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ノートPCのキーボード交換(張替え) [日記 (2023)]


画像1 画像2
ノートPCのEnterキーがいよいよおかしくなり、キーボード交換しました。PCは、2011年発売のDynabook R731で、今時誰も使っていない骨董品です。A4サイズで1.3kgと軽いのでSSDに換装し、スマホのテザリング経由でモバイルPCとして使ってきました。キーボードは、海外サイトで購入した《USキーボード》です。骨董品のキーボードの交換(張替え)など誰もしないでしょうが、せっかくやったのでご紹介。


画像3 画像3
分解
PC裏面の20本のネジを全部外します(ネジは長短2種類ある)。キーボードと本体がフラットケーブルで繋がっている(画像4)ので、これを外しておきます。→画像1
キーボードを外す
キーボードは、両面テープで本体に張り付ける構造です。マイナスドライバでキーボードの隅を起こし、後は手で「ベリベリ」という感じです。外したキーボードは2度と使えません。→画像2
両面テープを張る
キーボードが浮かない程度に両面テープを張ります(画像3)。フラッとケーブルを繋ぎ(画像4)、20本ネジを締めれば完成。
USキーボード
管理者権限で「ハードウェア キーボード レイアウト」を《英語キーボード(101/102キー)》に変更する必要があります(設定→時刻と言語→言語→日本語→オプション→レイアウトを変更する)。これでキートップの表示通りに使えます。日本語切り替えはShift→CapsLock。
Enterキーも正常動作で、キーボードは新品になり仮名表示が無いのでスッキリしましたが、キータッチは変わらずイマイチです。R731互換とはいえどうも「まがい物」。Enterキーが小さくなって使い勝手はこれもイマイチです。デスクトップはiMac、ノートはwindows、スマホとタブレットはAndroidとバラバラ。Macbookを入手するまでノートはこれで頑張りますw。
タグ:パソコン
映画 マリアンヌ(2016米) [日記 (2023)]
連合軍のマックス(ブラッド・ピット)がフランス領のモロッコにパラシュートで潜入し、カサブランカでマックスを受け入れるのがフランス・レジスタンスのマリアンヌ(マリオン・コティヤール)。ナチスのフランス侵攻が1940年ですから、モロッコはナチスの支配下で、連合軍の工作員と仏レジスタンスが居てもおかしくはありません。レジスタンスvs.ナチスなら、もっと適当な舞台があるはずですが、観客に映画『カサブランカ』を連想させる仕掛けなんでしょう。
連合軍の将校とレジスタンスは夫婦を演じます。二人はオフィシャルでは夫婦、プライベートでは他人。マリアンヌは、他人の目がある時にはキスをねだり夜になるとマックスを屋上に追いやります。観客の期待通りマックスとマリアンヌは恋に落ちます。このクスグリと、二人よるナチス暗殺の落差が前半の見せ場です。面白いのは、マックスの素性。マリアンヌはマックスを「ケベック人」と呼ぶように国籍はカナダです。?と思うのですが、仏人のマリアンヌとフランスの入植地をルーツとし公用語が仏語のケベック人のマックスが仏領カサブランカに夫婦として居てもナチスの注意は引かないわけです。ケベック人という設定はなかなかのモノ。
ロンドンに帰った二人は結婚するわけですが、マックスの上司は、作戦で知り合った男女が結婚しても上手く行く筈はないと言います。これが後半の主題です。なんと、マリアンヌにナチスのスパイ疑惑が浮上します。罠を仕掛けてマリアンヌ正体を暴き、マックスが彼女を殺す命令が下ります。果たしてマリアンヌはスパイなのか?、マックスは彼女を殺せるのか?、となります。マリオン・コティヤールが演じているわけですから、彼女がただのレジスタンスだったとはオチにもなりませんから...という映画です。
1940年代の車、飛行機、ファッションが楽しめます。『フォレスト・ガンプ』のロバート・ゼメキスですから、手堅くまとまっています。恋あり、サスペンスあり、アクションありと、休日にボーッと観るにはいいです。
