今日11月25日は憂国忌です。 『金閣寺』の主人公は何故金閣に放火したのか?という、「倒叙ミステリ」の続きです。

柏木
 大谷大学に進学した溝口は、「内翻足」の障害を持つ柏木と出会います。柏木は吃音症の溝口の分身ともいえます。柏木は、吃音症を自分と外界を遮る障碍と考え内向する溝口の対し、内翻足を己の中で思想化し、内翻足を武器に外界をねじ伏せようとします。

 柏木の語る「童貞喪失の物語」は面白いです。柏木に愛を告白する美しい娘が登場します。内翻足こそが自分の個別性(個性)であり「存在理由」と考える柏木は、

彼女がもし他人をでなくこの俺を愛しているのだとすれば、俺を他人から分つ個別的なものがなければならない。それこそは内飜足に他ならない。
 だから彼女は口に出さぬながら俺の内飜足を愛していることになり、そういう愛は俺の思考に於て不可能である。もし、俺の個別性が内飜足以外にあるとすれば、愛は可能かもしれない。

 娘が他の誰でもなく柏木を愛しているとすれば、他人にない柏木の何かを愛している筈だ。柏木にとって他人と自分を分かつ個性とは内翻足ですから、娘は内翻足を愛しているのだと考えます。内翻足を愛することは、柏木を愛したことにはならないということです。もし、内翻足ではなく別の個性を愛しているとすれば、娘の愛を認めざるを得ない。

だが、俺が内飜足以外に俺の個別性を、他の存在理由を認めるならば、俺はそういうものを補足的に認めたことになり、次いで、相互補足的に他人の存在理由をも認めたことになり、ひいては世界の中に包まれた自分を認めたことになるのだ。愛はありえない。俺はくりかえし言った。「愛していない」と。

  もし娘が内翻足以外の別の何かを愛しているとすれば、その何かとは世間一般の常識的な「世界」に他ならず、そんな世界を認めることは自己の「存在理由」を放棄することになる、と柏木は考えます。
 面白いのは、柏木は、娘の愛はその「並外れた自尊心」であることを見抜いていることです。つまりありきたりの男性には飽き足らず、殊さらに「不具」の柏木を愛することで自尊心を満足させているというのです。娘は内翻足を愛していると言ってもいいですし、自尊心を愛していると言ってもいいわけです。娘は柏木の同類かも知れません。で、俺はくりかえし言った。「愛していない」、ということになります。

 柏木の欲望が頭をもたげ、柏木は身体を投げ出した娘の前で不能となります。内翻足が娘の美しい脚に触れると考えただけで不能となったのです。柏木は言います、欲望の遂行、つまり娘を抱くことによって「愛の不可能を実証しようとした」が、肉体がこれを裏切ったのだと。