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三島由紀夫 金閣寺 ③ 南泉斬猫 (1960新潮文庫) [日記 (2020)]

金閣寺 (新潮文庫) 続きです。
老師
 金閣寺の老師は、溝口を金閣寺に引き取り、ゆくゆくは後継者にするため大谷大学に進学させます。戦争が終わり、拝観が増えることを見越して拝観料を値上げし、祇園で芸妓と遊ぶ、世智に長けた人物として描かれます。溝口が、吃音症のために踏み込むこと出来ない外界の象徴です。大人しく修行を積めば金閣寺の住職になれるわけですが、溝口は寺から放逐されることを望むかのように老師に挑みます。

 溝口は、新聞に老師の馴染みの芸妓のプロマイドを挟んで渡します。犯人が溝口であることが容易に分かるこの行動は、老師の芸者遊びを告発することが目的ではなく、私を罰して下さいと言っていることに他なりません。また、金閣寺を訪れた米兵の女の腹を踏み付け流産させます。老師はこの事件を金で解決しますが、溝口への叱責はありません。大学をサボって退学寸前、柏木から借金して出奔、その借金を老師に肩代わりさせるなど、自滅への道をまっしぐら。
 溝口は老師からの激しい叱責、寺からの放逐を望んでいたのです。外界に至る扉の鍵はまたも開かなかったのです。老師は、柏木からの借金を清算してやったばかりか、大学の授業料まで溝口に渡します。溝口はこの金を懐に、鍵を開くために「有為子のいる」五番町に行きます。

南泉斬猫
 禅の公案「南泉斬猫」が3箇所出てきます。「南泉斬猫」は、寺に迷い込んだ猫をめぐって争いがおこり、南泉和尚は猫を切って捨てます。和尚が事の次第を弟子の趙州に話すと、趙州は履物を脱いで頭に載せて出ていったというエピソードです。柏木は、認識だけが世界を(理解して)変貌させ得るとした上で、「南泉斬猫」について言います、

君の好きな美的なものは、認識に守られて眠りを負っているものだと思わないかね。 いつか話した『南泉斬猫』のあの猫だよ。

 行為者である南泉和尚は、人を惑わす猫=美を斬って捨て、趙州は、猫=美など人間精神の中で「認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影」という取るに足りないありふれたものなんだと。だから趙州は、誰もが履いている履頭にを載せたんだ、と言います。

この幻影を力強くし、能うかぎりの現実性を賦与するのはやはり認識だよ。認識にとって美は決して慰藉ではない。女であり、妻でもあるだろうが、慰藉ではない。・・・しかしこの決して慰藉ではないところ の美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしようもないものだが、何ものかが生れる。世間で芸術と呼んでいるのはそれさ。

溝口よ、美が幻想であるなら、おまえも南泉和尚にように猫を斬って捨てるか、趙州のように履物を脱いで頭に載せて(外界へ)出ていけ、と言っているのでしょう。

 溝口は、世界を変貌させるのは認識ではな<行為>だと言い、「美的なものは、もう僕にとっては怨敵なんだ」と柏木に返します。南泉和尚=溝口、趙州=柏木という構図でしょうか?。

五番町
 溝口が外界と関わりを持とうと働きかける時に金閣が現れ、外界への扉は固く閉じられます。青春小説ですからそれは女性です。嵐山で柏木の下宿の娘を前に金閣が顕れ、南禅寺山門で見た和服の女性に出会い、女性の乳房は金閣に変貌し不能となります。溝口は外界との扉の鍵を得るため、大学の授業料を持って「五番町」へ急ぎます。
 当たり前のことですが、娼家では吃音症の貧しい学僧の溝口は普通のひとりの男として扱われます。

私からは吃りが脱ぎ去られ、醜さや貧しさが脱ぎ去られ、かくて脱衣のあとにも、数限りない脱衣が重ねられた。私はたしかに快感に到達していたが、その快感を味わっているのが私だとは信じられなかった。遠いところで、私を疎外している感覚が湧き立ち、やがて崩折れた。
・・・乳房は私のすぐ前に在って汗ばんでいた。決して金閣に変貌したりすることのない唯の肉である。私はおそるおそる指先でそれに触った。

 娼婦の乳房は金閣に変貌せず、溝口は外界への扉の鍵を手に入れたことになります。

「こんなもの、珍らしいの」
まり子(娼婦)はそう言って身をもたげ、小動物をあやすように、自分の乳房をじっと見て軽く揺った。私はその肉のたゆたいから、舞鶴湾の夕日を思い出した。夕日のうつろいやすさと肉のうつろいやすさが、私の心の中で結合したのだと思われる。そしてこの目前の肉も夕日のように、やがて幾重の夕雲に包まれ、夜の墓穴深く横たわるという想像が、私に安堵を与えた。

 金閣寺炎上まではあと少し。

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