Kindleで 島崎藤村『夜明け前 』④ (青空文庫) [日記 (2024)]
『夜明け前』は馬籠の当主・青山半蔵を主人公に明治維新を描いた小説です。明治という「夜明け」を前にした幕末が描かれるわけですが、(今のところ)時代と向き合う青山半蔵という人物とともに時代背景の記述に相当力が入っています。『第2部上』に至っては1/4程度が島村センセイの歴史講義です。講義は斜め読みw。
大政奉還で木曽谷にも御札が降り、人々は「ええじゃないか」と踊り狂います。続いて、江戸を目指す新政府の東山道鎮撫隊が木曽路に現れます。福島代官所からの通達は、
薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が 先鋒 として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、 彦根勢七百五十人余、 高須勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬継立て等、不都合のないように取り計らえとある。
5,000人の人馬が木曽谷を通過します。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助などの宿役人を従え、一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた、道の両側には黒山の人だかり。
5,000人の人馬が木曽谷を通過します。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助などの宿役人を従え、一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた、道の両側には黒山の人だかり。
宮さま、宮さま、お馬の前に ひらひらするのはなんじゃいな。
とことんやれ、とんやれな。
徳川幕府が滅んだわけですから藩も滅びます。失職した大名の家中には脱走の道、帰農商の道、移住の道、それから新政府に仕える道の四つの道があったと言います。
この木曾街道方面を選んで帰国する屋敷方には、どこの女中方とか、あるいは御隠居とかの人たちの通行を毎日のように見かける。 「国もとへ。国もとへ。」 その声は、過ぐる年に外様諸大名の家族が揚げて行ったような(参勤交代の改革時の)解放の歓呼ではない。
大名・武士階級を相手にする木曽谷馬籠宿のあり様も変わります。
江戸の道中奉行所代わって京都駅逓司が設置され、 定助郷その他種々な助郷名目は廃止されます。諸藩の旅行者も料金を払って人馬を使用し、助郷村民へのピンハネも廃され、料金は均等となります。
庄屋名主らは戸長、副戸長と改称され、土地人民に関することはすべてその取り扱いに変わり、輸送に関することは陸運会社の取り扱いに変わった。人馬の 継立て、継立てで、多年 助郷 村民を苦しめた労役の問題も、その解決にたどり着いたのである。
関所、福島代官所も廃止され、庄屋、 名主、 年寄、 組頭、すべて廃止となります。本陣、問屋、庄屋の三役を兼ねた本陣の主・半蔵は戸長となり「学事掛り」を兼任することになります。国学を学び私塾を開いていた半蔵らしい兼務です。妻籠本陣の寿平次は戸長に郵便御用取扱所を兼ね
郵便の仕事の方はまだ閑散なものさ。切手を貼って出せば、手紙の届くということが、みんなにわからないんだね。それよりは飛脚屋に頼んで手紙を持って行ってもらった方が確かだなんて、そういう人たちだ。郵便はただ行くと思ってる。困りものだぞ。
新しく出来た郵便制度も新政府の紙幣「金札」も信用されていないようです。明治5年、暦が太陽暦に改暦されます。「この国にはこの国の風土に適した暦もあっていい」との趣旨で半蔵は改暦に関する建白書を差し出し、「木曾山を失おうとする地方の人民のために争えるだけ争おう」(国有林の入会権)としている様です。「御一新」で、天皇の下で武士も農民もない社会が訪れたはずの木曽谷で、半蔵に何が待っているのか?。
@Kindleでフォントを大きくして読んでいるので楽です。「伊之助」それ誰?と言うときには検索をかければ解決し、至って便利。
@Kindleでフォントを大きくして読んでいるので楽です。「伊之助」それ誰?と言うときには検索をかければ解決し、至って便利。
タグ:読書
Kindleで 島崎藤村『夜明け前 』③ (青空文庫) [日記 (2024)]
