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村井章介 中世倭人伝 (2) (1993岩波新書) [日記 (2021)]

中世倭人伝 (岩波新書)境界2.jpg
続きです。
倭服、倭語
 14世紀の倭寇の主力は、日本人と朝鮮人の連合した集団あるいは朝鮮人のみの集団だったという説(田中健夫)が展開されます。論拠は、
 高麗朝の末期、倭寇の被害がはなはだしかったが、彼らのうち倭人は1~2割に過ぎず、朝鮮の民が倭服を着て徒党を組んで悪事を働いている(朝鮮王朝実録)
 屠殺や獣革の加工に携わる禾尺(かしやく)や仮面芝居の芸人の賤民の集団がなど倭寇となって略奪をはたらいている」(高麗史節要、1380年代)
という記述です。

 1379年には騎馬七百・歩兵二千という大規模な倭寇が慶尚南道の晋州を襲っていますが、これだけの人馬を九州や対馬から半島に運んだとは考えられず、この倭寇軍団は日本人と朝鮮人の連合した集団だった、あるいは朝鮮人のみの集団だったと考えた方が理屈に合ってます。半島の食い詰め者や半島の身分制度の最下層に属する禾尺(白丁)が倭寇に加担する、あるいは倭寇の名を騙って(倭服を着て)略奪をはたらくということは、十分考えられます。また倭寇に王直徐海の名がありますから中国人の関与は明らかです。

 では、倭寇は倭人+半島人または半島人よる犯罪集団なのかというと、そんなに単純な話ではない著者は云うのです。そもそも人々はなぜ倭服を着、倭賊と称したのか。

済州流移の人民、多く晋州・泗川の地面に寓し、戸籍に載らず、海中に出没し、学びて倭人の言語・衣服を為し、採海の人民を侵掠す。(成宗3閏8戊寅)
此の徒(済州島の鮑採り)は、詐りて倭服・倭語を為し、矯かに発して作耗す(賊を働く)、其れ漸く長ずべからざるなり、と。〔成宗6閏4辛卯)

倭寇だけではなく、済州の海民たちも倭服を纏い倭語も話していたというのです。彼らは、「倭人との間になんらかの一体感を共有していた」と考られると著者は想像します。
済州島の海民だけではなく、

加延助機(海賊)は、博多等の島に散処し、常に妻子を船中に載せ、作賊を以て事と為す。面黒く髪黄いろく、言語・服飾は諸倭と異なる。射を能くし、又善く剣を用う。水底に潜入して船を鑿つは、尤も其の長ずる所なり。 (中宗58丁未)

博多にも一般的な倭人とは異なる倭語、倭服の人々がいたようです。「倭と異なる」というのが肝で、済州島、九州北部の倭寇は、日本語から派生した、朝鮮誤の影響を受けた倭語を話していたのかも知れません。朝鮮語(特に済州語)と日本語は言語系統で隣接関係にありますから。

博多、済州島や対馬あたりの海域で海賊行為を行なっていた人々にとって、倭服は共通のいでたち、倭語は共通の言語だったのではないか。その服を着、そのことばを話すことによって、かれらは帰属する国家や民族集団からドロップ・アウトし、いわば自由の民に転生できたのではないか。

 まとめると、
1)朝鮮半島の食い詰め者や賤民が、倭服を纏い倭寇を騙って略奪を働くことがあった
2)済州島の海民の中には倭服を纏い倭語を話す海賊がいた、彼らは無戸籍者だった
3)博多辺りにも海賊を生業とする人々がおり、彼らの言語・服装は日本人とは異なっていた
4)倭寇にとって、倭服を着、倭語を話すことで国家や民族集団から離脱し自由民となることができた

著者は、倭寇の本質は、国籍や民族を超えたレベルでの人間集団だと言います。東シナ海共和国みたいなものです。東シナ海にも「パイレーツ・オブ・カビリアン」がいたのです。

 15世紀に入り、明と李朝、室町幕府の冊封体制が整うと倭寇も鎮静化に向かいます。李朝の太祖・李成桂は倭寇に懐柔策をとります。金銭と引き換えに投降させる(降倭)、投降した者には朝鮮の官職を与え(受職倭人)、(興利倭人)、貿易を許し(興利倭人)日本の諸勢力の使者という名義での来朝を許可し(使送客人)、国内居住を認める(恒居倭)などの倭寇対策をとります。

野人と倭人
 
朝鮮半島の北辺には女真族(満州族)がいます。半島の南には倭人と朝鮮人のマージナルがあり、北には女真族と朝鮮人のマージナルがあったという話です。

 朝鮮人の眼に倭人とつねに対をなすものと映っていたのが、野人―朝鮮半島極北部から中国東北地方にかけて住んでいた女真族である。朝鮮は朱子学を純粋に信奉したが、それに応じて華夷意識も中国以上に強烈なものがあり、野人も倭人も人間以下の禽獣としかみなさなかった。「野人は犬羊と異なることなく」(成宗52乙丑)、「島夷は……人類に歯うるに足らず」(成宗07戊辰)というわけだ

 華夷意識から、女真族は犬羊、倭人は人間ではないというわけです。犬羊と人間以下とどちらが上で下なのか?ですが、李朝初期には倭人は野人の下だったようですw。
 余談ですが、その犬羊が明を滅ぼして李朝に臣従を求めてきたことから「丙子の乱(1636)」が起こり、李朝を破った清は見せしめに京城に「大清皇帝功徳碑」を建てます。「犬羊」の女真族=清の属国となったわけですから屈辱です。1910年には「人間以下」の倭によって(日韓)併合され、さらなる屈辱を味わうことになります。
 話は「丙子の乱」「日韓併合」ではなく<境界>です。南に倭人を中核とするマージナル=境界があったように、北にも女真族と朝鮮族の境界があります。後に倭人のために開かれた開港場「三浦(さんぽ)」が生まれますが、三浦に対応する野人の居留地が、世宗朝に咸鏡道豆満江畔に設置された五つの城邑(慶源・会寧・鍾城・穏城・慶興)「五鎮」です。朝鮮は、北と南に<境界>を抱えていたことになります(現在の中国・朝鮮族の謂れです)。

 国境線という概念が生まれるまで、民族と民族の接する地域では、ふたつの民族が共存、混在する地域があったはずです。島国日本には、南には本書で述べる倭寇という名の海の境界があり、北には樺太や北方四島、北海道を舞台にヤクート、アイヌ、倭人が混在する境界があったと思われます。その境界が現代に顔をのぞかせると「尖閣諸島」「北方四島」の問題となるわけです。

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