監督:ロバート・ゼメキス
出演者:ブラッド・ピット、マリオン・コティヤール
タグ:映画
今年もドクダミ酒 [日記 (2023)]
草むしりのついでにドクダミチンキ(左)ドクダミ酒(右)を作りました。
ドクダミ酒はベランダに吊るして乾燥させ焼酎に浸けるだけ。ドクダミチンキは、花を摘んで焼酎を注ぐだけ。虫除け、虫刺されにけっこう効きます。タオルに吹き付けて首に巻いておけば虫除けになります。半年ほど寝かせる必要があるので、来年用です。
タグ:絵日記
現代史資料 1 ゾルゲの見た昭和(1) 二・二六事件 [日記 (2023)]
日本における諜報活動
検事は治安維持法、国防保安法違反で起訴するため、ゾルゲの諜報活動の詳細を洗い出します。ゾルゲは1933年(昭和8)9/6に来日し、1941年(昭和16)10/18に逮捕されます。この間、国際連盟脱退、二・二六事件、日中戦争、ノモンハン事件、日独伊三国同盟、太平洋戦が起こりますから、ゾルゲは文字通り昭和史の激動の中で諜報活動をしたことになります。ゾルゲが自供した主な諜報活動は、
1934年(昭和9年) フォン・ディルクセン大使来朝の使命
1936年(昭和11年) 二・二六事件
1936年(昭和11年) 日独防共協定
1937年(昭和12年)~1938年(昭和十三年) 独逸による日支間の平和斡旋交渉
1937年(昭和13年) 日本の軍事情報
1938年(昭和13年) リシュコフ事件
1939年 (昭和14年) 日独同盟問題の提起と平沼内閣
1939年 (昭和14年) 日本の第二次欧州大戦に対する態度
1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年) 独逸補助巡洋艦に対する物資補給交渉
1940年(昭和15年) 日独伊三国同盟
1940年(昭和15年)~1941年(昭和16年) 松岡外務大臣と独大使オットとの関係
1941年(昭和16年) 独逸の「対ソ」攻撃の意図とその準備
1941年(昭和16年) 六月以後独逸が日本を「対ソ」戦に参加せしめんとした努力
1941年(昭和16年) ウォルタート使節の来朝
1941年(昭和16年) 日米交渉 (現代史資料 1 p252)
ゾルゲは日本での活動の8年間、モスクワに送った電文は650通に及ぶと言われています。電文の他、ゾルゲ自身、クラウゼンの妻アンナが上海からクーリエを通じてマイクロフィルム等を送っています。実に精力的に諜報活動をしたものです。
『資料』を読む限りゾルゲ供述は淡々と進みます。捕まったのが1941年(昭和16)10月18日、本書の『調書』は同年12月の2か月後、クラウゼン、ヴーケリッチ、尾崎、宮城も逮捕されていますから、覚悟の上の供述でしょうか。むしろ自分の諜報活動を誇るかの様です。尋問者の検事・吉河光貞は昭和の国際政治の舞台裏を見たことになります。
これらの諜報活動を通じてゾルゲが日本をどう見ていたか?。
ディルクセン ドイツ大使
ソ聯の事情に通じたディルクセン大使をして此のソ聯に対抗して日独両国で提携せしめ様と策して居たのであります。即ち日本は西暦一九三三年(昭和八年)三月、先に国際連盟から脱退しましたが、独逸も之に次で同年十月国際連盟から脱退しましたので、此の事実を日独両国協力の基調として、独逸は日本との関係を緊密にすることに依ってヴェルサイユ平和条約を打破する一助にしようとしたのであります。詰り独逸は当時ソ聯打倒と云ふ積極的政策を採ると共に、他面国際連盟を脱退してヴェルサイユ平和条約を破棄しようとして居たのであります。そして独逸の政略は日本と反共戦線を結成して其の指導者となり英国や仏国をして此の事実を承認される代りに、ヴェルサイユ平和条約の負担を軽減するか又は之を破棄することを強要しようとしたのであります。 (252)
ロシア侵攻を目論むナチス・ドイツは、国際連盟を脱退した日独で防共同盟を結ぶために前ソ連大使ディルクセンを駐日大使に指名したわけです。ナチスの党員でもあるディルクセンは、1933~38年駐日大使として在任し、1936年日独防共協定を調印しています。
