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高村薫 土の記 (上)(2016新潮社) [日記 (2024)]

土の記(上)
 奈良県・宇陀、三百年続く山間の旧家で、妻を亡くして一人で暮らす72歳の男の物語です。 東京生まれの伊佐夫は、関西の家電メーカーに就職し昭代と見合い結婚して上谷家に婿養子に入ります。上谷家は代々男子が生まれず婿養子を取って来た家系で、婿を取る女性はいずれも美形で奔放。

上谷の家はヤヱの母の母、すなわち昭代の高祖母の代から男子を産めない女腹が続き、当のヤエもよそから婿養子を取ったが、結局女の子しか生まれず、そ れが理由だとも思えないが、外に男をつくったというのだった。

⁠ 冒頭の、昭代の昭代の祖母が、逢引きのため宇陀の山路を急ぐ描写を考えれば、何処かミステリーの臭いがします、何しろ高村薫ですから。

 昭代は、雨の日に原付バイクでダンプカーと衝突します。運転手の山崎はバイクがダンプの前に突然現れたと証言し、事故現場にブレーキ痕はありませんが、酒を飲んでいたため飲酒運転による事故となります。後に明かされますが、昭代は手提げも財布も持たず、夕立の中トラックと衝突したようです。この事故で昭代は植物人間となり16年後に亡くなり、山崎も癌で亡くなり、昭代と山崎の「おかしな事故」の記憶が集落の人々に甦ります。

 上谷の家に何かがあったという証拠も、そんなふうに感じた理由も、ほんとうは何一ないと言わなければ正確ではない。実際には、集落に立ち込めている澱みがあり、深い退屈ら生まれる憶測や勘繰りに、好奇心とわずかな嫉妬を練り込んだこの土地の暮らしの薄昏さとものがあるだけであり、事故そのものも、加害者と被害者各々の事情もみな、その一部だ言うべきなのだ。

 伊佐夫は、家電メーカーを退職後、妻の介護の傍ら「理科の実験」と揶揄される稲作と茶の栽培を始めます。棚田の生態系の描写とともに、疎植、分蘖(ぶんけつ)、出穂、二次枝梗原基など専門用語が頻出し、伊佐夫が稲作畑作に心を砕く様子や農作業が詳述されます。『土の記』のタイトル通りですが、「土」とは伊佐夫と地縁で結ばれた伊佐夫の住む《漆河原集落》との関係性でもあります。

緑の葉むら越しに空に向かってぶらぶら楽しげに揺れているおまえの足を見たのは、いつだったか。逞しく日焼けして、つやつや滑らかに光りながら・・・真っ昼間から亭主を誘っていた足に、こちらもあやう
く欲情しかけて往生したのは。

 土の記憶は死んだ昭代を呼び覚まします。

重しの取れた頭には元気だったころの昭代の声が響く。(稲の)幼穂の出た朝、走り穂の出た朝、開花の朝。 出たよ! 出たよ!見て! 花が咲いたよ! そのつど嬉しげに畦から手を振り、高台の家にいる伊佐夫に吉報を知らせる歓喜の声 。

 昭代の記憶をまとった娘陽子、孫の彩子、昭代の妹久代を通して、昭代は生きているが如く伊佐夫の日常に立ち現れます。艶やかな昭代の記憶だけではなく、昭代の無断外泊と「冷戦以上、修羅場未満、もしくは空中分解寸前の日々」の記憶も甦ります。

 昭代の不倫相手が昭代の妹・久代から明かされ、集落で噂になりながら座視した伊佐夫は、

上谷の一統になり切れず、土地やそこに棲む祖霊たちとも一つになり切れなかった婿養子が、妻の醜聞と引き換えに己が心身の自由をいくらか得て生き返り、また次の対決に備えて昏い敵愾心を燃やすのだ。そして、伊佐夫は結局そうして心身ともに昭代から離れられない自分を冷やかに眺めた末に、所詮昭代と釣り合わない己が凡庸を認め、何度目かの白旗を揚げることになる。

 地縁に縛られた漆河原集落、壊れかけた家族、伊佐夫の農作業の日々を背景に(殺人事件の代わりに)不倫の果に亡くなった妻と残された男の物語が進行します。(下巻へ)

タグ:読書
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