長州征伐
長州征伐が起こり、尾張藩は木曽地方にも献金を要請します。木曽谷全体では、22ヵ村で314両、11宿で300両、都合614両のを献金します。
長防再征の触れ書が馬籠の中央にある高札場に掲げられるようになったのも、それから間もなくであった。江戸から西の沿道諸駅へはすでに一貫目ずつの 秣(まぐさ)と、百石ずつの糠と、十二石ずつの大豆を備えよとの布告が出た。普請役、および 小人目付 は長防征討のために人馬の伝令休泊等の任務を命ぜられた。
長州征伐の状況によって馬籠宿を通過する人と物が大きく影響を受けるため、半蔵は情報収集に名古屋に行きます。宿駅の長としての勤めです。名古屋から帰った半蔵と父吉左衛門の会話です、
それがです。各藩共に、みんな初めから戦う気なぞはなくて出かけて行ったようです。長州を相手に決戦の覚悟で行ったような藩は、まあないと言ってもいいようです。ただ幕府への御義理で兵を出したというのが実際のところじゃありますまいか。
「早い話が、江戸幕府のために身命をなげうとうというものがなくなって来たんですね。各藩共に、一人でも兵を損じまいというやり方で、徳川政府というよりも自分らの藩のことを考えるようになって来たんですね。」 「そう言われて見ると、 助郷村々の百姓だっても、徳川様の御威光というだけではもう動かなくなって来てるからな。」
長州征伐は失敗します。
大政奉還
木曽谷を台風が襲います。不作で飢饉が迫ります。半蔵は宿駅の維持と馬籠住民救済のために、尾張藩に「お救い」を嘆願します。半蔵の管理する本陣の収支は、7カ年を平均すると、入金236両三分、銭6貫381文に対して支払いは411両3分、銭9貫633文。差し引き、金175両銭3貫212文の赤字です。
1)安政5年異国交易御免以来の諸物価の騰貴 2)同年の11月、万延元年10月の村の火災 3)文久元年の和宮降嫁の下向、同三年の尾州藩主上洛 4)参勤交代の制度改革による諸藩の家族方が帰国、尾張藩家中の入国 5)家茂の京都より還御の折の諸役人らの通行、尾張大納言が参府と帰国・・・等々の理由をあげ
――この上は、前条のおもむき深く 御憐察 下し置かれ、御時節柄恐れ多きお願いには候えども、御金二千両拝借仰せ付けられたく、御返上の儀も当 寅年 より向こう二十か年賦済みにお救い拝借仰せ付けられ候わば、一同ありがたき仕合わせに存じ奉り候。
嘆願は奏功、尾張藩は馬籠など三宿に六百両づつ、その年の正月には木曽谷へは五千両が貸しつけられ、馬籠の村民が嘆願した年貢の半減も容赦されます。半蔵の努力が実ったわけです。半蔵は飢える村民のために馬籠宿として「施し米」(炊き出し)を始めます。平田派国学の同門、中津川の恵蔵、香蔵が国事のために京都に行ったのに比べ「われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう」と馬籠に留まり宿駅を守った半蔵の矜持です。家茂を喪った江戸からは社会不安が伝えられ、諸藩の忠誠は失くなり将軍を頂点とした幕藩体制は崩壊の崩壊しつつあります。
幕府は無力を暴露し、諸藩が勢力の割拠はさながら戦国を見るような時代を顕出した。この際微力な庄屋としてなしうることは、建白に、進言に、最も手近なところにある藩論の勤王化に尽力するよりほかになかった。
革命という文言が登場しますが、半蔵が建白や進言をした様子は無く、「藩論の勤王化に尽力」出来るはずもありません。
慶応2年(1866)7月20日に14代将軍家茂が、12月には孝明天皇が亡くなります。15代将軍に慶喜が就き数々の改革がなされます。この方針は馬籠宿にまで及びます。
旧い伝馬制度の改革もしきりに企てられ、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、 助郷 の苦痛とする 刎銭 の割合も少なくなって、街道宿泊の方法までも簡易に改められた。
慶応3年(1867年)11月10日、大政奉還が起きます。大政奉還のうわさが知れ渡るとともに、 様々な流言が伝わって来ます、その中で不思議なお札が諸方に降り始めたとの評判が立ち「ええじゃないか」が始まります。
ええじゃないか、ええじゃないか
挽いておくれよ一番挽きを
二番挽きにはわしが挽く
ええじゃないか、ええじゃないか
・・・馬籠 の宿場では、毎日のように謡の囃子に調子を合わせて、おもしろおかしく往来を踊り歩く村の人たちの声が起こった。