ニ・ニ六事件
尾崎、宮城、日本の諜報団を動員してニ・ニ六事件の情報を集めます。これによってディルクセンやオットよるゾルゲ評価は益々高まり、『東京に於ける軍隊の反乱』をゲオポリティークに寄稿し、当然モスクワにも報告します。
ディルクセン大使は此の事件に対して皮相な観察を下して居り同事件は日本軍部の無智から起きたものであり小さな社会的改革と云ふ様な政治的指導方法を実施することに依って容易に解決出来るものと判断して居りました。
又オット武官の報告書はディルクセン大使よりも少し調察力のある観察を下して居り、此の事件は日本軍の無智と云ふが如きものに因るのでなく、農民の悲惨な社会的状態と日本軍が近年非常に政治化されて居ることに因るものであり、斯様な日本軍の政治化は全く不可なことで、斯様に日本軍が政治化して居たのでは仲々一朝一夕には此の禍根を除去することが困難であると云ふ判断を懐き、最後に日本政府は此の事件に依って起された事態を収拾する為大規模な内政改革を遣るであらうが、若し左様なると之が為日本軍の予算は相当削減されざるを得ないであろうと云ふ予測を述べて居りました。(254)
ゾルゲの「ニニ六事件」の分析は、ディルクセン大使の報告を皮相とし、「オット武官の報告書はディルクセン大使よりも少し調察力のある観察」とすることで察せられます。事件後日本はファシズム色を強め、大規模な内政改革と軍事予算の削減はありません。
モスコウ中央部では独大使館側の報告書の内容が真実であるか否かと云ふことよりも、独逸の責任ある当路者が此の事件に対して如何に判断し、且如何に対処せんとして居るかと云ふことを重要視して居た訳でありまして、事件の真相に関する報告は、寧ろ私の諜報グループが別に報告すべきことであったのであります。斯様な訳で、私はディルクセン大使の此の事件に対する見解のみならず日本政府当局が如何にして此の危機を切抜けようとするのかと云ふ問題に対する同大使の判断もモスコウ中央部に報告し、又オット武官がディルクセン大使の為に献策した之等の問題に関する報告も同様に報致したのであります。(254)
モスクワが知りたかったのは、事件の本質ではなく、ドイツは事件をどう理解したか、事件を前に日本陸海軍がどう動いたか、と云うことです。ゾルゲは翌1937(昭和12)に、農村の土地所(地主と小作の関係)、農民の負債など経済問題を分析し「日本の農民が、如何に悲惨な生活状態に在るか」を論じた『日本の農業問題』を執筆しています。(238)
現代史資料 1 スパイ・ゾルゲ スパイマスター [日記 (2023)]
続きです。
スパイ・ゾルゲの昭和
スパイの方法
スパイマスター
「諜報方法は如何?」と検事に問われ、ゾルゲはこう答えます。
元来諜報機関の長たる者は自分自から積極的な情報や資料の蒐集をせず、専ら自分の成員に対して指命を発して色々な諜報活動を遂行させ、斯くして集められる各種の情報をば綜合判断して一定の報告を取纏めるのが普通一般の遣り方でありますが、私は之に反して自分自から諜報活動の先頭に立って独大使館を中心に各種の貴重な情報や資料を蒐集した訳でありまして、私の此の独大使館内に於ける諜報活動は既に申上げた通り殆んど完全に近い合法偽装の下に遂行されたのであります。 (249)
ゾルゲ諜報団には、無線担当で赤軍参謀本部所属のマックス・クラウゼン、写真担当でアヴァス通信(AFP)の記者ブランコ・ヴーケリッチ、近衛内閣嘱託で朝日新聞記者・尾崎秀実、アメリカ・コミンテルン出身の画家・宮城与徳などがいます。尾崎は、独ソ戦の勝利を決定付けた日本の南進政策を掴み、宮城は軍事情報を蒐集します。それぞれ重要なパートを担いますが、ドイツ大使館に食い込みバルバロッサ作戦、日独防共協定、三国同盟などの情報をスクープしたのはスパイマスター・ゾルゲ自身です。「自ら諜報活動の先頭に立って」と自負する所以です。
スパイの方法
ドイツ大使館という組織、閉鎖集団の中で、一ジャーナリストのゾルゲが如何に情報収集したのか?。
