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山本淳子 枕草子のたくらみ ⑤ 枕草子とは何か? (2017朝日新聞) [日記 (2022)]

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)  続きです、これが最終。

 和泉式部は敦道親王との恋の真実を世に問うため『和泉式部日記』を書き、紫式部は藤原道長の要請で彰子出産のルポルタージュ『紫式部日記』を書きます。では清少納言は何のために『枕草子』を書いたのか?。長徳事件のあおりで清少納言が引きこもり、定子が「慰めに何か書いてみれば」と紙を送ったことがキッカケで身辺雑記、随筆の『枕草子』が生まれます。定子の女房ですから、定子中心とした後宮の生活が描かれたわけです。

 定子は990年14歳で11歳の一条天皇に入内します。母・貴子に漢学の素養を仕込まれた定子は、学問好きの天皇との仲も良好だったようです。敦康親王を産み、1000年次女の出産で亡くなります、享年24歳。父親が藤原北家の筆頭・道隆で皇后に登り、順風満帆の筈だった人生は、18歳の時に道隆が亡くなり、兄と弟が長徳事件を起こし道長が台頭したことで暗転します。謀反人の家系となったのですから貴族社会での風当たりは強く、内裏を出て出家してしまいます。つまり皇后の地位から身を引いたのです。

 清少納言は993年に定子に出仕します(定子より10歳ほど年長)。定子は、漢学の素養があり、機知に富んだ清少納言がお気に入りだった様です(例えば「香炉峰の雪」など)。著者によると、定子と清少納言を中心に?定子の後宮は華やかな文化的サロンを形成していた様です。996年に長徳事件よって定子は内裏を去り、清少納言も道長派という噂が立ったため定子の元を去ります。この頃『枕草子』が書き始められたようです。自宅に引き籠もってヒマだった、定子の華やかな後宮を懐かしんだ、ということでしょう。草紙を記す紙(ノート、当時紙は貴重品)は以前に定子から貰ったものですから、『枕草子』は、定子を慰めるために彼女と後宮の女房を読者として書かれたものです。事実、『枕草子』は定子の元に届けられます。

 定子は次女の出産で命を落とし、清少納言も内裏を去り、翌年には藤原棟世と再婚しています。清少納言は定子没後も『枕草子』を書き継いだと考えられています。登場人物の官位からそれが伺われるそうです。枕草子』は、定子存命の間は定子を慰めるために、定子が没して後は定子鎮魂のために書かれたと云うのが著者の意見です、ナルホド。

 年表にすると、

990:定子入内
993: 清少納言、定子に仕える
995:道隆没、道長藤原氏の長者となる
996:長徳事件、定子出家
    清少納言『枕草子』の執筆を開始
997:定子内裏を出る
    清少納言復職
999:定子内裏に戻る、敦康親王を出産、彰子入内
1000:定子没
    清少納言内裏を去る(『枕草子』執筆を継続)

紫式部 vs. 清少納言、② 清少納言、引きこもる、③ 女房の勧め、④ 清少納言を取り巻く男たち、 ⑤ 枕草子とは何か? →この項、終わり。

タグ:読書
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