積読 中村真一郎 王朝文学論 (4) (1971新潮社) [日記 (2024)]
『源氏』以後
『源氏物語』はその後の日本文学の伝統を決定した。 まず、次の世代の文学者たちは、一斉にこの作品に刺激されて、物語の制作に熱中した。『狭衣物語』『夜半の寝覚』『とりかへばや物語』などは、それらの源氏亜流物語のなかの代表的なものである。(p259)
『源氏』は物語という文学形式を確立しただけではありません。その美意識は『新古今集』などの短歌、室町期の能楽、江戸時代の俳諧、西鶴から種彦に至る江戸の小説家たちにも影響を及ぼしていると言います。
自国語の散文の創始者たちが、ほとんど専ら女性たち、しかも一群の宮廷女性たちであるというのは、考えてみれば、随分奇妙なことで、他のどこの国の文学史にも、ちょっと類例がないではないかと思う。そのうえ、散文形式の創始者であった彼女らは、短い期間のあいだに、第一流の芸術品を作りあげることに成功したから、彼女らがその新しい散文に盛った内容ーー彼女らの感受性や彼女らの心理学や彼女らの抒情が、その後の日本文学の基礎となり、伝統となった。そこでわが国の文学は、一体に、非常に女性的だという結果になった。
十一世紀には、単にある社会階級の、ある職業の婦人たちの考え方、感じ方にすぎなかったものが、その後の十世紀のあいだに、代々の文学者たちに強い影響を与えつづけているうちに、今日では、ついに、日本人一般の考え方、感じ方そのものとなっている。少なくとも、その中心のひとつとなっている。(p166)
「日本人一般の考え方、感じ方そのものとなっている」かどうかは別にして、我々が抱く平安朝のイメージは、教科書で習う『源氏』『枕草子』『新古今集』などに記された華やかで繊細、優艶というか「もののあはれ」のイメージです。
それはあくまで、宮廷女性の眼に映じた、後宮的ヴェールを通した現実であって、彼女たちの作品に、女性たちの相手として登場する男性たち、政治の実権を握っていた貴族の男たちの生活が『源氏物語』そのままであったということにはならない。
これは貴族の後宮の女房たちの美意識であって男性の美意識ではないわけです。兼家は兄弟と政争を演じ、外孫を即位させるため陰謀をめぐらし(寛和の変)、道長も権力掌握のため兄道隆の嫡男・伊周を失脚させる骨肉の争い(長徳の変)を演じる男たちです。彼らも恋(色事)となると、女性の美意識に合わせて仮名文字で恋情の機微を歌に詠み女性に送るわけです。平安朝の男性がどんな文体で散文を書いていたかというと
「七日。甲寅。未時白雨。雷音大也。豊楽院外。幷西昭俊堂神落。有神火灰也。此後大雨。戌時天晴月明。亥時宮入給。依御物忌。御所上給。男女可然人々。被加一階」(道長『御堂関白記』)
敬語的表現は中国語には無縁で、結局、日本語を、漢文の文法を主として、送り仮名を廃して、漢字だけ並べて書き綴ったもので、そして、これが当時の男性の文章の普通の形だった わけである。これを書き下して、テニヲハを補って読めば、それが当時の文語体だということになるだろう。(p314)
これでは、仮名で自由に散文を綴る女性には勝てません。後宮の女性たちが日本の散文の創始者であり、彼女たちの美意識がその後の日本文化に色濃く影響を及ぼした、という話は説得力があります。この項お終い。
タグ:読書
2024-03-30 07:29
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