即ち、其の諜報方法としては先づ最も簡単な方法として議論、相談、資料の研究等の方法を使ひ、次にはより大きな情報を得んが為に小さな情報を提供すると云ふ方法、換言すれば小さな情報を餌にしてより大きな情報を聞出すと云ふ方法を用ひたのでありました。そして入手した之等の情報や資料を保存する技術としては記憶したり、紙片や手帳に録取したり、又は写真に撮影すると云ふ様な方法を採ったのであります。(250)
嗅ぎ廻るのではなく相手に喋らせる誘導尋問です。人間の心理を巧みに突くのも優れたスパイの要件です。
オットの政治的協力者として独大使館内では極めて高い道徳的地位を持って居りましたので自分の方から何も働き掛けないのに拘らず、同大使や武官等から積極的に種々な問題に就て色々と話し掛けられたり、又は相談を持ち掛けられましたので、私は少しも労せずして情報を聴取することが出来ました。(250)
大使館のトップ、オットの信頼を得たことが大きいでしょう。陸軍武官、大使と親しい(オットの私設顧問)のですから、大使館員は安心してゾルゲと論議し相談することが出来ます。大使館ではオットとゾルゲを中心とした二つのコミュニケーション集団が出来上がったわけです。日本社会にあるドイツ村という閉鎖空間がこれを助長したことでしょう。
ゾルゲはジャーナリストとして国際情勢のプロであり、日本の政治については尾崎、宮城たち諜報団のバックがあります。ゾルゲの知識と分析が遺憾なく発揮されたのが、ニ・ニ六事件であり支那事変です。
又色々困難な問題があると、先方から「我々は現在斯う云ふことを聞知して居るのだが君は聞いては居らぬか、君は之に就て如何に考へるか、」と云ふ様に情報を持って来て相談を持ち掛けられたこともありました。尚又大使等が重要な電報か報告文書を起草する場合に、予め其の原稿を私に見せて呉れ之は如何か何か意見は無いか君の意見の様に変へるなら如何に変へるのかと云ふ風に意見を求められましたので、私は極めて重要な電報や報告文書迄も諜知することが出来たのであります。
私は又時には大使や武官等に伺って、現に日本で問題になって居る色々な事件や問題に就て私の方から進んで自分の判断や意見を申述べますと相手の方では、君の云ふことは正しいとか若くは間違って居るとか申して、色々と議論をして居る裡に確実な情報を知らせて呉れることがあり、前に申上げた様に大使や武官に頼まれて諸論説を研究執筆した際、資料を提供して貰って之を入手したこともありました。(250)
大使がスパイに重要な報告文書の添削を頼むわけです。
例えば二・二六事件についてモスクワが重要視したのは、事件そのものよりも二・二六事件について「独逸の責任ある当路者が此の事件に対して如何に判断し、且如何に対処せんとして居るかと云ふこと」だと言います。ゾルゲは、事件の分析をオットに提供し、ドイツがどう反応したかをモスクワに報告します。オットの報告書そのものがゾルゲの分析ですから、大使館とドイツの「判断と対処」はゾルゲの掌の上です。自作自演です。
圧力鍋 [日記 (2023)]
少ない水で調理し、沸騰までの時間が短く、火を止めた後の余熱で調理するため、火を使う時間が短くガス代(電気代)の節約につながります。
また余熱調理中は、火を気にする必要がなく、時間を有効に使うことができます。
とありイイことづくめ。やってみました。
牛スジ
長ネギと生姜を入れて水から10分茹で、水洗いした後、水と日本酒を加えて2時間ほど煮ます。この後半の部分を圧力鍋で置き換えます。
煮上がった牛スジを圧力鍋に入れ、適量の水を加えて加圧20~30分ほど。後は予熱で火を通す。確かに時短、省エネです。
前回の牛スジはカレーにしました、今回は?...。次回は豚の角煮です。
餡
煮こぼした後、小豆が指で潰れる程度まで弱火で1~2時間ほど煮ます。この過程を圧力鍋で置き換えます。
小豆が被る程度の水を入れ、圧力がかかったら弱火で20~30分ほど加熱して後は余熱で火を通します。冷めたら砂糖を投入して好みの固さまで煮つめます。鍋に比べ小豆が柔らかくなります。余熱を使うので放っておくだけですから楽。
前回はどら焼き、今回は何にしよう?。
