそういう調子であり、明治初年から中期にかけての小世帯日本のおもしろさはこのあたりにあるであろう。

 著者は、明治国家を「オモチャ」とも表現していますが、寄ってたかって近代国家を造ってしまうという創生期の明治には、”手作り”感があって微笑ましいです。微笑ましいですが、日本の近代化には日本なりの必死な思いもあるわけです。

「明治日本」というのは、考えてみれば漫画として理解したほうが早い。すくなくとも、列強はそうみた。「猿まね」と、西洋人は笑った。・・・しかし、当の日本と日本人だけは、大まじめであった。産業技術と軍事技術は、西洋よりも四百年遅れていた。それを一挙に真似ることによって、できれば一挙に身につけ、それによって西洋同様の富国強兵のほまれを得たいとおもった。・・・西洋を真似て西洋の力を身につけねば、中国同様の亡国寸前の状態になるとおもっていた。日本のこの己れの過去をかなぐり捨てたすさまじいばかりの西洋化には、日本帝国の存亡が賭けられていた。

明治維新を成し遂げたひとつには、この「恐怖」があるというのです。

この当時の日本は、個人の立身出世ということが、この新興国家の目的に合致していたという時代であり、青年はすべからく大臣や大将、博士にならねばならず、そういう「大志」にむかって勉強することが疑いもない正義とされていた。

 明治という時代は、個人の志と国家の要請が一致する幸せな時代です。秋山好古は陸軍、真之は海軍とそれぞれ国家有用の人間ですが、正岡子規は陸羯南の『日本』と自ら主宰する『ホトトギス』に拠り俳句・短歌の革新運動をとなえる国家有用とは少し異なった市井の一私人。秋山好古、真之兄弟を主人公として登場させれば必然的に正岡子規が出てくるわけですが、この性格の違った二つが国家有用の人間であったことも明治の面白さだといえます。

日清戦争
 原因は朝鮮半島、その地理的、地政学的存在です。ロシア帝国はすでにシベリアを領有し、沿海州、満州をその制圧下におこうとし、余勢を駆って朝鮮にまで手を伸ばそうとします。

「朝鮮の自主性をみとめ、これを完全独立国にせよ」
というのが、日本の清国そのほか関係諸国に対する言い分であり、これを多年、ひとつ念仏のようにいいつづけてきた。日本は朝鮮半島が他の大国の属領になってしまうことをおそれた。そうなれば、玄界灘をへだてるだけで日本は他の帝国主義勢力と隣接せざるをえなくなる。

 この恐怖感のもとで韓国に甲午農民戦争が起こり、李朝は清に派兵を要請。清の大群が半島に存在するという恐怖で、日本も「天津条約」によって半島に出兵します。韓国政府が清に派兵を依頼した翌日には日本政府は派兵を閣議決定し、陸軍参謀本部が動きます。著者によると、政府(伊藤博文)は清国との対抗上出兵はするが戦争は考えていなかったようです。陸軍は明治17年から参謀将校を清国、満州、朝鮮に放って戦争に備えていたようです。
 参謀次長・川上操六が登場します。首相・伊藤博文に朝鮮出兵の勢力を問われ、川上は1個旅団と答えます。多すぎるという伊藤に、川上は「統帥権」盾に一個旅団、戦時のおいては8,000の兵を朝鮮に入れます。

 首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほど恐れ、その勃発を防ごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手際よく勝ってしまったところに明治憲法の不思議さがある。ちなみにこの憲法が続いたかぎり日本はこれ以後も右のようで在り続けた。特に昭和に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家が滅んだことを思えば、この憲法上の「統帥権」という毒物の恐るべき薬効と毒性がわかるであろう。

 「統帥権」を蛇蝎の如く嫌う司馬遼太郎ならではの表現です。日清戦争で、海軍少尉・秋山真之は黄海海戦では巡洋艦筑紫に乗り組んで後方支援にまわり、陸軍騎兵少佐・秋山好古の騎兵第一大隊は遼東半島に上陸し旅順攻略に参戦しています。子規は病のため従軍記者として戦場に行くこともままならず、

進め進め角(つの)一声月上りけり

などと下手な俳句を詠んで、根岸の子規庵で鬱勃たる日々。
 著者によると、19世紀は帝国主義の時代であり、国家というものはその生理として膨張を欲する」時代だといいます。ヨーロッパの近代国家はその膨張の野望を東アジアに向け、安全保障上列強の朝鮮侵略を何より恐れる日本は、韓国が自らの力で独立を保てない以上、日本は何が何でもその独立を保つ必要があったわけです。

続きます

タグ:読書
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