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中村真一郎 王朝文学論 (1) ( 1971新潮社) [日記 (2024)]
小説家で評論家でもある(あった)中村真一郎の平安朝文学論です。扱われるのは『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』等々で、当然『源氏物語』がその中核をなします。積ん読消化ですから1971年発行の古本です。1000年前の王朝文学ですから、50年前の本でも問題なし?。
紫式部とブルースト
著者は11世紀の王朝文学『源氏物語』と20世紀を代表する小説『失われた時を求めて』を比較し、
ブルーストも紫式部も、作者自身と作品の素材との関係が、きわめて似ている。どちらも、一時代の最も文明的な華やかな社会、芸術と趣味との最高を代表している社会のなかに生き、その社会の美を、長大な作品に描き出した。しかし、どちらも、実はその社会のなかでは、脇役しか演じられない地位を占めているにすぎなかった。紫式部はある皇妃の家庭教師にすぎなかったのであり、ブルーストは公爵や伯爵やの社会にまぎれこんだ一平民だった。
すなわち、この二人の偉大な小説家は、共にその文学的動機の根柢に、成り上り根性、スノビスムを秘めている。彼らは最高の社会を、憧れと同時に恨めしさの感情をかくしながら、微細に観察する。そして、あたかも、実社会における、不満足の感情を償おうとするかのように、彼らの眺めた社会を、最も鮮かに再現するロマンの作製に、一生を傾注する。(p31)
紫式部は下級貴族の娘、中宮・彰子(藤原道長の長女)のサロンの一員にしか過ぎなかったからこそ、(成り上り根性、スノビスムを秘めていたかどうかは別にして)憧れと同時に恨めしさの感情をかくしながら、微細に観察できたわけです。著者は、11世紀の『源氏物語』に20世紀の『失われた時を求めて』にある近代性を見出します。
どちらの主題も、時間であり、変貌して行く一社会の姿に、残酷な時間の推移の跡を、執拗に追って行く。(p30)
『源氏』は三世代の物語です。光源氏の青春期〜位人臣を極めるまでの第一部(桐壺〜藤裏葉)、人生の下降期から死に至るまでの第二部(若菜上ー幻)、源氏没後の源氏や頭中将の子供たちの時代の第三部(匂宮ー夢浮橋)第一部の孫の世代です。
三世代の時間の流れに、さらに「密通」というもう一つの主題が組み込まれます。幼時に母を亡くした源氏は、マザーコンプレックスから母と似た義母・藤壺と通じ妊娠させます。源氏は紫の上の死後藤壺の妹の娘(姪)・女三宮を娶りますが、女三宮は源氏の友人の息子・柏木と密通し不義の子・薫が産まれます。若き日の過ちが、因果の如く源氏に訪れたわけです。
三世代にわたる源氏一族のドラマが『源氏物語』を『失われた時を求めて』に匹敵する近代文学足らしめていると言います。『失われた時を求めて』も積ん読の1冊w。
『源氏』の系譜 夜半の寝覚、浜松中納言物語
平安後期の『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』は『源氏』に触発されて生まれた物語です。『夜半の寝覚』は一組の男女が愛欲と宿命に翻弄される?物語、『浜松中納言物語』は、舞台の半分を唐にとり、日本の男と唐の女の恋愛をえがいた国際色豊かな物語だそです。藤原定家によると、この2つの物語の作者は、『更級日記』の菅原孝標女(『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母は叔母)だそうです。「世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばや」と少女時代に『源氏』に憧れた菅原孝標女が、読むだけでは満足できず小説家になった?という話です。