成果 →牛すじスープと牛すじの煮込み(関西のどて焼き)、たっぷりの餡。牛すじは、酒、みりん、醤油を足して煮ましたが見事にトロトロ。圧力鍋を使えば豚の角煮も期待が持てます。スープはラーメンにしてみます。

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タグ:クッキング
現代史資料 1 スパイ・ゾルゲ ドイツ大使館へ浸透 (2) [日記 (2023)]
続きです。
クーリエ
オットのゾルゲに対する信頼は並々ならぬものがあります。1934年(昭和9)オットと共に満州を視察旅行し、1938年(昭和13)大使となったオットの伝書使(クーリエ)としてマニラ、香港、広東へ行き、1939年(昭和14)には上海に赴いています。機密文書を運ぶクーリエですから外交特権を持っています。
オット大使から特別な政治的使命を託されて行きました。其の内香港旅行丈けは之を私の秘密な諜報活動上の連 絡に利用したのでありますが、以下其の顛末を申上げれば次の通りであります。丁度西暦一九三八年(昭和十三年) 四、五月頃の事でありますが、私の諜報グループでは、伝送物が大分溜りましたので、私は之を香港に持って行き度いと思って居りました。
其処で私は独大使館に出掛けてオット大使に会ひ、新聞の用件で香港に行き度いと申出ました処、同大使から夫れでは大使館の伝書使になって行って呉れぬかと云はれましたので、私はこれ幸ひと思って早速承諾し、同大使館から其の伝書使の証明書を貰ひ、謂はば二重の伝書使として双方の伝送物を携へて先づマニラへ参り、同地では独大使館の伝送丈けを済ませて香港に渡り、同地で独大使館の伝送を果すと共に、予め日本出発前ラジオでモスコウ中央部と打合せて置いた通り其の伝書使に会って秘密の伝送物を授受したのであります。私は斯様に独大使館の伝書使たる証明書を持って居りましたお蔭で、日本は勿論マニラや香港でも米国や英国の官憲から検査を受けずに無事に済ます事が出来たのでありますが、 其の時私が携へて行った秘密な伝送物は文書、報告書簡等を写真に撮影したフィルムで、之は全部自分の腹に巻附けて持って行ったのであります。(237)
オット大使はソ連のスパイに外交文書を運ばせたわけです。
一石二鳥、三鳥
ゾルゲの大使館利用はクーリエに留まりません。1934年(昭和9)オットとの満州視察旅行では「満州国に関する論説」を執筆して雑誌社に送り、二二六事件については「二・二六事件に関する論説」を執筆してオット経由でドイツ陸軍参謀本部トーマス将軍に送ります。1938年(昭和13)クーリエとしてマニラ及香港、広東行きは、「日支紛争下の香港に関する論説」『日支紛争下の西南支那即ち広東に関する論説』に結実し、オットに提出する一方、雑誌「ゲオポリティーク」に寄稿します。当然、モスクワにも報告したわけで、ジャーナリスト、オットの私設顧問、ソ連のスパイとして一石二鳥、三鳥の働きをします。
雑誌「ゲオポリティーク」に掲載されたゾルゲの記事は、
1935,6月:『変革途上の満州国』(オットとの満州視察旅行)
1936,5月:『東京に於ける軍隊の反乱』(ニニ六事件の分析)
1937,1~3月:『日本の農業問題』
1937,5月:『内蒙古に関する論説』(ライプチッヒ大学教授と内蒙古へ旅行した成果)
1938,7,8月:『日支紛争下の香港』『日支紛争下の西南支那即』(クーリエとして訪れた際の調査、取材)
1939,2 3月:『支那戦争下の日本経済』(陸軍参謀本部トーマスの要請)
1939,8,9月:『日本の膨張』(トーマスの要請)
大使館の人脈や資料も利用し『支那戦争下の日本経済』『日本の戦時工業問題』を執筆し、独参謀本部に報告しています。例えば航空機、
即ち飛行機に就ては、マッキ武官のみならず、空軍武官ネーメッツからも不十分な資料を得たのみで、之に依って三菱、川崎、中島、愛知時計等の各工場の生産能力を記述し、自動車に就ては日産や豊田の各工場の生産能力を示しましたが、特に之等の性能が悪い点を指摘し、戦車に就ては大森や新潟の某工場の生産能力を示して之等の生産状態が悪いことを強調し、アルミニューム及人造石油に就ては独大使館経済部や空軍武官室に相当詳細な資料がありましたので、之を利用し、執れも非常な増産が行はれて居る点を述べ、製鉄に就ては年産六百万屯なる数字を示したのみならず、其の貯蔵量は一年半乃至二年間は大丈夫であることを指摘し、製鋼に就ては最近ベッセマー法なる直接製鋼作業が行はれて居り、年産二、三百万屯の状態であると云ふことを述べたのであります。勿論之等の計数は全部秘密なものでありました。(241)
