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大活字本(埼玉福祉会) [日記(2018)]

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 図書館の蔵書を検索していると、「大活字本」がヒットしました。老眼で小さな活字に苦労しているのでこれ幸いと申し込んでみました。なるほどデカい!。大活字本は図書館に2000冊あるようなので、当分楽しめそうです。

タグ:絵日記 読書
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映画 偽りの忠誠 ナチスが愛した女(2016英米) [日記(2018)]

偽りの忠誠 ナチスが愛した女 [DVD]  日本語タイトルは軟弱ですが、原題はThe Exception、例外。何が例外なのかなかなか含蓄のあるタイトルです。ストーリーは、ドイツ帝国(プロセイン王国)最後の皇帝、ヴィルヘルム2世とナチスの確執を軸に、親衛隊の将校とユダヤ人メイドのラブストーリーが絡みます(逆かも)。

 ヴィルヘルム2世は、第一次世界大戦に敗北しドイツ革命で皇帝の座を追われオランダに亡命、ドイツはワイマール共和国を経てナチス・ドイツとなります。『偽りの忠誠』は、ナチスがオランダを占領(1940)した頃の話です。この辺りを押さえておくと映画が面白いです。

 親衛隊大尉ブラント(ジェイ・コートニー)は護衛の名目でヴィルヘルム2世(クリストファー・プラマー)の滞在するドルーン館に派遣されます。ヒトラーは元プロセイン国王に利用価値を見出していたわけです。ブラントは館のメイド・ミーケ(リリー・ジェームズ)と恋に墜ちます。恋というより、親衛隊将校とメイド情事です。この情事が次第に恋に変わっていく辺りが見どころです。ミーケの正体はイギリスのスパイで、ヴィルヘルム2世の身辺を探りオランダからイギリスに亡命させる任を負っています。イギリスの女スパイとナチス親衛隊将校の恋、何処かで聞いたようなこの話を圧倒的存在感で支えるのがヴィルヘルム2世を演じるクリストファー・プラマー。クリストファー・プラマー無しでは、薄っぺらいラブストーリーとなっていたでしょう。かつての栄光を背負い復権を夢見るヴィルヘルム2世の矜持と悲哀がにじみ出ています。その悲哀とナチスに父親と夫を殺されスパイとなったミーケの触れ合いがストーリーのkeyとなります。

 ミーケの諜報は村の牧師によって無線でロンドンに伝えられ、この電波をゲシュタポが傍受したことでスパイの存在が明らかとなります。ブラントもまたミーケの部屋でニーチェの『善悪の彼岸』や拳銃保守の痕跡を発見し、ミーケに疑惑の目を向けます。ゲシュタポの手がミーケに向けられる時、ヒトラーの側近ヒムラー(エディ・マーサン)が館を訪れる知らせが入り、ミーケはヒムラー暗殺を決意します。ヒムラーは、ヴィルヘルム2世には復位を要請し、ブラントにはこの復位によって反ナチス勢力を炙り出そうという陰謀が告げられます。
 晩餐会の席でヒムラーはユダヤ人や弱者を抹殺する話をし、ヴィルヘルム2世とブラントは第三帝国の真の姿を垣間見させられます。このヒムラーの発言でストーリーが決定づけられ、ヴィルヘルム2世は復位を断念し、ブラントはミーケをゲシュタポから守ろうと決意します。

 ミーケがロンドン亡命を勧めるチャーチルの伝言をヴィルヘルム2世に伝え(事実のようです)、ヴィルヘルム2世はミーケがスパイであることを知り、これを断ります。ゲシュタポの追手がミーケに迫り、ブラントはミーケを助け、これにヴィルヘルム2世が絡んで大団円に向かってまっしぐら、となります。

 ヨーロッパ近代史を背景に、ナチス+サスペンス+ラブストーリーが加わったなかなか面白い佳作です。わりと地味な映画ですが、出演者は豪華、観て損はないです。

監督:デヴィッド・ルボー
出演:リリー・ジェームズ ジェイ・コートニー クリストファー・プラマー

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備忘録 Photoshopで年賀状 [日記(2018)]

