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李承晩TV 妓生 [日記 (2021)]

妓生(キーセン)―「もの言う花」の文化誌
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 「妓生」について興味があり、川村湊『妓生―「もの言う花」の文化誌』を読みました。マイナーな分野ですから資料が少ないなか、面白い動画を見つけました。李承晩TVの「日本軍慰安婦問題の真実」の「5. 朝鮮の妓生(キーセン)、別範疇の慰安婦」です。講師は『反日種族主義』の李栄薫先生。

 歴史的な妓生像は、李栄薫先生の講義も『もの言う花』と似たようなものです。李朝には「七般公賤」という身分制度があり、官は賤民階級を官妓・官卑、両班階級は奴婢として使い、酒席で歌舞をさせ性的奉仕をさせていたようです。『ものいう花』によると、

忠烈王五年、命じて州郡に妓・有色芸者を選び、教房に充つ
成宗五年、王は宗廟に至り桓祖の神主及章順王后の神主を永寧殿に付す。還宮の時昔老、儒生、妓生等歌謡を献じ、百戯を陳す。百官賀箋を進む。
燕山君十年、諸道を大小邑に分け、皆に妓楽を設け、運平と号す。運平三百人を選び、都城に入内させ、任士洪を以て採紅使と為す(朝鮮解語花史)

 「解語花」とは「もの言う花」=妓生こと、「運平」も妓生のことです。妓生の養成所を作り、地方の派遣軍にまで妓生を配していたのです。「従軍慰安婦」は李朝の時代から朝鮮半島にあったわけです。燕山君はことのほか妓生に執着が強かったようですが、日本にも、今様や朗詠を吟じて踊る男装の遊女・白拍子が存在します。平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の静御前、後鳥羽上皇の亀菊などがいそれで、朝鮮も日本も同じようなものです。

 李先生は、17世紀の『赴北日記』を元に、両班と妓生の生態を説きます『赴北日記』を記した両班の朴就文は、1664年に武班として咸鏡道・会寧の守令(地方官僚)として勤務します。『赴北日記』は、守令としての1年5ヶ月、遊んだ妓生や接した女性たちについての遊行録?です。永井荷風が読めば絶賛したかもしれないw。
 朴就文は郷里の蔚山から赴任地の会寧へと半島東海岸を北上します。蔚山を出て2日目、宿泊した地方官僚宅の16歳の女婢と共寝(と先生は表現)し、宿泊する各所で民間の私婢や官衛の妓生と遊びます。官軍身分の朴就文が宿泊すると家主は女婢を差し出すこともあり、こういった風習があったようです。朴に随行する将兵にも女婢が提供されます。義城県では酒家の妓生と「共寝」し、ゆく先々では妓生、女婢の提供を受けながら旅を続けるわけです。なんと、富寧では宿泊した家の娘の提供を受けています。

 李栄薫先生は、『世宗ははたして聖君か』とい妓生の歴史についての著作を著しているようで、妓生の通史としては初めての研究だと自賛しておられます。妓生の通史ですから読んでみたいものです。妓生を軍慰安婦としたのも世宗だそうで、李先生によると、李朝第4代の世宗は、

「北方の辺境で勤務する軍士達が家から遠く離れ、寒さと暑さに苦労が多い。また日用のザッtな仕事を一々解決することも難しい。そこで、妓生をおいて将校と兵士、士卒を接待させるのが理に適うことだと」としながら、軍士を接待する妓生を設置するよう命じました。以降、北方の辺境の地域は勿論、全国の各村に妓生が設置されました。
大きい監営や軍営には妓生が100人を超えることもあり、規模が小さい軍県でも20~30人の妓生を置くことが普通でした。全国ではほぼ1万人に達するのではないかと私は推測します。このようにして生まれた軍士慰安婦制が、ほかならぬ朝鮮の妓生です。
元々世宗は、辺境の軍士を慰安するために設置するよう命じましたが、いつの間にか、南方の各村にまで守令と賓客を慰安する制度として広く拡散されました。そうなった背景は、南北を問わず、民間で女婢を客の寝室に入れ、性接待をさせるのが風俗と慣行として定着・成立していたからであります。

 このような身分制と妓生制度は甲午改革(1984)で廃止される19世紀まで続き、20世紀に入ると身分的な制度は商業的売春に変わったといいます。中国大陸や東南アジアに渡った従軍慰安婦もこうした歴史的背景があったわけです、なるほど。
 李承晩TVは面白いです。

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