(定家の)この註を信じるとなると、実に、あの可憐な日記の作者、「菅原孝標のむすめ」は、驚くべき才能を持った小説家だということになる。現代の学者は、この伝説を実証的に証明しようとして、様々の努力をしている。そして、大体のところ、事実であるらしいというところまで、行っているようである。無邪気な読者にすぎないぼくらは、喜んでこの愉快な言い伝えを信じようではないか。何もあの定家卿の折角の推定を否定する必要もないわけである。(p47)
『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』は共に完全な形では伝わっておらず、前者は中間部分と末尾に欠損があり、後者は書き出しの第一巻が失われているそうです。鎌倉時代に成立した物語に含まれる歌のアンソロジー『風葉和歌集』には、198篇の物語の題名があるそうで、現存する物語の10倍の物語が作られ90%が「散逸物語」の運命を辿ったと著者は書いています。その物語の作者は女性です。宮廷のサロンでは、女房たちが自作の短編小説を持ち寄り、その小説中の歌の優劣を競う「物語合わせ」が行われたそうで、女房たちが先を争って創作活動に励んだわけです。当時隆盛を極めた(恋のコミュニケーション手段)和歌は「かな文字」で書かれ、物語の要件である心理描写に、大和言葉のかな文字は適していたのでしょう。
王朝女流作家
『源氏物語』の時代は、一条天皇の外祖父・藤原兼家とその息子たち、道隆、道兼、道長の摂関政治の時代です。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母は兼家の妾であり、清少納言は道隆の娘・皇后定子の、紫式部、赤染衛門、和泉式部などは道長の娘・中宮彰子のそれぞれ女房です。
これらの女房たちは、たいがいは地方官程度の、つまり宮廷貴族を上流とすれば、中流階級の娘たちだった。そして、美貌とか才気とか学問とか芸術的天分などによって、最上流の生活のなかに、成り上り者として入って行ったわけである。・・・多くの物語は、ただ女性のみた現実の描写だ、というだけでなく、環境的には、中流階級の女で、上流貴族の女を主人として、権力者の子弟の情人などになっていた女たちの眼に映じた、世の中の姿だということになる。そして、その「世の中」は、専ら、彼女たちの暮していた、後宮の生活である、ということにもなる。そこで、物語に登場する主人公たちは、作者より一階級高い人物たちであると同時に、男の主人公たちは、後宮に出入する時だけの男性の一面で捉えられているということにもなる。(p66)
受領階級の娘がその美貌と知性で上流貴族に食い込み、階級上昇を図るわけです。
藤原道綱母の夫・兼家は兄・兼通と政争を演じ、安和の変では正敵・源高明を葬り、外孫の親王を即位させるため花山天皇を唆して出家・退位させる(寛和の変)などの政争に明け暮れます。紫式部のパトロンである道長も、権力掌握のため兄道隆の嫡男・伊周を失脚させます(長徳の変)。女房たちの「王朝文学」には、男たちのそうした荒々しい部分は綺麗に削られ、後宮に出入する時だけの男性が、上流貴族の女を主人として、権力者の子弟の情人などになっていた女たちの眼に映じた世界だけが描かれたのです。だからと言って『蜻蛉日記』『枕草子』『源氏』が面白くないわけではありません。大河ドラマ『光る君へ』を見るガイドとしても面白いです。
タグ:読書
積ん読消化 [日記 (2024)]
ハルノ宵子 隆明だもの(2023晶文社) [日記 (2024)]
0.4%
隆明とはあの吉本隆明のことです。吉本は2012年に亡くなっており、1970年代に親しんだので(個人的には)全盛期は1960〜80年代の最早過去の人。《あの頃》には、三浦つとむ、村上一郎、島尾敏雄、江藤淳等の著名人がキラ星の如く登場し吉本家を訪れます。