馬籠の造酒屋伏見屋、脇本陣桝田屋は、祝い餅をついて村中の者に餅ばらまきます。投げた。投げた。八斗の餅は空を飛んで、伏見屋の表に群がり集まる村民らの 袂へはいれば懐へもはいった。「ええじゃないか」のリアルな様子を初めて読みました。
国学の徒・半蔵は、多くの国学者が夢みる古代復帰の夢が実現される日の近づいたと考えます。
多くのものが期待する復古は建武中興の時代とは違って、 草叢 の中から起こって来た。そう説いてある。草叢の中が発起なのだ。それが浪士から藩士、藩士から大夫、大夫から君侯というふうに、だんだん盛大になって、自然とこんな復古の機運をよび起こしたのであるから、万一にも上の思し召しが変わることがあっても、万民の心が変わりさえしなければ、また武家の世の中に帰って行くようなことはない。
タイトル『夜明け前』から言うと、夜が明けたわけです。
第一部 感想
明治維新の原動力のひとつに、尊皇攘夷思想に影響を与えた国学があります。その国学は、半蔵(モデルは藤村の父・島崎正樹)たち地方の読書階級が支えたと言います。その視点で『夜明け前』を読んで来ました。
半蔵が熱心な国学の徒であり、国学が尊王の復古思想であること、中津川や伊奈の国学者たちが京都で国事に奔走する様が描かれています。小説を読むと、半蔵と明治維新との関わりよりも、実直な馬籠本陣の主人であることの方が印象深いです。維新は、何も英雄たちだけが成し遂げた変革ではなく、その底流には広汎な(庶民とは言わないまでも)人々がいたことが分かります。第一部読了。
タグ:読書
Macで青空文庫 (2) [日記 (2024)]
続きです。青空文庫をKindle paperwhiteで読みたいとAozoraEpub3とKindle Previewer3を使ってtxtファイルをmobiファイルに変換しました。せっかく作ったファイルなので、Macでも使いたいとKindleをインストールしようとしたところ、OS12以上が要ると蹴られました。私のiMac(blog内リンク)は10.15(Ctalina)なので無理。仕方がないので、Kindle PreviewerとMacのアプリ”ブック”を使ってアレコレ。
Kindle Previewer
epub、mobiファイル共に読めます。Kindleと同期出来ませんから、Kindleで作ったブックマーク、ハイライト、メモは使えません、当然クラウドからの本のダウンロードも不可。何故か検索の欄が潰れてこれも使えない。mobiファイルがタブレット、スマホ、Kindleを使った場合にどうなるのかの、あくまでも検証用ツールみたいです。
ブック(Mac)
epubファイルが読めます。ブックマーク、フォント変更、メモとハイライト、検索などが使えます。当たり前ですが、Kindleと同期機能はありません。試してませんが、iCloudを介してKindle同様の機能が使えると思います。Catalinaで青空文庫を読むとすれば、今のところコレです。
Kindle for Mac(旧バージョン)
最新版はインストール不可ですが、旧バージョンのKindle 1.40.65626はインストール出来ます。Kindleのライブラリに繋がり本をダウンロード出来ますが、文字指定が上手く出来ないのでハイライト、メモがほぼ使えません。ブックマーク、フォント、移動、検索は可能なので読むだけなら何とか使えます。Kindleとappleを繋ぐのは最新版のKindle for Macだけ、これがインストール出来ないとどうしようをありません。
Kindle for Mac旧バージョン、ここまでは出来る
この際、無理矢理Venturaにするか!?(実験済、blog内)ですが、機嫌よく動いているiMacをKindleのためだけにリスクを犯すわけにもいきません。いっそのことiPad miniともと思うのですが、リーダーより本に投資した方が楽しめそうです。widows10でKindleが使えるのでそっちにします。ジャンクなmacを使うと苦労しますw。
iMacが2012lateなら、Kindleは第五世代、iPhoneはXR、Windowsはi3-6000と骨董品ばかりですw。それなりに使えているので、当面どれも入れ替える予定はありません。
Kindleで 島崎藤村『夜明け前 』② (青空文庫) [日記 (2024)]