ゾルゲによって日本の国力、戦争遂行能力が分析され、仮想敵国・ソ連に筒抜けとなっていることになります。ゾルゲをみると、諜報活動が情報を集め分析するインテリジェンスであることがよく分かります。
二つの論説の資料は極めて重要な資料でありましたので、独大使館で之を使用した際、秘密に全部写真に撮影して其の都度モスコウ中央部に送ったのでありまして、要するに私として之等の論説を研究執筆することに依り独逸側の信任を獲得すると同時に貴重な資料を諜報すると云ふ一石二鳥の効果を収めた訳であり、更に只今申上げた日本の戦時工業問題に関する最後の二つの論説を除き、 他の諸論説は其の都度秘密な部分や公表を憚る部分を削除して改作し、之を前述の雑誌ゲオポリティークに寄稿して居たのであります。(241)


ライカ ロボット
写真撮影はライカとロボットが使われています。現像とマイクロフィルムの作成は、ゾルゲ諜報団のヴーケリッチによって行われ、マイクロフィルムはゾルゲ自身やマックス・クラウゼンの妻アンナが上海に運び、ソ連のクーリエによってモスクワに運ばれます。
オットが情報を提供し、ゾルゲが分析し報告書にまとめ、オットは報告書を本国に送り点数を稼ぐわけです。ゾルゲはその報告書を雑誌「ゲオポリティーク」に寄稿してジャーナリストとしての地位を固め、同時にスパイとしてモスクワに報告します。オットとゾルゲは持ちつ持たれつの関係だっわけです。
ゾルゲ、パートタイマーとなる
ゾルゲ、パートタイマーとなる
ゾルゲの目覚ましい働きを見て、オットは正規の大使館員にならないかと誘います。大使館員となれば諜報活動に支障がでるためゾルゲは断りますが、代わりに情報宣伝課のパートタイマーとなりますw。
私は西暦一九三九年 (昭和十四年)十月第二次欧州戦乱勃発後独大使館情報宣伝課で情報関係の業務を取扱ふことになり、以後毎日午前六時から同十時頃迄の間同課に出勤して働きました。其の業務の内容は、第一には伯林からの各種情報中より重要なものを選定して之を上級館員が直に見ることが出来る様に準備することであり、第二には之等の情報中公表して支障のないものは日本の諸新聞や在留独逸人の為に取纏めることでありました。
そして斯様な業務は、私の秘密な諜報活動にとって極めて重要な意義を持って居たことは申す迄もないことで、私は之を自分の諜報に利用した訳であります。(243)
ゾルゲがドイツ大使館の広報までコントロールしていたことになります。
【スパイ・ゾルゲの昭和】
1)ゾルゲ諜報団 2)魔都・上海のゾルゲ 3)諜報団、東京ニ集結ス! 4)東京発ラムゼイ 三国同盟 5)東京発ラムゼイ バルバロッサ作戦 6)ゾルゲの無線機 7)ゾルゲの暗号 8)日本の対ソ戦略を探れ 9)日本ハ対ソ戦ニ参戦セズ 10)ゾルゲの給与、押収物 11)ゾルゲ 御前会議を盗む①
12)ドイツ大使館に浸透① ②
【スパイ・ゾルゲの昭和】
1)ゾルゲ諜報団 2)魔都・上海のゾルゲ 3)諜報団、東京ニ集結ス! 4)東京発ラムゼイ 三国同盟 5)東京発ラムゼイ バルバロッサ作戦 6)ゾルゲの無線機 7)ゾルゲの暗号 8)日本の対ソ戦略を探れ 9)日本ハ対ソ戦ニ参戦セズ 10)ゾルゲの給与、押収物 11)ゾルゲ 御前会議を盗む①
12)ドイツ大使館に浸透① ②
現代史資料 1 スパイ・ゾルゲ ドイツ大使館へ浸透 (1) [日記 (2023)]
『現代史資料 1 』は、1942 43年(昭和17,18年)東京地検の検事(吉河光貞)がゾルゲを取り調べた訊問調書とゾルゲの手記から成り立っています。調書は、
問:被疑者が駐日独逸大使館に接近して同大使館関係者達から信任を得た経緯如何。
答:私が駐日独逸大使館に...