「なんて贅沢な幼少時代なんだろう!」と、思われることだろう。私だってそう思う。しかし、そう思うのはイヤその前に(父も含めて)、ここに登場した人の名前を誰ひとりとして知らない方が、日本人の99.6%位なのだということを勘違いしてはならないと思う。(p34)
著者によると、この本を手に取るのは0.4%に属する日本人らしいですが、図書館では在庫1に予約が42入っていますから、それなりの人気です。人吉本の長女で吉本ばななの姉で漫画家・ハルノ宵子が語る吉本「隆明」です。
死期を悟った老猫
昔から猫は、死を予感すると姿を消すと言われている。・・・そろそろアブナイかな・・・というノラが、軒下の暖房入りの箱にうずくまっている。でもある日力を振りしぼって、1歩2歩と箱の外へ出てヘタり込んでいる。また暖かい箱の中に戻してやる。しかし翌日には、1歩進んだ所で力尽きて死んでいる。そうだった・・・出て行こうとするノラ猫を「情けない」なんて思ったことはない。死ぬために出て行くんじゃない。1歩でも2歩でも、自分の力で生きるために行くんだ。生ぬるい家も家族もいらない。最後には真の自由と孤独の時間を生きるために、すべての老人も出て行くのだと思う。(p24 )
87歳の死期を悟った吉本が、外出姿で杖を持って老猫の如く玄関で倒れていたというのは、0.4%の人間には痛ましい、と言うより「あの隆明が!」と言うショッキングな話です。著者は猫についての漫画やエッセーのある愛猫家だそうですが。また、
吉本家は、薄氷を踏むような"家族"だった。父が10年に1度位荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった(父を癒したのは猫だけだ)。(p131)
そう言えばトルストイは家出して片田舎の小さな駅で亡くなっています。
サヴァン症候群
父の場合は、ちょっと特殊だった。簡単に言ってしまえば、“中間"をすっ飛ばして「結論」が視える人だったのだ。本人は自覚していなかったにしろ、無意識下で明確に見えている「結論」に向けて論理を構築していくのだから”吉本理論”は強いに決まっている。けっこうズルイ。(p56)
よく書評で触れられる箇所です。サヴァン症候群(高機能自閉症)かどうかは別にして、無意識下で明確に見えている「結論」に向けて論理を構築していくというという部分はよく分かります。難解で鳴る『共同幻想論』も、吉本は60年安保の渦中で対立する相手、権力というか国家の実体は国民というか日本人の「共同の幻想」ではないかと感じた(結論付けた)わけでしょう。その幻想の正体を『遠野物語』『古事記』を使って論理付けたのが『共同幻想論』。吉本は詩人として出発し、感性で捉えた詩=結論に論理を肉付けして評論家となります。
ボケるんです!
《ボケるんです!》《非道な娘》は、著者が、糖尿病で眼が見えず歩行困難となりボケの来た吉本を介護する話です。本書のタイトル『隆明だもの』の「だもの」の後に省略された部分が本書の核心です。吉本隆明の読者のオジさんたちよ心してかかれ!、でしょうか。団塊の世代御用達のちょっと恐ろしい本です。
タグ:読書
先崎彰容 国家の尊厳(2021新潮社) [日記 (2024)]
始まりはコロナ禍による「緊急事態宣言」です。コロナ禍は2つの事実を明らかにしたと著者言います。1つは、戦後日本のアイデンティーである自由主義と民主主義(加えて成長主義、個人主義)が最早通用しなくなったことです。2つ目は、ロックダウンを実施した国、強権主義の国、例えば中国がコロナの抑え込みに成功したことです。日本は「緊急事態宣言」の移動制限や飲食業などの営業の自粛は違憲に当たると言う「意見」があり、緊急事態宣言は4月にずれ込み「要請」に留まりました。また東日本大震災で避難指示が出せず津波によって多くの犠牲者を出した小学校の例から、非常事態では意見の多様性を尊重するよりも権力による決断が重要だと言うのです。自由主義とは、意見の多様性の尊重にみえるが、実際は何ら決定することが出来ない状態に過ぎず、事態は待ってはくれないのです。