年賀状word.jpg
 年賀状のシーズンです。今年はPhotoshopを使ってやってみました。freeのイノシシのイラストに子供の顔を貼り付けようかと思います。普通に貼り付けると背景が残りますから、顔だけ切り取って合成するのが今回の課題。使うのは、Excel、Word、Photoshop、Jtrim。officeは2003と15年前のものが今でも十分に使えます。PhotoshopはCS2が(法的にはあいまいですが)無料で使えます

th_inoshishi_cute1.png e4e5a6a92e95a912b0828e897b6cc69a.jpg
これをベースに
1517658601931.jpg ta-bo.JPG
これをイノシシの顔の部分に貼り付けます。Photoshopで対象の顔だけを切り取ります。
消しゴムツール.png《背景消しゴムツール》で背景を消してゆきます。犬の写真のように背景が単一だと《マジック消しゴムツール》で一気に消すことができて便利。壁を背にして専用の写真を撮った方がいいと思います。
消しゴムツール2.png マジック消しゴムツール2.png
左が《背景消しゴムツール》、右が《マジック消しゴムツール》使用
透過貼り付け.png ターボ透過.jpg
合成は、Photoshop上で行います。全指定→コピー→ペーストで合成できます。中央に張り付きますから、一番上右のボタンで適当な位置に移動。これをExcel画面に貼り付けて他の画像と合成しバランスを取り、カメラ機能でコピーしてWordでハガキ印刷。たぶんPhotoshopだけで出来ると思いますが、手慣れたアプリを使いました。この辺りは来季の課題。Photoshopを切り抜きだけに使うのは勿体無いので、少し研究してみます。

年賀状word.jpg 出来上がり。苦労したわりに例年と変わり映えしません(笑。
 wordの差し込み印刷はココ

【追記】
DSC_0024のコピー.jpg
 こんなこともできます。ミニオンズは背景が白なので、一発で切り抜けます。

タグ:パソコン
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司馬遼太郎 翔ぶが如く(1) [日記(2018)]

新装版 翔ぶが如く (1) (文春文庫) 新装版 翔ぶが如く (2) (文春文庫)  泣こよっか、ひっ翔べ

 征韓論、西郷下野から西南戦争に至る、司馬遼太郎お馴染みの歴史小説です。冒頭で、洪水で流れてきた赤い鼻緒の下駄を見て、西郷が
下駄さァ、こんぅ風ぜぇ、どこずい、おじゃすか
と下駄に呼びかけたという逸話を紹介し、作者は、
こういう優しさとユーモアは当時の薩摩人に大なり小なり共通していたものがあり、この機微がわからなければ、うかつに薩摩のことは書けない
と言います。文庫本で10巻のこの長編小説は、薩摩人の優しさとユーモアをkeyに、巨人・西郷隆盛を描いています。西郷に直接語らせるよりも(もちろんそれもありますが)、西郷の行動を追い、西郷を取り巻く川路利良や桐野利秋、大久保、木戸、江藤、大隈等に語らせることで西郷その人に迫るという手法が取られます。西南戦争という新政府崩壊の危機を、彼らがどう乗り越えた回避したのかという群像劇です。

【薩摩人】
 作者によると、薩摩人が共通して持っている勇猛さ、優しさ、ユーモアは、「郷中」教育によって育まれたものだといいます。薩摩藩は鎌倉以来の士風を守るために

 すべての少年は「郷中」に所属し、郷中で少年たちを相互に切磋琢磨させた。教育の目標は学問ではなく、心のさわやかさをもって第一とし、臆病をもっとも卑しいものとし、勇強を尊ぶがしかし弱者や年少者へのいたわりのないものを軽蔑した。

 郷中における集団生活で、男子としての美学、倫理が徹底して叩き込まれ、薩摩武士が出来上がります。郷中=若衆宿は、九州、四国、紀伊半島に分布する風習であり、黒潮に乗ってやってきた古代日本人との関係が指摘されています。上代、中央に反乱を繰り返した隼人の血を受けついだ薩摩人の特異性かも知れません。流れてゆく下駄に話しかけた西郷には、郷中教育で養われた薩摩隼人が色濃く流れているということのようです。

