- 日記(2008)
映画はウィリアムの弟子アドソの回想と云う形で始まりますが、誰でもホームズとワトソンを想像します。おまけに『バスガヴィル(の犬)』ですからホームズそのものです。ウィリアムが六分儀の様なものを使ったり老眼鏡を取り出したり、修道士としては、なかなか進歩的
ウィリアム(とその弟子アドソ)が、フランシスコ会と教皇庁の宗論のためにイタリアのベネディクト会修道院を訪れるところから幕が開きます。冒頭で鳴る鐘の音はなかなか効果的で、この映画の要所要所で鳴ります。
修道院では若い修道士が塔から転落死し、悪魔の存在が囁かれているなか黙示録を擬した殺人事件が次々と起こります。ウィリアムは院長よりこの解決を依頼され、調べるうちに修道院の秘密に行き当たるわけです、鐘の音(^^;;;。
◆『笑い』について
修道院の図書館で、ウィリアムと盲目のホルヘとの会話が複線です。
ホルヘ 『笑いは悪魔の風だ。人間の顔をゆがめて猿の顔の変えてしまう』
ウィリアム『猿は笑わない。笑うのは人間だけです』
ホルヘ 『キリストは笑わない』
ウィリアム『アリストテレスは“詩学”の第2部で、喜劇は真実の道具だと』
これも火事の図書館でのホルヘの台詞です。
ウィリアム『何故それほど笑いを警戒する?』
ホルヘ 『笑いが恐れを殺せば、もはや信仰は成立しなくなる。民衆が悪魔を恐れなければ、神は必要ない』
『笑いは民衆の中に生き続ける。だがこの本(詩学第2部)が世間に知れたら、何でも笑い飛ばせると公式に認めることになる。神を笑うことが許されれば、世界はカオスに戻ってしまう。だから私が封印するのだ。語られてはならぬ、私が墓場にもってゆく。』
ホルヘは『詩学第2部』を墓場に持ってゆくのです。
教会という『権威・権力』が如何に『笑い』を恐れるか、人間の根源を如何に恐れるか、また権威は人間の本性を抑圧することで成り立っているいることが分かります。『喜劇は真実の道具』だから教会にとっては危険なものなのです。
◆『異端と正統』について
正統と信ずる組織にとって他は総て異端であり、異端も自己を正統化することによって他派を異端とします。『異端と正統』は常に相対的なものですね。正統が権力を握って異端を追い詰めるひとつが『魔女狩り』です。異端が追い詰められて正統に挑む戦いもまた悲惨なものです。
映画では、教皇庁にとってはフランシスコ会の清貧思想も異端視され、清貧思想を極限まで推し進め富める教皇庁を異端としたドルチーノ派を異端として、異端審問官はこの派に属したレミージョとサルヴァトーレを一連の殺人事件の犯人とします。ここでは、黒猫や雄鶏、拷問器具の登場等により、中世ローマカトリックの異端審問=『魔女狩り』の姿が描かれています。何が正統で何が異端であるかを問いかけています。
異端審問でのレミージョとベルナール・ギーの会話もこれを表しています。
レミージョ『(ドルチーノ派であることを)誇りに思う。この修道院に住んで12年、たらふく飯を食った。女と交わり、貧農から10分の1税を搾り取った。だがあんた(ベルナール・ギー)のおかげで、昔は全身全霊で宗教を信じていたことを思い出したよ。』
ギー 『教会の財産を略奪し焼き払うのがおまえの信仰か?』
レミージョ『そうだ、おまえたちの奪ったものを民衆に返しただけだ。』
ギー 『司教や司祭を殺したか?』
レミージョ『殺したさ、チャンスがあればお前らも皆殺しにしてやるぞ。』
異端審問官ベルナール・ギーが拷問器具に刺し貫かれて死ぬことも暗示的です。
◆『転向』について
異端審問官ベルナール・ギーによる、サルヴァトーレ、レミージョ、少女3人の異端審問の場面です。ウィリアムは、昔『異端審問官』であった頃に異端審問に於いて『無罪』を主張しベルナール・ギーと対立しています。この時、ウィリアムの主張は容れられず彼自身も教皇庁から『異端』と見なされ、後『有罪』と節を曲げた『転向』の過去を引きずっています。
ベルナール・ギーは一連の殺人の犯人をこの3人の異端者とした裁定を下します。今回、ギーによって補佐判事に指名されたウィリアムがどう裁定を下すかです。少女が無罪であること知っているアソドの眼もあり、過去を引きずったウィリアムは3人が犯人でないことを明言します。ギーは前回同様ウィリアムを『異端』として引っ立てようとします。ドラマとしては見せ場ですね。
◆見どころ
ベネディクト会修道院の修道士たち相貌はすごいです。殆ど台詞のない修道士たちは見方によってはサルヴァトーレより異相で、この修道院というか中世ローマカトリックの抱える闇の部分を象徴している様です。サルヴァトーレを演じるロン・パールマンの存在感も凄いですね、ショーン・コネリーやマーリー・エイブラハムを相手に堂々と渡り合っています。
何より、ヨーロッパ中世の雰囲気が好きで何度でも観てしまいます。映画としては賞も取っていませんし地味ですが、不安をかき立てる『鐘の音』ととも気に入りの一本です。
1986年(仏伊西独)
監督:ジャン・ジャック・アノー
音楽:ジェームズ・ホーナー
出演
ウィリアム:ショーン・コネリー
アドソ(ウィリアムの弟子) :クリスチャン・スレーター
サルヴァトーレ:ロン・パールマン