民主主義は、多様な意見を集約し、多数決によって一つの政治的決断に持っていく行動のことを指すのです。決断と民主主義が結びつく理由がここにあります。そして非常時において最終決断をくだせる者は一人である以上ここに「委任独裁」が肯定的に出てくるわけで(P69)
もっとも、その「委任独裁」の相手がヒトラーだったら、という問題はあります。ヒトラーの独裁を認めたカール・シュミットを持ち出し
問題は、コロナ禍という「例外状態」において、シュミットの「決断」の方が正しいのか、日本政府の自由主義的対応の方が正しいのか、判断が極めて難しいという事実です。 時間の遅速に着目すれば、欧米諸国がとったロックダウンは「速さ」を求め、日本政府は「遅さ」を選択したことになる。
そして「速さ」すなわち即効性の優等生が中国であり、西欧諸国は自らが築きあげてきた自由と多様性尊重の価値観を、今回、放棄したともいえるのです。近年の中国の政治的台頭は、従来の欧米型の価値観に、中国型の国家体制が挑戦してくることを意味します。(p70)
そして三島由紀夫の天皇論が登場します。戦後の民主主義に批判的な三島は、戦前の立憲君主制も戦後の民衆主義下の象徴天皇も、天皇が政治に従属していると否定的立場を取ります。三島は「文化概念としての天皇」を主張し、戦後日本に対する処方箋「文化防衛論」を主張します。制度疲労を起こした戦後日本のアイデンティー=自由と民主主義の処方箋になるのかどうかは?ですが、三島由紀夫が出てくる辺りに著者の「令和日本のデザイン」が伝統的な日本に向かっていることが窺われます。
一転、「美しい国」という理念と憲法改正、安全保障を前面に打ち出した安倍内閣、「自助・共助・公助」を掲げデジタル庁や地方創生を推める菅内閣の検証に入ります。ここまで来ると著者の保守主義は明らかで、安倍・菅内閣の評価は好意的です。安倍首相は、岸(安保)、池田(所得倍増)、田中(列島改造)首相同様、時代を俯瞰できる首相あるといいます、これは慧眼です。菅内閣の「自助・共助・公助」も東日本大震災を例に引き、
私たちは「まずはここ三日間を自らの力で生き抜かねばならない」状況を突きつけられている。経済だけでなく、災害や国際情勢全体で、非常時が常時になりつつある。
こうした社会状況は、私たちに発想の転換を促す。他者があたえてくれる秩序や、安定した社会構造を期待する時代が終わり、自らが公的秩序の作り手にならねばならない。受動的ではなく、主体的な行動を求められる時代になったのです。
ちょっと無理があるが…。
で、著者の処方箋は、令和の日本は「尊厳とコモン・センス」をキーワードにした国づくりを目指すべきだ、というものです。尊厳はアイデンティー=自らの拠って立つ基盤です。「コモンセンス」とは「常識」と訳されますが
社会に一定のメッセージを発信し、自らがその構成員の一翼を担っている感触、「世界に素手で触れている」感覚(p202)
つまり社会に参加しているとという感覚です。
つまり社会に参加しているとという感覚です。
私たちには、地域やその国の歴史を湛えた生活スタイル、 死者の葬送の仕方があり、日常生活のリズムとなっています。大事なのは、コモン・センスには時間の響きが感じられることであり、さまざまな試練を乗り越えた経験、祖先の叡智を血肉としたリズムがふくまれていることなのです。(p208)
