まずは主人公ラスコーリニコフ。学費を滞納して大学を除籍となり、アルバイトもせずアパートの一室で不健康な思想を育てている元大学生。
小説が書かれた1866年を物語の現時点とすると、皇帝は後にテロで爆殺されたアレクサンドル2世。1861年に農奴解放により旧秩序が崩壊する一方、社会改革を目指すナロードニキ運動が起こっています。1866年には皇帝狙撃事件が起き、1879年には『悪霊』のモデル、ネチャーエフ事件が世間を騒がせ、後の革命につながる学生運動も盛んな時代です。1960年代、70年代初頭を彷彿とさせる時代です。
そうした時代の風と、貧乏と神経症がラスコーリニコフに「超人思想」を植え付けます。人は凡人と非凡人に別れ、非凡人は法律、道徳、宗教などの規範から自由であり何をなそうが許されると云う不健全?な思想です。熱に浮かされた様に、ラスコーリニコフは己が超人であることを証明するため「思想」を実行し強盗殺人を犯します。「シラミの存在にも等しい」金貸しの老婆を殺して金を奪い、犯行時に現れた老婆の妹も巻き添えに殺してしまいます。革命資金調達のために銀行を襲ったかつての過激派と同じ位相ですね。
奪った金を使って「超人」を目指すならまだしも、ラスコーリニコフは自分の起こした殺人という行為に怯え、金を何処かの屋敷の石の下に隠して、アパートに閉じこもって神経症に苦しむこととなります。
続いて退職九等官
マルメラードフです。この破滅的な人物は、高校時代に読んだ時も印象に残っています。マルメラードフはソーニャを連れて三人の子持ちカテリーナと再婚します。マルメラードフは酒で身を持ち崩し再就職も棒に振り、カテリーナも肺病を病み一家は破滅状態。この悲惨な状況のなかでソーニャは娼婦となって一家を支えます。ソーニャが稼いだ金でマルメラードフは呑んだくれ、家賃を溜めてアパートを追い出される一歩手前。カテリーナは昔の思い出にすがり、呑んだくれの夫と幼い子どもをかかえヒステリーを起こして発狂寸前。
当時のペテルブルグの下層階級の悲惨さが描かれ(この一家は極端だと思いますが)、マルメラードフ一家から聖なる娼婦ソーニャが生まれるという構図です。
さて、ソーニャです。マルメラードフが事故で死に、偶然通りかかったラスコーリニコフが彼をアパートに運び込んだことから、ソーニャとの関係が生まれます。殺人犯vs.娼婦です。「超人」とか勝手な理屈を付けて強盗殺人を犯したエゴイストと、破滅的な一家を支えるために身を売る娼婦ですから、勝負は初めからついています。ラスコーリニコフはソーニャに殺人を告白します。第4部でラスコーリニコフはソーニャを訪ねます。例の「ぼくは君に頭を下げたんじゃない、人類のすべての苦悩に頭を下げたんだ」という有名なセリフのある章です。「超人思想」によって殺人を犯したラスコーリニコフが自首するに至るターニングポイント(転向)だと思われます。
この小説でよく分からないのはラスコーリニコフの自首です。予審判事ポルフィーリイに感づかれたとは言え、証拠を握られた訳でもなく容疑者も逮捕されていますから、何もノコノコ自首する必要はありません。にもかかわらず、ソーニャと出会ったことで自首に至ります。『罪と罰』の主人公はラスコーリニコフとソーニャです。この自首の構造が分かれば、小説の半分は理解できたと言えるんではないかと思います。
この訪問でラスコーリニコフはソーニャという人物の値踏みをします。一家の苦境を救うために娼婦となったソーニャの内面に踏み込みます。ソーニャは信仰深い女性ですが、娼婦というキリスト教では罪深い存在です。娼婦を止めれば一家は崩壊するというぎりぎりの状況の中でなお娼婦を選択し、人一倍信仰も厚い存在です。ソーニャは自殺もせず、狂いもせず(義母カテリーナは狂っています)、淫蕩の世界に堕ちもせず、「信仰深い娼婦」という存在にとどまっているいることが出来るは何故なのかを考えます。ソーニャは「神の存在」だと言い、ラスコーリニコフは『これが出口なんだ。これが出口の告白なんだ。』『狂信者だ!』と考えるわけす。「超人思想」の妄想で殺人を犯したラスコーリニコフがソーニャを狂信者呼ばわりする資格はないと思うのですがね。『これが出口なんだ』と思い至った出口とは、ラスコーリニコフ自身の出口の発見なのかも知れません。
そしてラスコリーリニコフはソーニャに聖書の「ラザロの復活」の章を朗読させます(何故「ラザロの復活」なんですかね?
)。死んだラザロをイエスが生き返らせる奇跡のくだりです。朗読するソーニャをラスコリーリニコフは感動の眼差しで見つめるわけです。彼はこの「ラザロの復活」に(殺人者も娼婦も復活できると)感動したのか、朗読するソーニャの神々しさ(美しさ)に感動したのかよく分かりません。この奇跡の場面にはラザロの姉妹マルタしか登場しませんが、もうひとりの姉妹マリアがいたはずであり、このマリアこそあの元娼婦と言われる(と同一視される)「マグダラのマリア」です。聖書の世界とソーニャが渾然一体となって、傲慢な殺人者は自首の道に向かいます。(コメントで、ご指摘いただきました。何でもかんでも「マグダラのマリア」を連想する短絡的発想が情けないです)
と言い残してラスコーリニコフは退場。このふたりの会話をドアの陰で聴いていたのが、奥さんを毒殺してドーニャに言い寄りフラれたスヴィドリガイロフ。と、登場人物には事欠きません。
思い切り下世話に言えば、
金貸し老婆を殺して質草と金を奪った殺人者が
家族の為に春を売る娼婦に出会い
その美しさ健気さに打たれて改心する みたいな話しです。
ところが、ラスコーリニコフは改心どころか、物語の最後まで自分の犯罪を悔い改めていません。超人思想は健在なわけです。では何故自首したんだ?。ラスコーリニコフにとって、世の規範を超越した超人にとって、殺人は罪でもなんでもないわけですね。ところが予審判事ポリフィーリが嗅ぎつけました。ここでコソコソと逃げまわると云うことは、否定し超越したはずの法律を逆に認めることになります。ラスコーリニコフは、自首することによって己のプライドを守ったのです。思想上の罪と罰、規範・法律上の罪と罰を峻別し、現世よりも精神の王国に住むことにしたわけです。法律上の罰はシベリアでの囚人生活ですが、思想上の「罪と罰」は何なんでしょう?
するとソーニャが浮いてしまいます。ラスコーリニコフは「大切なのは力だ!すべてのおののける者どもとすべての蟻塚の上に立つ」ことが目的だと言い、「生活をかさねるにつれて、この言葉の意味がわかるようになる」と言っています。彼の「超人思想」は、娼婦となってソーニャが支える家族の生活、娼婦とであることを支える信仰 、そう云うものを包括する、視野に入れる思想に変質したんではないかと思われます。だから、一旦は「踏みこえた」世の規範に戻って自首し、ラザロの様に「復活」を目指そうとしたのでしょう。
などとグタグタ考える前に、『罪と罰』は風俗小説、メロドラマとして面白いです。なにしろ、殺人犯と娼婦の恋ですから。