「暴露本」が話題となっていますが、本書も四半世紀前の暴露本です。暴露の相手は何しろ毛沢東ですから、大統領再選のために仮想敵国にすり寄ったり、外交成果より写真写りが大事なトランプさんとは、その破壊力とスケールが違います。

 1949(毛沢東との初対面は1955)~1976年の20年間、毛沢東と身近に接した主治医によるノンフィクションです。毛沢東は私の世代では、何より「造反有理」のスローガン。日中戦争、国共内戦を戦い中華人民共和国を建国した英雄であり、文化大革命という権力闘争で数百万の犠牲者を出した独裁者でもあるわけです。毛沢東がどんな素顔を持っていたのか?、文春、週刊現代の気分で読んでみました。あわよくば、文革や林彪のクーデターの裏話も知ることができればと。

曾祖父の面目失墜事件も頭にうかんだ---同治帝が梅毒にかかっていると正直に主張して生母、西太后の不興を買ったあげくに曾祖父は降格、譴責の処分を受けた。この一件は代々語りつがれ、子孫は二度と宮廷の侍医をつとめるべきではないという家憲が生まれたのではなかったか。

 著者は4代にわたる医者の家系(代々漢方医、李志綏は西洋医学)で、権力には仕えるなという家訓を違えて毛沢東の主治医となります。主治医ですから毛沢東の行くところ何処へでもお供をし、雑談の相手もさせられ、中華人民共和国・首席の表の顔も裏の顔もつぶさに知ることとなります。

毛沢東の宮廷
 主治医ですから毛沢東の病気には何でも対処しないといけないわけで、例えばインポテンツ。毛はことのほか好色で、ダンスパーティーを催しては若い女性を寝室に引き入れていたようですから 、この病気は本人にとっては深刻。笑ってはいけません。

主席は鹿の角のエキス使用には固執しなかったが、インポテンツ治療と長命持続のあらたな手をみつけるよう厳命した。この点でも、ほかの多くの問題と同様、歴代皇帝のやり方を毛は踏襲したのだった。

この問題以外でも毛は自らを歴代皇帝に重ねていたようです。毛は中国の歴史書、なかでも『二十四史』を愛読していたと言います。

毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最高の無慈悲かつ残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法を用いることも辞さない気だった。

 「酒池肉林」と悪逆非道で有名な殷王朝の紂王、「焚書坑儒」で有名な中国統一の始皇帝、隋の暴君・煬帝など、一癖も二癖もある皇帝がお気に入り。

 酒池は無いが肉林はある生活で、側近は毛に女性を取り持ち、豪華な専用列車(なんとベッド、トイレ持参)を仕立てる「首席の大名旅行」などを読むと(つい半島の首席を連想しますが)、毛沢東はさながら中華人民共和国の皇帝です。この主治医に言わせると、毛が暮らす中南海は、「宮廷の宦官、讒言と嫉妬が渦巻く毛沢東の宮廷」だと言います。
 広大な国土と国民を統治するためには、儒教や共産主義ような思想、皇帝や毛沢東のような独裁者が必要なのかも知れません。

百花斉放、百家争鳴(1957年)
 いよいよ権力闘争の話。毛沢東は、「私は国家首席を辞める」という噂を流しナンバー2の劉少奇や鄧小平を油断させます。劉少奇が、次の首席はオレだとばかり第八回党大会で集団指導制の推進、個人崇拝排除打ち出して毛沢東思想を削除すると、毛はすかさず反撃に出ます。「主観主義、セクト主義、官僚主義」を一掃する名目で党内の「整風運動(百花斉放百家争鳴)」に着手します。謂わば「マッチポンプ」。
 整風運動は、知識人や民主勢力を使って共産党を自由に批判させ 、自分に批判的な党幹部を追い落とし、同時に右派を炙り出し、反右派闘争を起こしてこれを潰そうという巧妙な作戦。
 著者によると、

いまから顧みると、一九五七年における毛沢東の整風運動は、いわば早産の文化大革命だったと思われる。こんにち一九五七年についてもっとも記憶に残るのは党外の右派分子にくわえられたテロルである。ところが最初のうち、毛沢東にとっての敵対者はじつは党内の最高幹部たちであり、彼を軽視してその権力を削減しようとし、毛がユートピア的な社会主義の夢(大躍進)に猛進しようと主張した際に警告を発した人々なのだ。(p341)

 この反右派闘争で50万人が殺されたり収容所送りとなったそうです。

三年後の一九六〇年になってはじめて、つまり時の外相・陳毅が私に対し五十万人が右派分子の烙印をおされたと語ったとき、私はその数字が大きすぎると思い、大半は故意に告発されたものと察したのである。何よりもやりきれないのは、いろいろな職場で右派分子の摘発が割当制になっていたという事実だ。どこの職場でも、要員の五パーセントが右派分子の罪ありと宣言しなければならなかった。

 右派分子の狩り出しは要員の5%の割当制!。組織単位で、(右派であるかどうかは別に)5%の人間を右派として告発したということです。百花斉放、百家争鳴で炙り出された右派は3000万人。毛沢東は3000万にのぼる「人民の敵」がいることを知ります。「中国は人口が多い」とは毛沢東の口癖だった。「少しくらいうしなっても余裕たっぷりだ。たいした問題じゃない」。後の「大躍進」政策の失敗による餓死者は3500~7000万人、文化大革命の犠牲者は数百万人と言われますが、毛沢東にとってみればたいした「問題じゃなかった」のでしょう。

大躍進(1958~61)