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ジョン・ル・カレ ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ [日記(2014)]

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)
 映画『裏切りのサーカス』を見て、実はよく分からなかったのですが、そこに展開されるスパイたちに人間味に惹かれたので、原作を読んでみました。私が読んだのは、菊池光訳の2006年発行版です。一言で言えば、重厚にして迷路、且つ隘路(笑。「意識の流れ」(ジェイムズ・ジョイス)の英国の伝統か、主人公の意識がやたらと過去へ飛び、ストーリーの「今」を忘れてしまいそうになります。

 映画は、原作の雰囲気はよく伝えているのですが、シーンシーンの奥にある物語まで読むことは出来ません。例えば、ジム・プリドーとビル・ヘイドンの関係です。映画のラスト近くで、ふたりがパーティーで意味ありげに微笑を交わしたシーンの後、プリドーはヘイドンをライフルで撃ち殺します。この「微笑」が実はふたりがオックスフォード以来の「恋人」同士であることを言いたいのですが、これは分かりません。では何故殺したのか?、これも原作を読んでやっと理解出来ました。

 この小説は、英国情報部に潜り込んだ二重スパイ「もぐら」を炙り出すスパイ小説です。その謎で読者を引っぱって行きますが、背景となっているのは、英国情報部(MI6)内部の権力闘争であり、東西冷戦の駒として使い捨てにされる人間の話であり、妻との不和に悩むスパイの物語です。ジェームズ・ボンドのようなスーパースターがひとりも出てこない小説で、そこが小説の魅力となっています。スパイも国家公務員ですから、役所組織の壁があり、予算があり、上司がおり、同僚同士の足の引っ張り合いがあり、家に帰れば妻子がいるという普通の市民です。そうした当たり前の生活の上に、盗聴や殺人や国家間の謀略が乗っかっている不条理?がスパイという職業です。
 
 主人公スマイリーによる、ソ連のスパイ・カーラの尋問にその辺りが一番良く出ています。スマイリーは、このまま帰れば銃殺かシベリヤ送りのソ連のスパイ・カーラを、西側に亡命するよう説得します。スマイリーは、説得するうち諜報員である自らの立場を忘れ、カーラに自己投影してしまいす。妻アンとの不和に悩むスマイリーは、

ところがわたしは、気がついたらアンのことを持ち出していた

妻アンではなくカーラの妻を持ち出し、妻ともどもの亡命を説得材料に使ったのです。それ自体は珍しい話ではないのでしょうが、スマイリー自らが、アンのことを持ち出していたと言うからには、私生活がスパイとしての彼の職業を侵したことになります。
 
わたし(スマイリー)が今いっていることは、ピーター、あの夜、冷戦から抜け出ようとしていたのは、ゲルストマン(カーラ)ではなくスマイリーだった、ということことなのだ

もうそろそろ、わたしの側同様に、きみの側にも、大切にしなければならないものがほとんどないことを、認めるべき時がきたと思わないか?・・・
主義の普遍性は無意味だと思わないか? いま彼にとって価値があるのは、自分独自の人生であると思わないか? 政治家の雄大な計画とというのは、かつての悲惨さを新たな生み出すにすぎない、と思わないか?

 カーラ説得に名を借りた冷戦から抜け出ようとするスマイリー自身の独白です。スパイとしての矜持が破綻するこのスマイリーの回想は、それまで冷静沈着なスパイとして描かれて来ただけに深刻です。冷戦の壁の向こうとこちら側で苦悩する人間を描き、体制の如何にかかわらず人間の等価性を描いています。もっとも、カーラは一言も発すること無くモスクワへ帰ります。ヘビースモーカーのカーラは、スマイリーが与えたキャメルの封も切らず、(煙草に火を付けるために)同時に渡したアンからスマイリーに贈られたライターを持って向こう側に帰ります。このライターは、カーラによるスマイリー理解の象徴として、幾度か小説(映画にも)登場します。

 ジム・プリドーはウィッチクラフト作戦の失敗の後、イギリスに戻って小学校教師となります。映画では、プリドーと小学生ビル・ローチの関係も、唐突感があってよく分からなかったですが、原作を読むと理解できます。両親を離婚で失った転校生ビルの孤独と、親友・恋人のビル・ヘイドン(ファーストネームが同じ)に裏切られた臨時雇いの仏語教師プリドーの孤独が触れ合うエピソードだったわけです。
 このプリドーとビル・ローチのエピソードがそうですが、『裏切りのサーカス』は、イギリス人なら当然原作を読んでいるだろうという前提に作られているような気がします。

 ビル・ヘイドンのモデルとされるキム・フィルビーは、ケンブリッジからMI6の部長まで上り詰めた二重スパイです。よく似たスパイ(と呼ぶには抵抗がありますが)に、ゾルゲ事件に連座した尾崎秀実がいます。尾崎も、東大、朝日新聞記者を経て近衛文麿の側近として近衛内閣の政策にも参与するという立場となり、国家機密をゾルゲに流しています。国家の中枢にあって共産主義を信じ国家を裏切るという本書の枠組みは、決して非現実的なものではないわけです。
 ジョージ・スマイリーを主人公に小説を書けば『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』となり、リヒァルト・ゾルゲを主人公にすれば『ゾルゲ 破滅のフーガ』となります。帝国主義と共産主義、自由主義と社会主義であれ、大切にしなければならないものがほとんどない、ジョン・ル・カのこのミステリは、そうした複眼で描かれたスパイ達の織りなす人間ドラマです。

タグ:読書
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