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映画 聖なる鹿殺し(2017英愛) [日記 (2021)]

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア [DVD]  医療ミスで手術中に患者を死なせてしまった心臓外科医のスティーブン(コリン・ファレル)の一家に起こる一種のホラー?です。
  医療ミスは問われなかったものの、罪の意識にとらわれるスティーブンは、死んだ患者の息子マーティン(バリー・コーガン)にプレゼントを贈ったり食事に誘ったりと気遣っています。マーティンは、礼儀正しい好青年ですがスティーブン家に招かれ家族と親しくなるとともにその本性を現します。マーティンはスティーブンを自宅に招き、父親の代わりになれとばかりに母親との仲を取り持ち、スティーブンの娘キム(ラフィー・キャシディ)に近づきます。マーティンは復讐するのでもなく金銭を要求するのでもないところが不気味。マーティンの目的はいったい何なのか?というサスペンスでもあります。

 スティーブン息子ボブが突然歩けなくなり食物を受け付けなくなります。精密検査するも異常は発見されません。やがて、マーティンはスティーブンに不気味な予言を告げます、

先生は僕の家族を一人殺した、だから(スティーブンは)家族を一人殺さねければならない
誰にするかはご自由に、もし殺さなければ皆死ぬ ボブもキムも奥さんも病気で死ぬ
手足の麻痺、→食事の拒否、→目から出血して →そして死ぬ。先生は助かる

ボブは、既に手足が麻痺し食事を拒否していますから、マーティンの予言通りなら、次に目から出血して死ぬということになります。ボブが死ぬ前にスティーブンが家族3人の誰かを殺さないと、3人とも死ぬというのです。家族3人のうち誰かを1人を殺せば2人は助かる、殺さなかったら3人とも死ぬ。つまり、マーティンの父親を殺した罪を、家族1人を殺すことによって贖えというわけです。マーティンは預言者であり裁定者です。

 ボブに続き、娘のキム(ラフィー・キャシディ)が下半身麻痺となり食事を取らなくなります。医師として築いた名声と富、美しい妻と2人の子供の幸せな家庭、人が羨むスティーブンの人生は崩壊の危機に立たされます。医療ミスによってマーティンの父を死なせた罰なのか?、マーティンの呪いなのか?。
 実は、スティーブンは酒を飲んで手術をし、マーティンの父を死なせていたです。子供2人が原因不明の病気にかかり死に瀕していることは、スティーブンの罪と罰ということになります。

 スティーブンの妻アナ(ニコール・キッドマン)がマーティンに問います、

夫の過失が原因が職務怠慢でであるかどうかは別にして、
なぜ私まで代償を負わなきゃならないの?、子供たちに何の責任が?
誰かに言われました、僕のパスタの食べ方が父とそっくりだと
当時思いました、父の食べ方を継ぐのは僕だけだって
当然あとで気づきました、パスタの食べ方はみんな同じだと
動揺しました、とてもね、死んだと聞いたときよりショックでした
フェアかどうかは分からない、でも正義が近づいていることは確かです

マーティンは「喪失」の問題を言っています。母親と自分が父を失ったように、スティーブンとアナも同じ喪失を負うべきだ、それは正義だというのです。マーティンは復讐も贖罪も求めていません。スティーブンとアナも平等であるべきだと言っているのです。

 スティーブンは究極の選択を迫られ、目から血を流しはじめた息子のボブを撃ち殺します。決行する前にどちらの子供が優秀か教師に聞きに行ってます。つまりどちらのコロスべきかです。妻のアナは子供はまた作ればいいと言い、キムはボブに(アンタが死んだら)音楽プレーヤーをくれと言います。ボブをコロスことは家族の了解事項のようです。
 アナは、スティーブンが自宅に監禁したマーティンの足にキスして逃し、キムは自分だけでも助けてくれと彼に頼み、家族は崩壊します。アナがマーティンの足にキスする行為は、ルカ伝(福音書)7章37-38節の「罪深い女」がイエスの足に接吻する行為をなぞったものです。

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、
後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

 アナは「罪使い女」であり、マーティンは何とイエス!。そうなると、マーティンの予言と正義は、イエス(あるいは神)の予言と正義ということになります。マーティンがイエスのメタファーだとすれば、スティーブンは命を司る現代の司祭、イエスが激しく批判した宗教的権威で民衆を支配するユダヤ教の司祭(律法学者)に相当します。アナは医療ミスの情報を得るため淫らな行為をし、キムはマーティンを誘惑しますから、二人は「罪使い女」でしょう。ではボブは?。
 ボブは、たぶん旧約『創世記』イサクの燔祭(はんさい)のイサクです。神はアブラハムに一人息子のイサクを生贄として捧げよと命じアブラハムの信仰を試します。アブラハムがイサクの上に刃物を振り上げた瞬間、神の使いが現れてその行為を止めますが、スティーブンはボブを撃ち殺します。ボブは生き残れなかったイサクです。現代の神はボブを助けなかったわけです。

 ラストで、スティーブン、アナ、キムが食事をしているレストランにマーティンが現れます。3人は食事をして店を出ていき、マーティンは3人を黙って見送ります。バックに流れるのはミサ曲?(このシーンは最後の晩餐?)。イサクを生贄として捧げた<アブラハム>と、イサクを救えなかった<神>の「接近遭遇」です。
 『聖なる鹿殺し』は、神無き現代の生贄の神話です。アナがマーティンの足にキスするシーンから紐解くとこうなります、個人的妄想です。キリスト教文化圏なら、もっといろんなメタファーを読み取れるんでしょうが、私には無理、この程度です。

監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン、ラフィー・キャシディ

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