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高村薫 土の記 (下)(2016新潮社) [日記 (2024)]

土の記(下)
その夜も、ふと昭代が煮つけたヘラブナの甘露煮の味が舌に甦ってきた瞬間、台所に昭代が立っているような気がして、思わず振り返っていたものだった。幻に見たのは、ヘラブナを並べた大きなアルミ鍋に一升瓶の醬油を注ぐ昭代の、なんとも楽しげななエプロンの背中だ。

甘露煮は寒鮒が一番という昭代に背中を押されて始めたヘラブナ釣り、昭代の死後も伊佐夫はヘラブナを釣り甘露煮を作ります。なぜ妻昭代は不倫走ったのか、自殺したのかという思いが伊佐夫の日常に影を落とし、昭代が現れます。

 郵便局の外交員が訪れ、学資保険が満期になっていることを告げられます。カレンダーには満期日に丸印が付けてあり、

彩子・学資保険満期という書き込が自分の字だということは分かったが、その先はやはり曇りガラスだった。・・・鍬をふるう伊佐夫の口から吐きだされる息はときどき声になり、それはこう聞こえた。たいへんだ、たいへんだ、 ボケが来た、ボケが来た。 伊佐夫は鍬の先でカサコソ、 カサコソ崩される土の上に独り言を吐き続け、用水路の生きものたちがそれを聞く。たいへんだ、たいへんだ、ボケが来た――。

 独居老人の伊佐夫は、日々、稲や茶葉の成長に心を砕き、昭代の幻影を見、飼い犬やザリガニ、田んぼに迷い込んだナマズに花子と名前を付け会話する生活。そんな伊佐夫に認知症が現れたのです。茶葉を蒸す伊佐夫にまたも幻視が現れます。

早く茶葉を入れて! かき混ぜて! 三十五秒よ! 快活な声を響かせる昭代の、割烹着とスカートが伊佐夫の眼前を行き来する。不思議なことに、まだ四十前後の若い昭代だ。その張りのある裸のふくらはぎに一寸眼を奪われ、スカートの坐り皺の下の尻のかたちに見入りながら、伊佐夫はいまもまた、ふいに鈍い孤独感に胸を締めつけられ、君はなぜ男をつくっ たのだという繰り言が口をついて出る。

昭代も、その母も祖母も曾祖母もみな婿養子を迎え、娘しか産めない鬱屈が彼女たちを男へと走らせたのだと伊佐夫は考えるわけです。

男子を産める精子を求めて女性たちが出奔するのは、生物としての正しい自然というものではないか。子孫を残すためなら、無謀な三段重ねも辞さない(交尾する)カエルたちのように。

伊佐夫は、この鬱屈は婿養子の自分達にも確実に伝播していたと思い、彼等のある者は宗教に逃げ、ある者は会社勤めに逃げるしかなかったのだと考えます。昭代が死んで、伊佐夫は稲作と畑仕事に逃げ込んでいるのでしょう。これが『土の記』の「土」なのでしょうか。

 更に認知症が進みます。

とまれ、いま電話をかけてきたのが娘の陽子だという感覚がないことに密かに困惑し、陽子でなければ誰なのだと自問してみるが、それはさらに分からない。娘の顔や声を思い出せないというのとは違う、遠ざかってゆく物体のかたちが次第に判別できなくなるのに似た、これはある種の不在の感覚なのだろうか。それとも見当識の乱調だろうかと自分で自分を誘ってみるが、それも結局、田んぼの水から顔をだしているアメリカザリガニと眼が合ったとたん、忘れてしまう程度の物思いではあった。

俗事は忘れるが日々の農作業と過去だけは忘れません。歳をとるということはこいう事なのでしょう。ここまで延々と高村薫が描いてきたのはこの 老い です、でどう結末をつけたのか?。

(2011年8月30日)総雨量が千八百ミリに達した三日から四日朝にかけて、県内の山間部各地で地形が変わってしまうほどの大規模な深層崩壊とそれに伴う土石流が多数発生し、集落や道路や橋が 押し流されて、県内の死者・行方不明者は二十六名を数えた。そこには、大宇陀漆河原の二名も含まれる。

 高村薫には、限界集落で暮らす老人を描いたユーモア小説『四人組がいた。』があり、『土の記』はちょうどその裏番?に当たる小説です。

【メモ 当blogの高村薫】

タグ:読書
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