「時間の響きが感じられる」とする辺りには、三島由紀夫の天皇制の匂いがあります。ナチズムの理論家カール・シュミットからその対極にあるハンナ・アーレントまで動員して、「令和日本のデザイン」の中核に祖先の叡智を血肉としたリズム=日本の伝統を据えるわけです。「ネズミ一匹」という結論です。
著者は「プライムニュース」の常連で、独特の切口で時事問題を解説しています、面白いです。
タグ:読書
ドラマ 沈黙の艦隊 東京湾大海戦 (2)(2023日) [日記 (2024)]
続きです。
頭脳戦
潜水艦映画の代表作『Uボート』『眼下の敵』を観ると、潜水艦はソナーを頼りに航行し敵艦と戦います。武器は魚雷。ソナーを頼りに状況を把握し、相手の行動を読み、頭の中で戦闘を組み立てる頭脳戦です。『沈黙の艦隊』を観ても、水中発射のミサイル(SLBM)は登場しますが、この状況はUボートの時代とあまり変わっていない様です(もっとも軍事機密ですから真相は不明ですが)。艦長の統率力も戦闘を左右し、艦長の能力が大きくものを言います。『沈黙の艦隊』では、艦長・海江田がその卓越した作戦能力と統率力で第七艦隊を翻弄します。
圧壊と酸素
潜水艦が潜れる深さはせいぜい500m(Uボートは200m)で、それを超えると水圧で押しつぶされ(圧壊)てしてしまいます。限界を超えると船体が悲鳴をあげ、パイプから海水が吹き出しボルトが飛びます。圧壊の恐怖、これも潜水艦映画の面白さです。『沈黙の艦隊』では、ロープでヤマトを捕獲した第七艦隊の原潜を、1000m近い深海に引きづり込みこれを圧壊させます。
もう一つが酸素。Uボートが水中滞在時間は2日程ですが、原潜は艦内で酸素を発生させるため数ヶ月?が可能だそうです。ヤマトを護衛する自衛隊のディーゼル潜水艦「たつなみ」が第七艦隊の攻撃を受け航行不能となって東京湾の海底に沈みます。ヘドロに埋まって浮上出来なくなり、刻一刻と酸欠死が近付く恐怖が描かれます。とこの辺りが潜水艦映画の面白さです。
ヤマトは日本政府と同盟を結ぶために東京湾に入り、浮ドッグ・サザンクロスに入梁して補給を受けます。第七艦隊は浦賀水道で東京湾を封鎖し、補給を受けるヤマトに魚雷を撃ち込みサザンクロスは沈没。ヤマトはサザンクロスが海底に着く一瞬のスキを突いて脱出します。と書くと何でも無い脱出ですが、並みいる空母、潜水艦の目をくらましての脱出は手に汗を握ります。
圧壊も酸欠も潜水艦映画の「定番中の定番」と分かっていてもハラハラ、ドキドキでドラマを盛り上げ、潜水艦映画の醍醐味がモレなく詰まっています。
ヤマトは核を積んでいる?
ヤマトは核を積んでいる?
『沈黙の艦隊』の面白さはやはり核です。日本には非核三原則があり、核を搭載したヤマトはが東京湾に入ることは出来ません。海江田は核は搭載していないと言って東京湾に入ります。米軍の原潜も核不搭載と言い、日本はその言葉を信じて臨検せず佐世保入港を許しています。核を搭載していないなど誰も信じていないにもかかわらずです。
ヤマトは核を積んでいるのかいないのか?、これがストーリーに大きく関わって来ます。女性のニュースキャスターが登場しこの問題を非公式に海江田に問います。海江田の答えはyes、核搭載を明言します。政府は、ニュースキャスターにこの海江田の答えを放送させ、日本の核武装が公になりますが真相は藪の中。ヤマトが核を搭載しているかも知れないという疑念=恐怖が抑止力となって第七艦隊は東京湾から去り、一触触発の「東京湾大海戦」の危機は回避されます。ロシアのウクライナ侵攻でも、核が抑止力となってアメリカの武器供与は進んでいません。核は恐怖という目に見えない威力で戦局を左右するわけです。