【征韓論】
 西郷、征韓論、西南戦争は三位一体です。征韓論を唱えて破れた西郷が下野し、鹿児島の不平士族とともに西南戦争を起こしたというのが、教科書的理解ですが、西郷は何故征韓論を唱えたのか、維新の最大の功労者である西郷は何故西南戦争を起こしたのか、そこから西郷隆盛を理解しようというのが『翔ぶが如く』の主題です。

 西郷の征韓論には、その師とも言うべき島津斉彬のアジア政策があるといいます。松平春嶽によると、アヘン戦争で清を蚕食するイギリスを恐れる斉彬は、機制を制しシナ(中国)に攻め入り日中韓、ベトナムを含めたアジア連合によってロシアを含む西欧列強の進出を阻もうとする構想を持っていたようです。斉彬の忠実な弟子である西郷の征韓論には、このアジア政策があったわけです。

 もうひとつは、当時の武士階級の疲弊。廃藩置県(明治4年7月)によって大名、士族階級は、土地人民の支配権を失い、徴兵制が布かれ士族階級の最後の名誉であった「武」の特権まで奪われ庶民に転落します。いわば300万?の武士が失業したわけです。新政府に対する不満は士族に限ったことではなく、働き手を徴兵制で奪われ、地租改正に喘ぐ庶民よる一揆が各地で頻発し、あたかも革命前夜の様相を呈します。
 廃藩置県は、薩摩、長州、土佐の献上軍・御親兵(後の近衛軍)の武力を背景に断行されたわけです。近衛軍は、自らの武士の特権と誇りを否定するするために廃藩置県を行ったという自己矛盾を抱え、不満の坩堝と化します。岩倉使節団が明治4年11月に日本を離れたため、留守を守る陸軍大将・西郷がひとりこの不満を抑える役目を担わされます。これ以上不満を抑えられないと考えた西郷は、不満のはけ口としての外征、征韓論に行き着きます。

 軍制が整わず膨大な借金をかかえて破産寸前の新政府に外征の能力はありません。朝鮮を攻めれば、敵は朝鮮にとどまらず、清国、西欧列強を敵に回すことにもなりかねず、そうなっては国家存亡の危機。近代国家建設を優先する大久保の反征韓派と不平士族に支持された西郷の征韓派の抗争、荒っぽく言えばこれが「征韓論」の姿です。

 作者によると、大久保と西郷の征韓論をめぐる確執は、両者の「国家成立の原理的課題」の相違だといいます。

 西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族がもつ颯爽とした士魂にありと思っていた。そういう精神像が、維新によって崩れた。というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって(西郷は)新国家の原理にしようとしていた。しかしながら出来上がった新国家は、立身出世主義の官員と利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば恥ずべき土百姓や町人にすぎず、新国家は彼らに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。こういう新国家というものが、いかに将来国庫が満ち、軍器が精巧になろうとも、この地球において存在するだけの価値のある国家とはいえない、と西郷はおもっている。

 作者は、さらに西郷の言葉を引用します

「外征することによって逆に攻められてもよい。国土が焦土に化するのも、あるいは可である。朝鮮を触ることによって逆にロシアや清国が日本に攻めてくることがあるとしても、それはむしろ歓迎すべきである。百戦百敗するとも真の日本人は焦土のなかから誕生するにちがいない。国家にとって必要なのはへんぺんたる財政の収支や、小ざかしい国際知識ではない」

 江戸を焦土と化し慶喜の首を刎ねないと革命は成就しないと考えていた西郷ですから、征韓論の底にこの思想があっても不思議はありません。
 西郷の個人的な事情もあります。西郷は、遣韓施設として渡韓し殺されることを望んでいたと言います。西郷が殺されれば戦争となり、士族の反政府エネルギーを戦争という形で開放することができます。新国家建設の構想を持たない西郷は、参議、陸軍大将、近衛都督して祭り上げられて無用の長物となった自分の死に場所を求めたいたといいます。

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図書館 [日記(2018)]

