エニグマは第二次世界大戦で使われたナチス・ドイツの暗号機です。アルファベット26文字を割り当てたカムを持つ3枚のローターとプラグを持つタイプライター状の暗号機で、ローターとプラグの組み合わせは天文学的数字となり(150x100万の3乗)、設定が同じエニグマでしか暗号は解読できません。人海戦術で時間をかけて解読できたにしても、その情報は既に過去のものとなり軍事作戦には使えません。
 連合軍は”Bombe”という後にコンピュータに発展する大掛かりな機械を作り、エニグマの解読に成功します。解読されたことを知ったドイツ軍は、エニグマのローターを4枚に増やした改良型で対抗し、連合軍の解読を阻みます。暗号解読が厄介なのは、解読が知られると相手は新たな方式を採用しイタチゴッコとなるため、解読した情報を十分に使えないことです。日本軍の真珠湾奇襲の暗号は解読されていたと言われていますが、奇襲に対応すれば解読の事実がバレます。アメリカ側は、奇襲させておいて次の諜報戦に備えるという目論みがあったのかも知れません。Bombeの開発、すなわちエニグマ解読の事実はイギリスのトップシークレットであり、その事実が公表されるのは1970年代になってからです。この時、開発に携わったアラン・チューリングの功績は初めて評価されます。

 

 『エニグマへの挑戦』は、大西洋でUボートにより貨物船が次々と撃沈される第二次世界大戦中期、「サメ」解読に取り組む英ブレッチリー・パークの暗号学校を舞台にしたミステリです。1943年、NYから戦略物資、食料を積んだ100隻の護送船団が出港します。これを待ち構えるのが「サメ」を積んだ一群のUボート。Uボートの発信する暗号と護送船団の発信する気象情報、航路から、サメ解読の手掛かりを得ようという作戦が展開されます。



 この緊迫した物語に、レッチリー・パークの暗号解析係ジェリコの物語がカブリます。ジェリコはサメ解読の心労に失恋が加わって精神を病み、古巣ケンブリッジで治療を受けていたところを呼び戻されます。ジェリコはブレッチリー・パークの職員で元恋人クレア探しますが、クレアは突然行方不明となります。自室にはエニグマの暗号文が残され、ジェリコはこの暗号文とクレア失踪の謎を追うことになります。ミステリ小説ですから、「サメ」解読よりも失踪した元恋人の謎を追う方が面白く、こちらが主旋律です。



 ジェリコと共にクレアを追うのが、クレアと同じ家に住む電文管理課の女性職員ヘスター。ブレッチリー・パークという戦時下の田舎町で、暗号解読のためにリクルートされた若い男女が出会い恋をし謎を解く物語です。クレア失踪の捜査のためジェリコに近づくにのが外務省のウィグラム。ウィグラムはブレッチリーの警察を指揮していますから、そうとは書かれていませんがMI6でしょう。彼の登場で『エニグマ』はスパイ小説の色を帯びてきます。


 クレアは何故消えたのか、クレアが残した暗号文には何が書かれているのか、MI6は何故クレアを追うのか?。護送船団とUボートが接近し、暗号電波が飛び交い、「サメ」解読の緊迫感のなかで、クレアの残した暗号文(3枚ローターのエニグマで作成されているため解読可能)から驚くべき事実が明かになります。クレア失踪とクレアの背後に隠れる謎の人物が炙り出されます。


 グレアム・グリーン、ジョン・ル・カレ、フレデリック・フォーサイス等のイギリス・ミステリ小説の伝統を受け継ぐ佳作です。『エニグマ』として映画化されていますが、映画より原作の方が断然面白いです。600ページの長編ですが、久々にミステリを堪能しました。


 

エニグマ               暗号解読機 bombe(映画エニグマより)