AozoraEpub3で作った(blog内link)『夜明け前 第1部下』です。Kindleで読むメリットのひとつは辞書が使えることです。『夜明け前』は昭和4〜6年の執筆ですから現在では使われない語句が多あり、画面から辞書やWikipediaで検索して調べることができます。これは便利です。
続きです。
江戸 → 京都
黒船来航と尊王攘夷の勃興により、中山道の人の流れが変わります。半蔵の父吉右衛門は、
今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。(106)
大名役人の往来が繁くなり、木曽十一宿の助郷制度が破綻します。半蔵たち3人の庄屋が宿駅を代表し「定助郷」設置を道中奉行に嘆願するため江戸に行きます。江戸で半蔵たちが見たのは、参勤交代の制度変更による不景気です。
半蔵はよく町々の 絵草紙問屋 の前に立って見るが、そこで売る人情本や、 敵打ちの物語や、怪談物なぞを見ると、以前にも増して書物としての形も小さく、紙質も 悪しく、版画も粗末に、一切が実に 手薄 になっている。相変わらずさかんなのは江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ。とがった神経質と世紀末の機知とが 淫靡で頽廃した色彩に混じ合っている。
半蔵は10年前にも江戸に来ていますが、当時と比べると時代が殺伐となって来ているようです。
道中奉行は一宿につき三百両のお救い金を支給します。三百両は10年償還の貸付というささやかなものです。道中奉行は、寂れつつある江戸復興、参勤交代復活ためにも宿駅を保護する必要があったわけです。参勤交代復活はなりません。
天狗党
元治元年(1864年)に水戸藩の尊王攘夷派が筑波山で挙兵します。水戸天狗党の乱です。京都を目指す天狗党900人は中山道に入ります。馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には「和宮降嫁」以来の出来事だと言われる水戸浪士の通過が起きます。
馬籠ではたいがいの家が浪士の宿をすることになって、万福寺あたりでも引き受けられるだけ引き受ける。本陣としての半蔵の家はもとより、隣家の伊之助方でも向こう側の隠宅まで御用宿ということになり同勢二十一人の宿泊の用意を引き受けた。(2374)
半蔵は家の門前に「武田伊賀守様 御宿」の札も公然とは掲げなかったものの、玄関には本陣らしい幕を張り回し武人として迎えます。尊王攘夷を掲げて挙兵した天狗党を国学の徒である半蔵の精一杯のもてなしです。水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊し、11月の27日には西へ通り過ぎて行きます。
浪士らは行く先に 種々 な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の 黒糸縅 の 甲冑片袖 を残した。それは玉子色の 羽二重 に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。(2524)
半蔵の元にも、諸将の書いた詩歌の短冊、 甲冑の片袖などを残しています。伊那、中津川は国学の門人の多い土地ですから、行く先々で好意をもって迎えられます。この辺りは創作の参考にした『大黒屋日記』から採られているのでしょうか、あるいは藤村の実家の本陣に短冊や甲冑が残っていたのかも知れません。国学の濃厚なこの地方が、尊王攘夷を掲げる天狗党に好意的だったことは十分に想像されます。
伊那谷では平田篤胤『古史伝』の出版が行われ、本居宣長や篤胤を祀る社が建造されます。平田派国学の門人は 庄屋、本陣、 問屋、医者、もしくは百姓、町人に多く、東美濃から伊那へかけての庄屋と本陣問屋とがその代表だと言います。
天狗党に徴用された人足が帰路に馬籠本陣を訪れ、半蔵に顛末を語ります。千余人の水戸浪士も、途中で戦死するもの、沿道で死亡するものを出して820人となり、敦賀にいたって投降します。投降した浪士たちは狭いニシン倉に監禁され、裸で手枷足枷をはめられ粗末な食事で病に倒れる者が続出し20名以上が死亡します。投降した820人のうちの350名が処刑され天狗党の乱は終息します。 →続き
タグ:読書
半藤一利 真珠湾の日 ② (2003文春文庫) [日記 (2024)]
続きです。
2通の電報 →目標は真珠湾!