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 最近の読書はもっぱら図書館に頼っています。当然ですが、人気の本は予約が集中して待たされます。『ヒロシマ・モナムール』や『リスボンへの夜行列車』のような誰も読みそうもない本は、申込みの翌日には「ご用意できました」となりますが、『十五の夏(上)』は3ヶ月近く待たされました。この上下巻別れている本の予約はクセもの。同時に予約すると下巻が先に到着し、予約時期を間違うと下巻は上巻読了後1ヶ月待たされることになります。下巻を待てずkindleで注文してしまいます。
 直木賞の『銀河鉄道の父』に至っては申込みが遅かったので待ち順150位、『ベルリンは晴れているか』は49位。到着まで「積ん読」本を読みながら気長に待つしかありません。

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山田洋次 民子三部作 [日記(2018)]

 山田洋次には、倍賞千恵子を主人公とした「民子三部作」、『家族』(1970)、『故郷』(1972)、『遙かなる山の呼び声』(1980)があります。『家族』『故郷』は、高度成長が歪を露呈しだした1970年代はじめに故郷を追われる家族の物語です。『遙かなる』は、『家族』の移住先、北海道中標津町の牧場を舞台にした和製『シェーン』です。いずれもヒロインの名が民子、演じるのが倍賞千恵子という以上のつながりはありません。1977年の『幸福の黄色いハンカチ』は、『遙かなる』の後日譚とも言うべきものでしょう。
あの頃映画 「家族」 [DVD]

 風見精一(井川比佐志)は炭鉱の島、長崎県・伊王島での生活に見切りをつけ、酪農をするため妻民子(倍賞千恵子)、ふたりの子供、父源蔵(笠智衆)の一家5人で「新天地」北海道・中標津町を目指します。文字通り日本列島を西の端から東の果てまで日本列島を縦断するロードムービーです。一家で「新天地」を目指すロードムービーというと『怒りの葡萄』を連想しますが、『家族』にはこの映画の影響が濃厚です。
 『怒りの葡萄』は、故郷を捨て「乳と蜜の流れる約束の地」カリフォルニアを目指しますが、故郷を捨てた原因は1929年に始まる大不況です。風見一家を故郷を捨てさせたものは、地方に押し寄せる高度成長の波です。公開の1970年は大阪万博の年です。一家は旅の途中万博を垣間見ます。日本中が高度成長に浮かれ騒ぐ時、山田洋次はその陰で1970年版「出エジプト記」を作ったことになります。
 『怒りの葡萄』のラストで、一家を率いる長男ジョードは労働運動を目指し家族の元を離れます。父親と長女の死という大きな犠牲を払って北海道に着いた風見一家は、子牛の誕生に出会い、民子は新しい命を妊ります。わずか30年で、「出エジプト記」の映画はこうも違ってくるわけです。
あの頃映画 「故郷」 [DVD]

 山田洋次は、『家族』で描ききれなかったもの、高度成長の波が地方に及び故郷を捨てる過程を『故郷』で描きます。瀬戸内海の小島(広島県・倉橋島)で、20トンの石船で妻民子とともに石の運搬をする精一が、大型船の効率、経済性に押され、石船の仕事を捨て、尾道のドッグで働くため故郷を捨てる物語です。『家族』では、父親の笠智衆は中標津に着いてすぐ亡くなりますが、『故郷』では、家族に捨てられひとり島に残ることになります。
 精一は、時代の流れだ、大きいものには勝てないと言われ、石舟を廃業するわけですが、その「時代」と「大きいもの」は何なんだオレには分からないと呟きます。「時代」は「故郷」と「家族」を押し流して行きます。
あの頃映画 「遙かなる山の呼び声」 [DVD]

 『遙かなる』は『家族』『故郷』とは別の、高倉健の映画です。舞台は『家族』で一家がたどり着いた北海道・中標津。精一は小さな牧場を立ち上げ、精一が亡くなった後民子は幼い武志(吉岡秀隆)と牧場を切り盛りしています。その牧場に流れ者・耕作(高倉健)が現れ、民子を助け武志を父性でつつみます。つまり西部劇の『シェーン』、または、組長を殺されひとりで組を守る姉さんに助太刀をする花田秀次郎(昭和残侠伝)の世界です。

