続きです。 
 ポンペ
 フルネームは、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト。姓は長ったらしいので、短い名の方で呼んだのでしょう。ユトレヒト大学で医学を学び、1857年28歳で軍医として来日します。1862年までの5年間長崎で医学を教え、日本の医学黎明期を支えます。
 当時の蘭方(医)は、蘭書の解読によって得られた対症療法が主たるものであり、体系的な医学ではなかったようです。ポンペは、ユトレヒト大学で使ったノートを元に、物理学、化学、繃帯学、系統解剖学、組織学、生理学総論及び各論、病理学総論及び病理治療学、調剤学、内科学、外科学、眼科学、時間が許せば法医学、医事法制、産科学を加えるというをカリキュラムをたて医学を体系的に教えようとします。
 これだけの学科を28歳の医師がひとりで、しかも言葉も満足に通じない東洋人に教えようと企てたわけです。学ぶ方も必死だったことでしょうが、西洋医学を日本に移植するという困難な事業をやってのけます。ポンペがオランダ語で講義し、それを良順と伊之助がノートに取り、学生はそのノートを写し辞書をひいて理解するという方法がとられます。作者はこの情景を、

 ヨーロッパでながい歴史をかけて成熟した医学とそれに必要な基礎的な分野を、ただひとりのヨーロッパ人が、かれにとっては未知の島にやってきて、夢中でその体系を教えている、というのも異様である。受講している連中も、ヨーロッパなど見たこともなく、第一、ヨーロッパ人を見るのも、かれらの教師であるポンペにおいて初めてなのである。
 独身できて、教えることだけが生活であり、他に情熱の目標を持ちようのもないポンペにとって、やがて講義が進み、学生たちの理解力の幅や奥行きが増してくるにつれ、もはや教えることに物狂いしたようになった。学生たちも・・・ポンペの物狂いに共鳴して、何事かを会得するたびに肌に粟粒を立てるほどに感動する者もあり、ともかくも大村町の旧高島秋帆邸の一角というものは、異様な集団であったといっていい。

 これも作者得意の余談ですが、蘭語を学ぶためには、筆記用具から作らねばならなかったようです。大型の鳥の羽をカミソリで削いでペンを作り、インクも緑礬(りょくばん、硫酸第一鉄)や没食子(もっしょくし、タンニン)からの手製、紙も土佐紙にミョウバンと膠を煮たものを塗り子安貝の殻で磨いたものを使ったそうです。長崎医学伝習所においては、教える方も学ぶ方も「手作り」だったということです。

  コレラ
 1858年(安政5年)コレラが大流行し、ポンペは貴賎を問わず患者の治療に長崎の町を駆け巡ります。幕藩体制は人々を身分で区分けすることで秩序を維持してきた体制であり、医師にいたっても、上は将軍(または藩主)を診察する奥御医師から下は庶民を診る町医まで、幾層もの身分に分かれています。そんな時代に、ポンペは階級を超えてコレラ治療にあたります。

 「病人を救うのは医師としての義務である」
 このようなポンペの言動は、そのまま日本の身分制社会を斫り裂く強烈な思想としてうけととられたといっていい。
 ポンペは、この「思想」の斧をかついで鬱然たる原生林のような日本の身分制社会の中に入りこむにあたり、その「思想」に無用の誤解を付加されないためにーーつまり金もうけだと思われないためにーー自分の医療は一切無料にした。その意味においても、この医療行為は、刃物のようにするどい思想的行為の側面を持っていた。

 ポンペの医療行為に長崎奉行から「待った」がかかります。ポンペは外国人ながら直参として取り扱われ、本来であれば幕臣のみを診るべき立場にあります。そのポンペが公然と下級庶民を診ることを公認すれば、幕府そのものが身分制を否定したことになり、直接、幕藩体制の瓦解に結びつくというわけです。

「良順さん、われわれ幕臣は上様をまもらねばならぬ」

 この問題は、「目付」監視のもとで、良順とポンペが「大公儀のお慈悲より」診療するということで決着をみます。

 良順は、(学問、技術というのは、それだけがやってくるのではないのだな)
ということが、わかった。医学は医学だけがやってくるのではなく、「君臣共治」とよばれているオランダの社会思想やヨーロッパの人権思想など、あらゆる非日本的な思想が付着してやってくるものらしい。
(しかし、ポンペ先生が無差別診療をするというだけで、徳川の世は滅びるのだろうか)

ポンペの無差別診療を支持する伊之助にこれを問うと

徳川さまはほろびるでしょう