11/25深夜、ルーズベルトにチャーチルから電報が届きます(1通目)。蒋介石の意を受けた「暫定協定案」破棄の要請です。一方で、これはチャーチルの本音でもあります。イギリスは、アメリカの参戦がなければヒトラーを倒せる見込みはないわけですから、(三国同盟によって日本との開戦はドイツとの開戦を意味しますから)暫定協定案で日米開戦が遅れることは、蒋介石以上にチャーチルがもっとも望まないことなのです。11月26日朝、ルーズベルトは暫定協定案を破棄します。
このチャーチルの電報がルーズベルトを動かしたかと言うとそうではなく、実はもう1通の電報(2通目)があり、それが暫定協定案破棄を決定づけたのではないかというのです。
FECB(極東連合局)は、11月25日に、山本五十六が択捉島・単冠湾に待機する機動部隊に発振した電報を傍受し、海軍の軍機暗号(JN-25)を解読します。
『機動部隊は単冠湾を11月26日朝出撃、12月3日午後に集結点に進出し、速やかに燃料補給を完了すべし』この通信文はとくに重要だった。なぜなら、初めてこれがFECBとイギリス海軍省に機動部隊が千島に集結していて、8日以内に海上で給油を要する長い航海に出発しようとしていることを示したからである(p99)
午後巡航速力18ノットで1日400海里進むと8日で3200海里航海が可能。攻撃可能な目標は、真珠湾(単冠湾から3150海里)、シンガポール(3394海里)、 マニラ(2257海里)。シンガポールとマニラに大機動部隊が攻撃する目標はありませんから、真珠湾が浮かびあがってきます。この通信傍受の詳細は11月25日の夜遅くチャーチルの手許に届ていますから、ルーズベルトに転送されたはず。著者はこれが2通目の電報だと推理します。
この電報は公開されていないそうです。公開されれば「アメリカは真珠湾奇襲を事前に知っていた」ことが明るみ出るからです。事実知っていたわけです。
日本は、外交電報ばかではなく軍事電報まで解読されていたとは!。
ハル・ノート
そして「暫定協定案」は破棄され「ハル・ノート」が浮上します、
1)中国や仏印など日本の占領地放棄。
2)汪兆銘政権の否定、満洲国の解消。
3)日独伊三国同盟の有名無実化。
つまり日本は1931年の満洲事変以前の線に戻れと言われたことになります。ハル・ノートは11月27日日本に提示されます。ハルノートが何を意味するかルーズベルトは当然知っています。事実上の最後通牒です。ルーズベルトは、国民の反対を押し切ってヨーロッパ戦線に参戦するための2つの条件、第一撃を日本にやらせる、世論の支持よって戦争に踏み切る、を手に入れたわけです。
米軍作戦部長は、極東艦隊司令長官(在フィリピン)と、太平洋艦隊司令長官(在ハワイ)に打電します。
「対日交渉は終了した。日本の侵略的行動がここ数日中に予期される。日本陸軍部隊の兵力装備および海軍作戦部隊の編成は、フィリピン、タイまたはクラ地峡(タイ南部)もしくはボルネオにたいする上陸作戦を示唆している。」…ここに明らかなことは、真珠湾はこの警告の範囲にはふくまれてはいない。(p117)
チャーチルはこ2通目の電報でルーズベルトにダメ出しをしたわけです「日本と戦え、そしてWWⅡに参戦せよ」と。
タグ:読書
映画 ラスト サムライ(2003米) [日記 (2024)]
今更ですが『ラスト サムライ』を観ました。一言で言うと、お雇い外国人トム・クルーズが、西南戦争で西郷隆盛と共に新政府軍と戦う話です。もっとも、西南戦争も西郷隆盛も登場しませんが、渡辺謙演じる勝元は、明治新政府の参議で政府と折り合わず国元に帰り最後は新政府軍に討たれますから、西郷隆盛、西南戦争そのまま。