『沈黙の艦隊』は骨太の国際政治ドラマ、潜水艦の戦争映画として楽しめます。CG多用ですが、艦内のセットなど「さもありなん」と結構リアルです。なにしろ「特別協力、防衛省・海上自衛隊」ですからw。シーズン1ですから、シーズン2もあるんでしょうね。
監督:吉野耕平
原作:かわぐちかいじ
出演:大沢たかお、玉木宏、上戸彩、笹野高史、江口洋介
監督:吉野耕平
原作:かわぐちかいじ
出演:大沢たかお、玉木宏、上戸彩、笹野高史、江口洋介
タグ:映画
iPhone の マクロ撮影 [日記 (2024)]
ヒメリュウキンカ
iPhoneの拡大鏡でマクロ撮影が出来るんですね、知らなかった。iPhoneXRなので光学式手ブレ防止が無いため、倍率を上げると手ブレしますが、これは便利。画像をソフト処理しているので画質は落ちます。マクロ画像の保存は出来ないためスクリーンショットで保存となります。
タグ:iPhone
映画 山の郵便配達(1999中) [日記 (2024)]
1980年代の中国湖南省、山間の村々に郵便を配達する郵便配達夫二代の物語です。父親は膝を痛め配達夫を引退し、息子が後を継ぎます。配達は峠を超え川を渡り、徒歩で2泊3日120km。息子が初めて配達に出る日父親が同行し、配達する父親と長年同行した犬の「次男坊」が先導します。原題にある那狗 = あの犬です。
配達する村々で父親と村人の交流が描かれます。父親はそうしたなかで母親と知り合い、若き日の二人がフラッシュバックされます。父親と息子は、トン族の結婚式の祝宴に招かれ、息子は民族衣装をまとった娘たちの踊りの輪に加わります。父親の様に出逢いがあるのかどうか。
またある村では、父親は、孫からの手紙をお婆さんに直接手渡すように教えます。お婆さんは目が見えないため、毎回父親が手紙を読んで聞かせるのですが、その手紙は架空の手紙。父親は郵便配達が人と人繋ぐ仕事であることを息子に教えます。
事件も起こらず、ドラマらしいドラマもありません。郵便配達という地味な仕事が父親から息子に受け継がれる3日間の旅が淡々と描かれるだけです。埋もれてしまった風景や記憶が甦るような映画です。成長した息子が「あの山、あの人、あの犬あの犬」を懐かしく思い出す映画だとすれば、現在のむすこの両肩には中国の現代がズッシリと載っていそうです。オススメ。
監督;霍建起
出演;滕汝駿、劉燁
タグ:映画
スピルバーグの ウェストサイド・ストーリー(2021米) [日記 (2024)]
スピルバーグのリメイクですからどんなヒネリがあるのかと思ったのですが、1961年の『ウェストサイド物語』そのままで音楽もレナード・バーンスタイン。マリアとトニーが「マリア」「トゥナイト」を歌い、「アメリカ」に合わせてダンスが踊られます。懐かしいと言えば懐かしいですが、何処がスピルバーグ?というリメイクです。
『ウェストサイド物語』は現代のNYを舞台にした『ロメオとジュリエット』です。むかし観た時には歌と踊りに目を奪われて気が付かなかったのですが、この映画の主人公であるトニー(ロメオ)はポーランド系白人、マリア(ジュリエット)はプエルトリコ移民です。WASPがアメリカの保守本流であるとすれば、二人はマイノリティー。登場人物も殆どポーランド系とプエルトリコ移民で、言葉も英語とスペイン語。1961年にマイノリティを主人公にしたミュージカルが作られヒットしたわけです。
スピルバーグは何故半世紀後の2021年に『ウェストサイド物語』をリメイクしたのか?、しかも新たな解釈もなく原作に忠実に。型通りポーランド系とプエルトリコ移民の抗争の中でマリアとトニーのラブストーリーが進行しトニーは死にます。
挿入歌「アメリカ」、男女のプエルトリコ移民が道路で踊る有名なシーンです。
ここが好きアメリカ 不満はないアメリカ 自由の国アメリカ(女性)
カードで買物 → 移民をボッタクリ
一家に1台洗濯機 → 洗う服もないのに?