検事の問にゾルゲが答えると云う建て付けになっています。
大使館への浸透
ゾルゲは、諜報団を組織し近衛内閣ブレーンの尾崎等から情報を得る一方、オット大使の私的顧問として大使館に一室を与えられるまでにドイツ大使館に食い込みます。諜報活動で得た情報の60%がドイツ大使館から得たものだったと告白しています。
同大使館に接近して信任を得る様になれば之と同時に日本人に対しても信用を増すこととなり、万一自分に疑惑が生じた様な場合でも同大使館が自分の為に防壁となって呉れるであろうと思ひましたので、今後私は日本で諜報活動を遂行して行く為には是非とも此の独大使館と緊密な接触を保って行かねばならぬと云ふことを前よりも一層痛切に感じたのであります。偖(さて)其の当時私が独逸から貰って来た紹介状に就て申上げれば次の通りです。(現代史資料 1 P227)
ゾルゲは、1933年(昭和8)来日にあたり、独陸軍少将ハウスホーファーからドイツ大使とワシントンの日本大使宛の紹介状を貰い、日本大使からは外務省情報部長宛てた紹介状を貰います。新聞記者ですから、ベルリンの一流新聞社テーグリッヘ・ルンドシャウ社からドイツ大使館の参事、書記官に宛てた紹介状、同社の記者ツェーラからオット中佐(独陸軍武官)宛の紹介状を貰います。オットは後に大使となり、ゾルゲはオットの信任を得て私設顧問となって彼から多くの情報を引き出すことになります。
オットだけではなく、海軍武官、経済課主任、情報宣伝課主任等の信任を得、
私は大使館の殆んど全部の主なる関係者と館内では単なる一私人であり乍ら極めて高い道徳的な地位を獲得し其の中枢に這入り込む様になったのであります。(p233)
ゾルゲがオットを通じて独国防軍司令部に出した報告書が陸軍少将で陸軍参謀本部の経済部長トーマスの目に止まり、トーマスは各種の問題をゾルゲに研究執筆させて送付せよとオットに命じます。また日本に送られる特使や将校にゾルゲ会うことを勧め、ゾルゲの人脈は拡大しゆきます。
一新聞記者に過ぎないゾルゲがなぜこれ程の信任を得たのか?。
私が望も欲しがらず、地位も欲しがらず、又利益を追及すると云ふ訳でもなく、時には政治経済及軍事等の広汎な諸問題に亘って極めて鋭い意見を吐いたり、又は美術哲学歴史其の他の多方面に亘って多少の識見を述べたりして居りましたので、少なからず人間的な魅力を与へて居た様に思ひます。・・・更に私が割合話術に巧みで、例へば内蒙古の旅行談等を如実に興味深く話して居たことも、独大使館員達から親しまれた原因の一つではないかと思います。(234)
ゾルゲの自慢話ですが、日本に来てわずかの間に人脈を築き得たのは、彼の知識と教養、弁舌だったようです。人心掌握はスパイの重要な技術です。
1937年支那事変が勃発すると、大使館でのゾルゲの評判はさらに高まります。
同大使館に於きましては支那事変発生以来支那問題が特に重要となったのにも拘らず一人も権威者が居らず、フォン・ディルクセンやオットは此の問題に精通して居らず他の館員中にも然るべき者が殆んど居りませんでした。
斯様な次第で、西暦一九三七年 (昭和十二年) 七月支那事変が勃発した時、同大使館関係者一同には此の事件が青天の霹靂であり、唯一人其の原因や将来の見透し等に就て皆目見当が着かぬ様な状態でありました。之が為、私の支那問題に関する識見が同大使館内で相当重要視され高く評価される様になったのは当然な事でありました。(235)
上海での3年の諜報活動の成果が遺憾なく発揮されたわけです。爽やかな弁舌と豊富な話題で人々を魅了し、大使の私的な政治顧問ジャーナリスト・ゾルゲは、裏では大使館から情報を盗み、諜報団を率いる赤軍のスパイ・ゾルゲでもあったわけです。
【スパイ・ゾルゲの昭和】
1)ゾルゲ諜報団 2)魔都・上海のゾルゲ 3)諜報団、東京ニ集結ス! 4)東京発ラムゼイ 三国同盟 5)東京発ラムゼイ バルバロッサ作戦 6)ゾルゲの無線機 7)ゾルゲの暗号 8)日本の対ソ戦略を探れ 9)日本ハ対ソ戦ニ参戦セズ 10)ゾルゲの給与、押収物 11)ゾルゲ 御前会議を盗む①
12)ゾルゲ ドイツ大使館に浸透①
【スパイ・ゾルゲの昭和】
1)ゾルゲ諜報団 2)魔都・上海のゾルゲ 3)諜報団、東京ニ集結ス! 4)東京発ラムゼイ 三国同盟 5)東京発ラムゼイ バルバロッサ作戦 6)ゾルゲの無線機 7)ゾルゲの暗号 8)日本の対ソ戦略を探れ 9)日本ハ対ソ戦ニ参戦セズ 10)ゾルゲの給与、押収物 11)ゾルゲ 御前会議を盗む①