粗筋はWikiを見て頂くとして、トム・クルーズが剣と武士道に目覚め、着物を着て刀を振り回し、最後はヨロイ姿で「西南戦争」に登場します。トム・クルーズ演じるオールグレン大尉は、第七騎兵隊の将校として先住民の虐殺に加担しそれがトラウマとなっています。明治新政府の不平氏族の鎮圧は、騎兵隊の先住民虐殺に相当し、加害者であったオールグレンは今度は鎮圧される側の勝元に味方するわけです。お雇い外国人が反乱軍に投じるという背景を、「第七騎兵隊」で説明したわけです。
オールグレンにはモデルがあるそうです。幕府のフランス軍事顧問団のひとりジュール・ブリュネ(wiki)です。ブリュネは、戊辰戦争で敗北の後、榎本武揚とともに開陽丸で北海道五稜郭に行き函館戦争を戦ったそうです。五稜郭には新撰組の土方歳三もいます。落日の旧幕府と運命を共にする(義に殉ずる)という美学は、東西共通にあるものなんでしょう。オールグレンが勝元の側に立ったのは、「第七騎兵隊」と捕虜となった勝元の屋敷で剣と共に学んだ武士道=忠と義。命を助けられた勝元と共に新政府と戦います。西南戦争が西郷軍の敗北に終わるように勝元も破れ、壮絶な最後を遂げます。
殺陣あり合戦ありで(腹切もあります)時代劇と西部劇をミックスしたような映画で、なかなか楽しめます。忍者が登場したのは笑いましたが、アメリカ映画では必須だったのでしょう。舞台が日本ということもあるでしょうが、渡辺謙、真田広之の存在感はトム・クルーズを超えています。 監督は『恋におちたシェイクスピア 』『ブラッド・ダイヤモンド』のエドワード・ズウィックで、手堅いです。
監督:エドワード・ズウィック
出演:トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之、小雪、原田眞人
タグ:映画
絵日記 iPhone用竹スピーカー [日記 (2024)]
iPhone用竹スピーカーを作ってみました。竹の節の隔膜を使って音を左右に分け、筒の共振で音を増幅する仕組みです。ドリルで穴を開けて穴をiPhoneが入る様に繋げればOK。穴開けは、キリでマーキングしてドリルの3mm →5mmと広げれば開けることが出来ます。あとはカッターナイフとヤスリを使って現物合わせで少しずつ穴を整形します。わりと簡単です、初回ですからこんなもんでしょうw。
鳴らしてみたところ、竹の筒に共鳴して音が出ました。高音が出ずこもった音になるのでスリットを入れたところ高音も出るようになり、左右も分離してけっこう使えそうです。竹の寸法はもう少し長めの方が良さそうです。
深夜に枕元で聴く「ラジオ深夜」便専用ラジオとして使えます。昔、Andrpid用に同じ様なもの(blog内リンク)を作ったことがありますが、スピーカーがモノラルでイマイチだったので結局廃棄、iPhoneは2スピーカーなのでステレオになります。スタンド兼用にもなるので台座を付けました。
ついでに「青竹踏み」の踏み台を作ってみました。作ると言うより竹を半分に割っただけ。青竹踏みは効果あるんでしょうか?。
Kindleで 島崎藤村『夜明け前 』① (青空文庫) [日記 (2024)]
明治維新を準備したものは成熟した江戸社会であり、政治経済の成熟とともに教育の普及や富裕な商人層の台頭も重要な因子です。そうした富裕層や地方の読書階級が支えた「国学」は、尊皇攘夷思想に影響を与え、維新の原動力になります。
十六代続く中仙道・馬籠本陣の当主で庄屋・問屋を兼ねる青山半蔵の物語です。藤村の父・島崎正樹をモデルに、信州の草深い田舎から明治維新という時代のうねりを描いた歴史小説です。
序章でペリーの黒船来航に触れられていますから、『夜明け前』は嘉永6年(1853)から始まります。
中仙道・馬籠本陣
彦根の藩主( 井伊掃部頭)も、久しぶりの帰国と見え、 須原宿泊まり、 妻籠宿昼食、馬籠はお小休みで、木曾路を通った。(位置: 205)