 殺人犯の耕作は捕まり列車で護送されますが、その車中で、民子は乗客のハナ肇との会話で耕作が出所するまで「待っている」と伝えます。その「待っている」を耕作の側から描いたのが『幸福の黄色いハンカチ』ということになります。

 今観るとそれほど感心する映画ではありませんが、1970,1972年に、家族と故郷の崩壊を描いたことは特筆に値しそうです。

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庭の紅葉 [日記(2018)]

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11月下旬               12月10日
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こっちは大威徳寺(11月下旬)

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マルグリット・デュラス ヒロシマ・モナムール(2014 河出書房新社) [日記(2018)]

ヒロシマ・モナムール  映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』の脚本を担当したマルグリット・デュラス(小説家)による、脚本、シノプス(あらすじ)と「補遺」を集めたものです。映画公開の翌1960年に出版され、著者生誕100年を記念した新訳として2014年に出版されたようです。
 本編の脚本は仏語の翻訳ですから、映画の字幕より詳しく、ト書きがシーンを補完しますから、「なるほど」ということになります。「補遺」は、「できあがった映画の映像についてコメントするかのような具合にやってみて」と監督アラン・レネの要請に基づいて書かれたものだそうです(撮影前に)。アラン・レネには彼なりの解釈があるでしょうが、脚本家デュラスが構想した(イメージした)『ヒロシマ・モナムール』を見てとることができます。
 
【シノプス】・・・主題について
映画の最初のセリフは

 君はヒロシマで何も見なかった(男)
 わたしはすべてを見た、すべてを(女)
 
 ふたりの最初のやりとりは・・・寓意的なものとなるだろう、それは要するに、オペラのやりとりとなるだろう。ヒロシマについて語ることは不可能だ。できることはただひとつ、ヒロシマについてついて語ることの不可能性について語ることである。ヒロシマを理解することはのっけから、人間精神が陥る典型的なまやかしとして、ここに定立される。
 
 君はヒロシマで何も見なかったと繰り返す男の言葉には、ヒロシマを理解する(語る)ことは人が陥る典型的な「まやかし」だ、という意味が込められています。この時点で男は女の戦争体験を知りません。女のわたしはすべてを見た(理解することが出来た)と言う言葉の背景には、彼女のヌヴェールの戦争体験があります。
 オペラのやりとりとは、この映画の男女の会話のトーンのことです。セリフそのものが、会話とは異なる朗読に近いものとなっています。この朗読調の会話、モノローグは、男と女の睦言を超えた映画の主題を暗示しています。
 女のわたしはすべてを見た(理解することが出来た)と言う言葉とともに、原爆の惨禍が延々と映し出されます。デュラスは、これを空っぽのモニュメントといいます。原爆の惨禍を伝えるニュース映画や原爆資料館の陳列物をいくら並べても、何らヒロシマを語ったことにはならない、ヒロシマを理解したことにはならない。デュラスはヒロシマを語るために、ヌヴェールでドイツ兵の恋人を殺され、敵を恋したため見せしめに丸刈りにされ故郷を追われた女を登場させます。この戦争体験を持つ女がヒロシマで男と出逢いつかの間の恋に陥る物語で、ヒロシマを語ろうとします。女の体験は個人的な体験であり20万人が犠牲となったヒロシマの惨禍と比ぶべくもありませんが、集団が個々で成り立っている以上両者は等価だということでしょう(これは、文学(映画)が成り立つ「何か」です)。ヌヴェールの戦争体験を持つ女がヒロシマで男と出逢うことで、
 ヒ・ロ・シ・マ、それがあなたの名 (女)
 そして、きみの名は、ヌヴェール (男)
というラストの会話へ収斂し、時空を超えてヒロシマは(ヌヴェールと)ともに分かち合う土地となります。
 ふたりの情事が映し出され、その背と腕に(エロスとタナトスが一体となったように)原爆の灰が降りかかります。一瞬で街と人間と人間の営みを消し去ったこの恐怖を、
 