新築の広い家 → 移民にはドアを閉ざす
いい暮らし アメリカ → 白人だけさ アメリカ
公害だらけアメリカ 犯罪組織アメリカ ひどい所さアメリカ(男性)
女性たちはアメリカは自由で豊かだと礼賛し、男性たちは、それは白人の話だアメリカは人種差別と貧富の差が激しいと男性たちは歌います。
ポーランド系「ジェッツ」が勾留された警察で歌う「Gee,Officer Krupkee(クラプキ巡査どの)」では、
俺等育ちが悪いんです
お袋はクスリ漬け 親父は酒浸り これじゃ当然クレちまう
クラプキ巡査 あんまりだ
親の愛情知らずにきたけど ワルじゃない 誤解です
50年経っても同じじゃないか、と言いたいわけです。だからスピルバーグは『ウェストサイド・ストーリー』を1961年のオリジナルを改変しなかったのかも知れません。
2024年11月にアメリカ大統領選挙が行われます。民主党支持のスピルバーグは、マイノリティ擁護、銃規制などが込められたこの映画をドナルド・トランプのポピュリズムにぶつけたのでしょう。
決闘に向かうジェッツとシャークスのバックで流れるのは、皮肉にも愛の歌「トゥナイト」です。
トゥナイト 今夜 夜よ明けないで どうか明星も輝かないで
トゥナイト 今夜愛する人に逢う 二人のために 星々よ 消えないで
監督:スティーヴン・スピルバーグ
音楽:レナード・バーンスタイン
出演:アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグラー
【追記】
よく言われる様に、トランプが出てきた背景はに白人中間層の没落があると言います。この映画が作られた1960年代は自動車産業など製造業ががアメリカの基幹産業で、製造業に勤める白人が「いい暮らし アメリカ」を謳歌しています。その後製造業は中南米に工場を移し中南米からの移民が激増し、製造業に勤める白人=白人中間層は没落してゆきます(ラストベルト地帯の白人中間層の没落)。この映画のマイノリティが台頭するわけです。
スピルバーグがこの映画を大統領選挙にぶつけたとするなら、それは両刃の剣ではないかと?。親世代ように繁栄を謳歌出来ないベビーブーマーは、コイツラこそ元凶だとトランプ支持に回るんではなあいか、と思ったりします。
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ドラマ 沈黙の艦隊 東京湾大海戦 (1)(2023日) [日記 (2024)]
1988年〜1996年に雑誌連載されたコミックの実写です。アニメ化されて、そっちも観たのですが、2023年映画版のextended editionで全8話のドラマです。AmazonPrimeで配信されたのでみてみました。
『沈黙の艦隊』の面白さは、1)安全保証に関わる日米関係 と 2)潜水艦による戦闘 の2つです。
安全保障
アメリカのノウハウと日本の資本で、日本最初の原子力潜水艦が秘密裡に建造され、日本人艦長、乗員の「シーバット」としてアメリカ第七艦隊に組み込まれます。原潜は一度潜ると浮上することなく長期間の作戦行動が可能であり、通常核武装して敵国の脅威となります。その原潜を日米同盟の間に放り込んだ、→このドラマのミソです。
その「シーバット」が第七艦隊を脱走し、艦長・海江田四郎は「ヤマト」を名乗って「独立国」を宣言します。国民76人、国土は潜水艦という国家です。核武装し(しているかも知れない)日本人が乗り組む原潜が日本と友好条約を結び、日米の安全保障に割って入ったことになります。
アメリカは第七艦隊を脱走したヤマトの捕獲を目指しテロリストとして撃沈の挙に出ます。アメリカは同盟国として日本に歩調を合わせることを要請しますが、日本政府は日本人が乗り組むヤマトの支援を決定します。日米安保条約を逸脱し独自の安全保障を模索、それは自分の国は自分で護るという選択でもあるわけです。ヤマトを支援のめに自衛隊が出動します(海上警備行動?)。日本の国是は専守防衛ですから、相手が攻撃して初めて迎撃出来るわけです。護衛隊群司令の沼田徳治は言います、「攻撃された時点で戦いに負けている」。第七艦隊は出動した自衛艦にミサイルを撃ち込み日米同盟は崩れます。日米首脳会談が開かれるも、力による平和を掲げるアメリカと話合いによる解決を目指す日本は噛み合いません。第七艦隊がヤマトにミサイルを撃ち込みヤマトは反撃して空母を撃沈、日米開戦の様相を呈します。
日本政府と「国家元首」海江田との会談が持たれヤマト独立の真相が明かされます。海江田は世界規模の超国家軍隊を創設し、その軍事力によって国家間の紛争を解決しようと言うのです。日本がヤマトと友好条約を結ぶということは、日本が戦争の無い世界を希求している証しとなる、というわけです。ヤマトと日本は友好条約を結びます。日本は核を搭載する(かも知れない)ヤマトによって軍事的独立を期待し、ヤマトは魚雷他の物質の補給を受けるわけです。
ヤマトを自衛隊の指揮下に置き、自衛隊の指揮を国連に委ねるという離れ業を演じます。
ロシアのウクライナ侵攻、尖閣諸島、安保三文書の改定などありますから、時期を得たドラマです。→続きはコチラ
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