というふうに本陣を渡って参勤交代をするわけです。参勤交代以外にも、役人や武士の宿泊も本陣、脇本陣が使われます。清河八郎の「浪士組」も妻籠、馬籠を辿り、文久2年(1862)に参勤交代が緩和され、人質として江戸に置かれていた大名の妻子の帰国が許可された際、続々と中山道を通過する様が描かれています。武士階級は本陣、脇本陣、庶民は「旅籠」と分かれていたようです。
五十余年の 生涯 の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸がこの街道を通った時のことにとどめをさす。
…同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。
…木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那の 助郷 が出たのもあの時だ。諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。(位置: 88)
本陣の駅長は宿泊、休憩だけではなく物流も扱い、人足(助郷)の手配もする宿場役人で、庄屋や問屋を兼ねることが多かった様です。半蔵の父・吉左衛門も名字帯刀を許され、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねています。
青山半蔵
中山道の本陣は京大阪と江戸の人と物の中継地ですから、黒船のニュースもいち早く入ります。この環境が半蔵を社会へ目を向けさせ国学へと向かわせます。平田篤胤の国学は尊王攘夷のバックボーンです。庄屋で国学を学ぶ半蔵も明治維新と深く関わっています。中津川本陣の景蔵は京都で勤王活動をしていますが、半蔵は国学の研鑽に励み弟子を取り、一方で子供達に字を教え、馬籠にジッとしています。唯一の例外は、平田篤胤の後継者・鉄胤を横須賀に訪ね、正式な門人となったことです。主人公の半蔵、モデルの島崎正樹の最期からは想像できない幕開けです。
庄屋
黒船の来航とそれに続く開港は木曽にも影響を及ぼします。役人の中山道往来が繁くなり、金の流出は物価の高騰を招き、社会不安をもたらします。
銭相場引き上げ、小判買い、横浜交易なぞの声につれて、一方には財界変動の機会に乗じ全盛を 謳わるる成金もあると同時に、細民の苦しむこともおびただしい。米も高い。両に四斗五升もした。 大豆 一駄 二両三分、酒一升二百三十二文、豆腐一丁四十二文もした。 諸色 がこのとおりだ。
世間一統動揺して来ている中で、村民の心がそう静かにしていられるはずもなかった。山論までが露骨になって来た。(3449)
「 山論」とは、限られた草刈場の境界線をめぐる揉め事です。その山論が、社会不安を背景に増えつつあるわけです。その調停も、半蔵たち庄屋の仕事です。
「 山論」とは、限られた草刈場の境界線をめぐる揉め事です。その山論が、社会不安を背景に増えつつあるわけです。その調停も、半蔵たち庄屋の仕事です。
「和宮降嫁」の行列が中山道を通ることになり、「助郷」の問題が発生します。助郷とは、「宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、 継立てを応援するために設けられた」制度で、宿駅近在の農民に課せられる「公役」です。
黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されて 嶮岨な木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、 継立てにもさしつかえるような村々が出て来た。(3730)
交通量が増えて助郷が増えた上に、和宮降嫁という一大プロジェクトが加わり農民の負担は耐えがたいものとなります。これを解決するのも半蔵たち庄屋の仕事です。妻籠、 馬籠などの庄屋連名で奉行所あてに嘆願書を出します。一宿へ金百両ずつを貸し付け10年賦で返済するというささやかな嘆願です。妻籠・脇本陣の徳右衛門の最後の一言が時代を象徴しています。