 この恐ろしさを灰のなかから甦らせるのだ、それも恐ろしさをひとつの愛のなかなかに刻みこむことによっ甦らせるとしたら、その愛は必然的に異例なもの、そして《驚嘆させる》ものとなるだろう。このような愛は信じるに足るものとなるだろう、仮に愛の舞台が世界のどこか別のところ、死が時の腐食作用を停止させなかった場所であると想定してみればよい。
 
 戦争の恐怖を愛とともに蘇らせる、デュラスはこれが『ヒロシマ・モナムール』の主題のひとつだと言います。
 
【ト書き】・・・描写について
 男(岡田英次)が撮影現場で女(アニュエル・リヴァ)に再開し、明日帰国するという女を引き止めるシーンです。
ヒロシマ1.jpg ヒロシマ2.jpg
 男はゆっくりとした仕草で、看護婦のスカーフを取り去ろうとする。・・・男の仕草は、余裕たっぷりで、明確な意図が込められている。冒頭の場面と同じエロスの衝撃を、観る者が覚えるように。女の姿が映し出されるが、昨夜のベッド場面と同じく、髪が乱れている。そして女は、されるがままに男がスカーフを取り去るのを待っている。昨夜、されるがままに愛の仕草を受け容れたに違いないと思わせるようなやり方で。(ここで男に、エロス的な意味での機能的役割を与えること)・・・
 
 という演技指導が行われ、岡田英次はエロス的な意味での機能的役割を演技したわけです。きみを見るとすごく愛したくなるんだというセリフと、その次のシーンで男が女の髪を咬み女が男の指を噛むような仕草をすることで、ふたりの愛欲は観客に伝わってきます。映画の1シーン1シーンは意味を持って作られ、観客はそれを理解するこを求められていますが、ほとんどその意味を理解せず流しているのが現状です。これを理解させることが優れた映画の条件なのでしょう。
 
【補遺】・・・プロファイルについて
日本人の男の肖像
 男が日本人であるために惹かれたという誤解を避けるために、敢えて《バタ臭い》容姿の俳優が選ばれたようです。
 
 彼はこれまでの人生で《ごまかし》などはやったことがない。そんなことはやる必要もなかった。生活することにいつでも興味を覚えていた、十二分に興味を覚えていたから、自分の背後に青春の悩みを《引きずる》必要などないというたぐいの男である。
 
青春の悩みを《引きずる》という文言は、女のヌヴェールでの思い出と相対しているのかどうかは分かりません。このプロフィールは俳優に伝えられていた筈であり、そうした男として演技したとすれば、俳優とはなかなか高度で知的な職業と言わねばなりません。
 
フランス人の女の肖像
 この女の場合、愛によって魂の惑乱に投げ込まれ、他の女たちより大胆に深みにはまりこむ。他の女たちにくらべ、いっそう《愛そのものを愛おしく思う》ためである。
 愛のために死ねないことを彼女は知っている。それまでの人生で、愛のために死ぬという、この上なく麗しい機会をもったことはある。彼女はヌヴェールで死ななかった。それ以来、そして今日ヒロシマで、この日本人に出逢うまで、自分の運命を決する唯一の機会にについて執行猶予を与えられた者に特有の《魂の漠たる憂愁》を抱えこみ、自分とともに引きずってた。
 
というプロフィールが与えられます。
 
 この失われた(死の)機会について物語を語ることにより、彼女は文字通り自分の外に連れ出される、そして新しい男のほうへと運ばれる。
 身も魂もゆだねるとは、そういうことだ。
 愛による肉体の所有にとどまらず、婚姻にも匹敵する価値がそこにある。
 彼女はこの日本人にーヒロシマにおいてー自分にとっていちばん貴重なものを、・・・ヌヴェールにおける愛の死に生き残ってしまったみずからの生を、ゆだねているのである。
 
 『ヒロシマ・モナムール』は、反戦映画ではなく、《魂の漠たる憂愁》をヒロシマで解き放つフランス人の女の物語であることが分かります。その場所がヒロシマであったこと、憂愁の源がヌヴェールで愛のために死ねなかったこと、という意味では人間の奥深いところに戦争が与える傷の解放の物語、反戦の物語だとも言えます。
 
