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李成市、宮嶋博史 『朝鮮史 1』② 古朝鮮と倭(2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系) 好太王碑.jpg
古朝鮮と倭
 5~6世紀に朝鮮南部に倭国があったのか?という疑問から本書を読み始めたのですが、明確な回答は得られませんでした。個人的には黒に近い灰色だと思うのですが。で、本書でから「倭」の記述を拾ってみました、6ヶ所のみです。

1)楽浪郡を通じて朝貢をおこなっていた韓やは、このあとは帯方郡の統轄となった。(p40)

 突然「倭」が登場します。金印「漢委奴国王印」の奴国の朝貢が1世紀で、帯方郡ができたのは3世紀初めですから、この「倭」は九州北部の倭なのか、半島南部の倭なのか、ヤマト王権なのか?。竹幕洞祭祀遺跡から想像すると、九州北部の国(例えば)だったかも知れません。朝貢は政治的側面と経済(貿易)的側面がありますが、朝貢するからには権力基盤のある集団だったと思います。
 奴国など九州の国がまず漢に朝貢し、後年ヤマト王権がこれらの国を併呑して北九州から半島南部に勢力を広げたと考えられます。

2)399年に、百済が誓いを破ってと通じたため、軍を率いて平壌に赴いて倭人の撃退策を練り、400年に新羅救援軍を派遣してと安羅の軍を破った。404年に、もとの帯方郡の地域に倭人が攻めてきたため、これを撃退した。(p60)

 有名な「好太王碑」です。この倭は、九州北部の倭なのか、半島南部にあった倭なのか、それとも倭=ヤマト王権なのか、詳しい記述はありません。日本書紀にある三韓征伐、倭の五王・讃の「安東大将軍倭王」もこの頃です。武は、宋のから「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」(宋書)に叙任されたといいます。三国史記(1145)には百済や新羅が倭に人質を送ったとも記されています。

3)奈良県の石上神宮に残る七支刀は、「泰和四年」(369年)につくられて百済から贈られたものである。百済が中国南朝、加耶諸国、と結んで高句麗と対抗するという形勢は、その後も継続した。(p74)

祭儀的な七支刀が大和にあるということは、百済とヤマト王権の深い繋がりを想像させます。

4)南方への拡大は、武寧王代にも継続され、『日本書紀』には512年にが百済に任那の四県を割譲した、とする記事がある。記事そのものは潤色であるとしても、この頃までに全羅道南部地域まで百済が領有化していたことを物語る。(p75)

倭が四県を百済に割譲したということは、それまで倭が県を領有していたとということか?。本書では、日本書紀の記述は信用できないが、百済の領有が全羅道南部まで及んでいたことを「物語る」という主張です。

5)金官国は、『魏志』韓伝に「弁辰の狗邪国」としてみられる。帯方郡から邪馬台国にいたる使者が狗邪国から海を渡っているように、海上交易が国の基盤となり、また鉄生産も盛んであった。四世紀頃には・・・加耶南部諸国の盟主的な地位にあった。四世紀前半には倭国との通交が始まり、四世紀後半には百済—加耶南部―という連携が成立した。
 このことが、高句麗軍の攻撃を招くこととなる。広開土王碑文によれば、倭国の侵攻を受けているという新羅からの援軍要請を受けた広開土王は、400年に5万の軍勢を派遣して新羅を救い、さらに逃げる兵を追って「任那加羅」(金官国)の従伐城にまでいたり帰服させたという。この戦闘に際して、安羅の軍勢もや金官とともに戦っている。この戦いののちも金官国自体は532年まで続くが、弱体化していった。(p97)

 倭国があったとされる、加羅、金官国です。日本の半島進出は鉄の入手だと思うのですが、鉄が触れられているのはこの箇所だけです。
 逃げる倭を「任那加羅」まで追っていったのですから、そこに倭の軍事拠点か兵站があったのかも知れません。任那・加羅は単なる地名として扱われ、「日本府」の記述はありません。半島人の「倭」か日本人の「倭」か分かりません。

(6)その頃金官国は、新羅の攻撃によって壊滅的な打撃を受け、ついに532年に金官国王の仇支は、妻子を引き連れて新羅に降服した。・・・これと前後して、新羅は金官国よりも西にある琢己吞と卓淳も攻略していた。こうした動きに危機感を覚えた安羅は、に救援を求めたものの、派遣されたの援軍は新羅に対抗することができなかった。そこで安羅は、多沙にまで進出していた百済に救援を求め、531年に百済軍が安羅に進駐することとなる。こうして、新羅と百済は、加耶南部で対峙することとなる。膠着状態に陥った両国であったが、541年に百済が新羅に和議を求めて同盟が成立した。
 百済の聖王は、541年と544年の二回にわたり、新羅に滅ぼされた金官・堺己呑・卓淳を復興するという名目で加耶諸国の首長を集めて会議を主催した(任那復興会議)。この会議には、安羅に駐留していたの使節団も参加している。(p98)

任那復興会議に倭が参加したのですから、倭は任那の利害関係国だったのでしょう。半島人の倭であれば日本書紀に記される筈はありません。
 好太王碑に刻まれている以上その存在は否定できませんが、本書では倭についてはボカされています。

白村江の戦い
 『日本書紀』『三国史記』や中国の史書にも記され、百済再興をかけて唐・新羅と百済・倭が戦った「白村江の戦い」はどうかというと、

(百済は)日本に人質として送られていた豊璋を迎えて王として即位させた。・・・六六三663年、日本の水軍と復興軍は、戦力を盛り返した唐・新羅連合軍と白江(白村江)の河口で戦って敗れて壊滅し、抵抗を続けていた諸城も降服した。(p108)

(新羅は)こうした唐との緊張関係とは対照的に、日本との関係は密接であった。高句麗滅亡後の30年間に、新羅からは25回、日本からは9回の使節がそれぞれ派遣されている。新羅のこうした積極的な対日外交は、唐との対立関係があるため後方の安全を確保するという性格が強かった。日本側でも、白村江の敗戦後も唐への警戒をおこなう必要があったことと、律令制を整備するなかで新羅の文物・制度を摂取する必要があったのである。(p119)

 白村江の闘いは、教科書で習ったので大事件だというと錯覚がありますが、本書は朝鮮史ですから記述はあっさりしています。中国との外交は紙数を割いていますが、朝鮮史の本ですから日本となるとあっけない限り。

 でどうかというと、ヤマト王権に由来する「倭」は朝鮮半島に存在した、ということにしておきます。

 ①前方後円墳、②古朝鮮と倭、③倭寇、④外夷の侵攻、⑤朝鮮通信使、朝貢

タグ:読書
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