徳川様の御威光というだけでは、百姓も言うことをきかなくなって来ましたよ。(3752)
作者の「幕末史講義」が続きます。半蔵が身を置く時代背景としては必要なのでしょうが、「生麦事件」の詳しい顛末を聞かされても退屈です。
将軍上洛の日も近いと聞く新しい年の二月には、彼は京都行きの新撰組の一隊をこの街道に迎えた。一番隊から七番隊までの列をつくった人たちが雪の道を踏んで馬籠に着いた。…尽忠報国をまっこうに振りかざし、京都の市中を騒がす 攘夷党の志士浪人に対抗して、幕府のために粉骨砕身しようという剣客ぞろいだ。一道の達人、諸国の脱藩者、それから 無頼な放浪者なぞから成る二百四十人からの群れの腕が馬籠の問屋場の前で鳴った。(4718)
と、(正確には「浪士組」ですが)見て来たような話を描いてくれた方が楽しいです。藤村に、近藤勇と半蔵の会話を期待しても無理ですがw。
藤村は、馬籠の造酒屋「大黒屋(作中の伏見屋)」が記した『大黒屋日記』を第1部の資料として使ったそうです。「新撰組」の下りもこの日記を引用したのでしょうか?。
国学同門の中津川本陣の景蔵、新問屋和泉屋の香蔵は国事奔走のため京都にいます。「われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」という半蔵の呟きで「第一部上」は終わります。
タグ:読書
備忘録 Macで 青空文庫 → Kindle [日記 (2024)]
こちらの続きです。『夜明け前 第1部下』も何とかKindlePaperwhiteで読みたいと、青空文庫のテキストファイルをKindle 形式(.mobi)に変換してみました。昔Windowsでやったことがあるのですが今回はMac(Catalina 10.15.7)。
手順
①青空文庫からダウンロード( テキストファイル(ルビあり) zip )
②AozoraEpub3でテキストファイルをePubに変換
→javaのJDK(x64 DMGインストーラー)を入れる必要がある
③Kindle Previewerでmobi形式に変換(書き出す)
④Kindleに転送
変換 青空文庫→Kindle
⑤AozoraEpub3(AozoraEpub3-1.1.1b14Q)を解凍しフォルダーのAozoraEpub3.jar をクリックして起動、縦書き・横書きを選択
⑥AozoraEpub3に青空文庫のテキストファイルをドラッグ&ドロップ。《?変換》をクリック。AozoraEpub3の格納フォルダにepubファイルが生成される
⑦Kindle Previewerにepubファイルをドラッグ&ドロップし、mobiを指定して書き出す
⑧KindleとMacをUSB接続し、書き出したmobiをKindleのドキュメントにドラッグ&ドロップ →完成!
無事読めました。リフロー形式だからフォントを拡大しても、1ページに収まります。これで安心して読書が出来ます。
ところで、Catalinaでは、e-pub3でmobi変換できてもKindleはインストール出来ません(12.0以上が必要と蹴られましたw)。Kindle Previewerかe-pubをappleの”ブック”で読むことは出来るのですが。マァ読書の方はPaperwhiteですから支障は無いわけですが、思わず笑ってしまいました。ジャンクなiMacですからイロイロあります。
デメリット
自作のmobiファイルはKindleに格納すると読めますが、Kindleのライブラリには登録されません(以前は出来た)。ライブラリに登録されるのはAmazonから購入した本だけの様です。故に、ハイライト・メモもKindleクラウドには登録されず、PC等他のデバイスでは利用できません(作成したKindleでは可能)。