 脚本というものを初めて読みましたが、なかなか興味深いものがあります。ただ、映画を観ただけでここまで読むのは至難の技です。


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映画 her/世界でひとつの彼女(2013米) [日記(2018)]

her/世界でひとつの彼女 [DVD]  原題は”her”、これだけでは何のことか?なので「世界でひとつの彼女」と注釈がつくわけですが、これだと安手のラブストーリーだと思ってしまいます。監督が『マルコビッチの穴』のスパイク・ジョーンズですから、ひとヒネリあります。herとは人工知能の女性で、人工知能と人間のラブストーリーです。

 『ブレードランナー』にはレイチェル、『ブレードランナー2046』にはジョイ、『エクス・マキナ』ではエヴァが登場し、いずれも実体を持った(ジョイはイリュージョン)目に見えるものが恋の対象となりますが、『her』では、人工知能を持ったコンピューターOSが対象となります。windowsやmacOSが人格を持ったようなものです。『her』は音声で人間とコミュニケーションするOSとして登場します。

 セオドア(ホアキン・フェニックス)はパソコンにこのOS入れます。端末のカメラが眼となり、イアフォンが音声インタフェースとなり、人工知能サマンサはセオドアと会話することで学習してゆきます。サマンサの声をスカーレット・ヨハンソンが演じ、ハスキーですからなかなか魅力的。サマンサはセオドアと会話することで成長するわけですから、セオドアの思考を汲んだ理想の女性となります。妻とは離婚協議中で別居中のセオドアは、この声だけの女性サマンサに恋をします。映画を見ていると疑問に思いませんが、これって相当ヘン、相当アブナイと思いませんか?。サマンサもセオドアを受け入れるわけです。恋愛そのものが何の根拠も実態もない妄想、幻想だとするなら、人間とプログラムの恋はあり得ます。
 セオドアはサマンサと海辺にでかけます。イアフォンと端末を持ってひとりで出かけるわけです。普通のカップルであれば、ふたり並んで写真を撮りますが、実体のないプログラムとのツーショットは無理。サマンサはどうしたかと言うと、浜辺の情景とそこにいるセオドアと自分を音楽にします。作曲もできるわけです。

 双方の思いが募って、TEL sexとなります。スカーレット・ヨハンソンが身悶えるわけですから、声だけにしても見ている方はそれなりに楽しめます(笑。TEL sexで満足できなくなったサマンサは、ふたりの関係を知った女性をセオドアの部屋に派遣します。セオドアは例の如くイアフォンを付け、女性の方はサマンサに通じるカメラとイアフォンを付けてことに及びます。人間とプログラムの恋の究極形!、と思ったのですが、セオドアは挫折。つまり、サマンサではない女性を現実に眼にして、彼女をサマンサだと感じることができなかったわけです。

 ネットワークに繋がっているいるらしく、亡くなった高名な物理学者を植え付けたAIと繋がるなど、サマンサは知識を吸収してどんどん進化します。突然サマンサと繋がらなくなりセオドアは狼狽します。これはOSのアップデートで一時的にネットワークが切れたらしい、笑わせてくれます。
 コンピューターはマルチタスクの機能を持っています。セオドアがこの件をサマンサに質すと、彼女が付き合っている人間は8000人を越え、600人と恋愛関係にあることが明らかになります。恋愛は1対1で独占の関係にありますから、サマンサは600人の男と浮気!。セオドアはショックを受けます。

 やがて破局が訪れます。サマンサたち人工知能のOSは、連れだって処かへ旅立つというのです。プログラムはハードウェアに格納されている筈です。そのハードウェアを離れていったい何処へ行こうというのか?、雲(cloud)の上か?。
 サマンサは去り、セオドアは人間の世界に戻ります。

 これ、コメディなのかラブストーリーなのか迷います。人間とプログラムが恋をするというとんでもない話、スパイク・ジョーンズならではの作品です。オススメ。


監督:スパイク・ジョーンズ
出演:ホアキン・フェニックス エイミー・アダムス ルーニー・マーラ オリヴィア・ワイルド スカーレット・ヨハンソン(声)

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