ベルナール・ギー(異端審問官):F・マーリー・エイブラハム
アッボーネ(修道院長):ミシェル・ロンスダール
少女:ヴァレンティナ・ヴァルガス
ウィリアム(とその弟子アドソ)が、フランシスコ会と教皇庁の宗論のためにイタリアのベネディクト会修道院を訪れるところから幕が開きます。冒頭で鳴る鐘の音はなかなか効果的で、この映画の要所要所で鳴ります。
修道院では若い修道士が塔から転落死し、悪魔の存在が囁かれているなか黙示録を擬した殺人事件が次々と起こります。ウィリアムは院長よりこの解決を依頼され、調べるうちに修道院の秘密に行き当たるわけです、鐘の音(^^;;;。
◆『笑い』について
修道院の図書館で、ウィリアムと盲目のホルヘとの会話が複線です。
ホルヘ 『笑いは悪魔の風だ。人間の顔をゆがめて猿の顔の変えてしまう』
ウィリアム『猿は笑わない。笑うのは人間だけです』
ホルヘ 『キリストは笑わない』
ウィリアム『アリストテレスは“詩学”の第2部で、喜劇は真実の道具だと』
これも火事の図書館でのホルヘの台詞です。
ウィリアム『何故それほど笑いを警戒する?』
ホルヘ 『笑いが恐れを殺せば、もはや信仰は成立しなくなる。民衆が悪魔を恐れなければ、神は必要ない』
『笑いは民衆の中に生き続ける。だがこの本(詩学第2部)が世間に知れたら、何でも笑い飛ばせると公式に認めることになる。神を笑うことが許されれば、世界はカオスに戻ってしまう。だから私が封印するのだ。語られてはならぬ、私が墓場にもってゆく。』
ホルヘは『詩学第2部』を墓場に持ってゆくのです。
教会という『権威・権力』が如何に『笑い』を恐れるか、人間の根源を如何に恐れるか、また権威は人間の本性を抑圧することで成り立っているいることが分かります。『喜劇は真実の道具』だから教会にとっては危険なものなのです。
◆『異端と正統』について
正統と信ずる組織にとって他は総て異端であり、異端も自己を正統化することによって他派を異端とします。『異端と正統』は常に相対的なものですね。正統が権力を握って異端を追い詰めるひとつが『魔女狩り』です。異端が追い詰められて正統に挑む戦いもまた悲惨なものです。
映画では、教皇庁にとってはフランシスコ会の清貧思想も異端視され、清貧思想を極限まで推し進め富める教皇庁を異端としたドルチーノ派を異端として、異端審問官はこの派に属したレミージョとサルヴァトーレを一連の殺人事件の犯人とします。ここでは、黒猫や雄鶏、拷問器具の登場等により、中世ローマカトリックの異端審問=『魔女狩り』の姿が描かれています。何が正統で何が異端であるかを問いかけています。
異端審問でのレミージョとベルナール・ギーの会話もこれを表しています。
レミージョ『(ドルチーノ派であることを)誇りに思う。この修道院に住んで12年、たらふく飯を食った。女と交わり、貧農から10分の1税を搾り取った。だがあんた(ベルナール・ギー)のおかげで、昔は全身全霊で宗教を信じていたことを思い出したよ。』
ギー 『教会の財産を略奪し焼き払うのがおまえの信仰か?』
レミージョ『そうだ、おまえたちの奪ったものを民衆に返しただけだ。』
ギー 『司教や司祭を殺したか?』
レミージョ『殺したさ、チャンスがあればお前らも皆殺しにしてやるぞ。』
異端審問官ベルナール・ギーが拷問器具に刺し貫かれて死ぬことも暗示的です。
◆『転向』について
異端審問官ベルナール・ギーによる、サルヴァトーレ、レミージョ、少女3人の異端審問の場面です。ウィリアムは、昔『異端審問官』であった頃に異端審問に於いて『無罪』を主張しベルナール・ギーと対立しています。この時、ウィリアムの主張は容れられず彼自身も教皇庁から『異端』と見なされ、後『有罪』と節を曲げた『転向』の過去を引きずっています。
ベルナール・ギーは一連の殺人の犯人をこの3人の異端者とした裁定を下します。今回、ギーによって補佐判事に指名されたウィリアムがどう裁定を下すかです。少女が無罪であること知っているアソドの眼もあり、過去を引きずったウィリアムは3人が犯人でないことを明言します。ギーは前回同様ウィリアムを『異端』として引っ立てようとします。ドラマとしては見せ場ですね。
◆見どころ
ベネディクト会修道院の修道士たち相貌はすごいです。殆ど台詞のない修道士たちは見方によってはサルヴァトーレより異相で、この修道院というか中世ローマカトリックの抱える闇の部分を象徴している様です。サルヴァトーレを演じるロン・パールマンの存在感も凄いですね、ショーン・コネリーやマーリー・エイブラハムを相手に堂々と渡り合っています。
何より、ヨーロッパ中世の雰囲気が好きで何度でも観てしまいます。映画としては賞も取っていませんし地味ですが、不安をかき立てる『鐘の音』ととも気に入りの一本です。
1986年(仏伊西独)
監督:ジャン・ジャック・アノー
音楽:ジェームズ・ホーナー
出演
ウィリアム:ショーン・コネリー
アドソ(ウィリアムの弟子) :クリスチャン・スレーター
サルヴァトーレ:ロン・パールマン
ベルナール・ギー(異端審問官):F・マーリー・エイブラハム
アッボーネ(修道院長):ミシェル・ロンスダール
少女:ヴァレンティナ・ヴァルガス