12)ゾルゲ ドイツ大使館に浸透①
サンドイッチ・ハンバーグ [日記 (2023)]
ハンバーグは、内側を牛の細切れ肉を使い外側を挽き肉で包めば美味しいと教えて貰ったので、やってみました。
次回のためのレシピ
1)牛ひき肉に砂糖と塩(適量)を入れてこねる。
2)牛こま切れ肉を細かく切りミンチにしてこれも砂糖と塩を加えてこねる。
3)玉ねぎのみじん+ニンニクを炒める。
4)2)+3)+適量のパン粉を混ぜる。
5)牛こま切れ肉のミンチを牛ひき肉で包み形を整える。
→上手く包めなかったので、牛乳パックを切って型を作り、ミンチ→細切れ→ミンチの《サンドイッチ》にしました。
6)型のままフライパンに入れて強火で表と裏を焼き、少量の水を入れて弱火で蒸し焼きにする。
7)ケチャップ、ウスターソース、酒(赤ワイン)、醤油(ニンニク醤油)でソースを作る。
焼き過ぎたのか肉汁がジュワーと出ません、この辺りが次回の課題。フライパン・ローストビーフもそうですが、料理は火のとうし加減というのがポイントのようです。肉汁がジュワーはありませんがビールのアテには十分w。
Tips
・牛乳パックは、魚など生臭いものを切る時に、まな板の代用として便利です。
・ニンニク醤油は、濃い口醤油にニンニクを数片を1週間浸けるだけ。調味料として使えます。
・大さじ一杯、こちらによると、
・大さじ一杯、こちらによると、
大さじ1杯 = 15cc、キャップ = 7.5cc
→大さじ1杯はペットボトルのキャップ2杯分
小さじ1杯 = 5cc、キャップ = 7.5cc
→スクリューの一番上の線の部分まで(2/3杯分) だそうです。これは便利。
伊藤正一 定本 黒部の山賊 アルプスの怪 (2014 山と渓谷社) [日記 (2023)]
目次
Ⅰ 山賊たちとの出合い
Ⅱ 山賊との奇妙な生活
Ⅲ 埋蔵金に憑かれた男たち―別派の山賊
Ⅳ 山のバケモノたち
Ⅴ 山の遭難事件と登山者
Ⅵ 山小屋生活あれこれ
Ⅶ その後の山賊たち
著者は、昭和22年、北アルプスの最奥地にある山小屋”三俣蓮華小屋”の経営を引き継ぎます。
そのころ、三俣に入るには二日以上もかかって、アルプスの高峰をいくつも越え行かなくてはならなかった。
そのころ、三俣に入るには二日以上もかかって、アルプスの高峰をいくつも越え行かなくてはならなかった。
まず大町方面からは、濁小屋を通り、アルプスの三登りといわれるブナ立尾根の急坂をよじて烏帽子小屋に出る。つぎに三ッ岳、野口五郎岳、赤岳、鷲羽岳を越えて行く。もう一つの道は上高地から槍ヶ岳の肩へ登り、西鎌尾根をつたって樅沢岳、双六岳を過ぎて行かなくてはならない。有峰または薬師を通っていく富山側の道のりは四日かかった。
著者は、湯俣温泉から湯俣川沿いに三俣山荘に至る「伊藤新道」(1956年開通、現在廃道)を開削した人物です。
著者は、湯俣温泉から湯俣川沿いに三俣山荘に至る「伊藤新道」(1956年開通、現在廃道)を開削した人物です。
黒部ダムができる前で、三股は北アルプスの秘境だった様です。終戦後間もなくの頃ですから、登山者も少なく小屋は荒れ放題。三俣小屋には、食い詰めた男達が住み着き、登山者から金品を奪う山賊だと噂されます。
明治以前から長いあいだ、 黒部は遠山一家の猟場であり、すみかでもあった。そしてカモシカを獲ることは彼らにとっては正当な生活手段だった。
私は富士弥(山賊のひとり)に、「いままでに熊やカモシカを何頭くらい獲ったか」と聞いたことがある。彼は”そんな数はぜんぜん数えられない"といった面持ちだったが、それでも「熊は五~六〇〇頭、カモシカ二〇〇〇頭は下らないだろう」と言った。



熊やカモシカを狩り、毛皮や”熊の胆”を売る山賊はいわゆる”マタギ”でしょう。山で事件が起こると異界の住人の仕業とされ、山賊神話を生んだのでしょう。三俣蓮華小屋の主人の著者と、彼等の交情と山の不思議を綴った一書です。尺イワナを80匹釣った話、熊撃ち、佐々正成の埋蔵金、カッパ、人を化かす狸の話などの山の怪談 などなど。さながら黒部の「遠野物語」です。
タグ:読書
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