前著『反日種族主義』は日韓でベストセラーとなり、韓国では反論の本が6冊出たそうです。反論に答えるため、公開討論を持ちかけたところ誰も同意しなかったので本書が書かれたようです。もっとも、ノコノコ公開討論に出掛けて行ったら、手酷い返り討ちに会ったことでしょう。所謂「元徴用工訴訟」で、日本政府は仲裁のための第三者委員会を提案しましたが、韓国政府は「公開討論」を拒否 →同じですね。

 ・・・目次・・・
第1章 日本軍慰安婦
第2章 戦時動員(強制徴用)
第3章 独島(竹島)
第4章 土地・林野調査(収奪論)
第5章 植民地近代化

 「日本軍慰安婦」「戦時動員(強制徴用)」「独島(竹島)」「土地・林野調査(収奪論)」はだいたい想像がつきます。面白かったのは、第5編「植民地近代化」。

朝鮮近現代史
 6年振りに歴史教科書が改訂され、日本統治時代の近代と大韓民国成立後の現代史が全体の70%を占めるに至ったそうです。韓国の歴史教科書は「反日」教育のためにあるようなものですから、近現代が重要なのでしょう。その近現代に至った李氏朝鮮、儒教を国教とし中国の冊封体制下で500年続いた李朝を学ばないと、近現代の理解は偏ったものとなると思います。江戸時代をいい加減に飛ばして、幕末、明治維新以降を学ぶようなものです。歴史というのは因果関係による「流れ」なのですから。(高宋、大院君の)李朝末期がどういう時代であったかが分かれば、「帝国主義」と「日韓併合」に至る歴史が理解できる筈です。教科書には「ロウソク集会(革命)」が載っているらしいですが、こっち方が大事だと思います。

 所謂「歴史認識」とは、「日韓併合」をどう認識するかの話です。ストーリーは概ね2つに色分けされます。

ストーリー①
 1)李朝末期の勢道政治による混乱によって「甲午農民戦争」や「甲午改革」などが起き
 2)なお国家として自浄能力の無い李氏朝鮮は帝国主義に飲み込まれ「日韓併合」となる
 3)35年の日帝支配によって近代化が始まり
 4)1945年日本の敗戦によって「解放」され1948年大韓民国が樹立されたを果たし、朝鮮戦争によって南北に分断され
 5)「日韓請求権協定」による5億ドルを使って「漢江の奇跡」を生み出し今日に至る

ストーリー②
 1)「甲午農民戦争」「甲午改革」は朝鮮民族の輝かしい独立運動を経て
 2)朝鮮の近代化が始まろうとしたその時、日帝が「韓日合邦」をなし
 3)日帝の支配は国土の40%を搾取するなど民族を抑圧
 4)「韓日合邦」よって、民族の独立と近代化の芽は摘み取られるが
 5)日帝強占下において独立軍を組織し、上海に大韓民国臨時政府を樹立して独立運動は継続
 6)日帝の敗戦によって独立を果たし(1948)、韓国戦争の戦禍を克服して「漢江の奇跡」をなしとげた。

という2つのストーリーです。『反日種族主義』はストーリー①、歴史教科書はストーリー②です。

 19世紀末、日本も朝鮮も外圧よって開国を迫られます。日本は、明治維新によって帝国主義選択し、朝鮮は500年続いた李朝体制継続を選択します。その李朝が自らの力で自主独立の道を歩んだかというと、勢道政治と内政の失敗によって政治は混乱し、日韓併合に至ります。

 地政学上の制約、そこから発生する事大主義、儒教(性理学)など制約があったわけですが、為政者はズルズルと絶対王制にしがみつき、変革(近代化)を怠ったわけです。乙末改革や甲午改革など体制内で時代に目覚めた青年貴族による変革の芽はあったのすが、高宋、大院君、閔妃などはことごとくこの芽を摘みます。高宋は甲午農民戦争で清朝軍を頼んで日清戦争の、「露館播遷」によって日露戦争の原因を作り「日韓併合」を招きます。高宋の播遷は実に7度に及んだといいます。国と国民をうっちゃって外国公使館に逃げる国王を持った朝鮮民族の悲劇です。この李朝を相対化しないで、朝鮮近代史はありません。

高宋と閔妃
 『親日派のための弁明 2』の著者・金完燮によると、高宋の后・閔妃をヒロインとしたドラマ『明成皇后』が大ヒットしたそうです。ドラマで、閔妃は朝鮮独立のために日帝と戦う国母として描かれているそうです。無能の夫・高宋の尻を叩き、権謀術数の舅・大院君や日帝を相手に闘い、最期は暗殺されるというストーリーは面白くないわけ無い。「雌鶏が啼くと国が亡ぶ」と揶揄された閔妃の実像はきれいサッパリ拭い去られているでしょう(閔妃の生前に、高宋が皇帝であった事実はなく、明成「皇后」は誤り)。
 本書の「17.高宋の習慣性播遷と国家意識(金容三)」によると、高宋についても、閔妃と同様の評価があるようです。「高宗は日帝によって毒殺されるときまで、最後まで日帝に立ち向かい戦った抗日君主だった」と。
 高宋が日帝に毒殺されたかどうかはともかく、国と国民を捨てて7度も逃げ出し(逃げ出そうとし)、最後はロシアに亡命まで企てた高宋が「抗日君主」だというのです。

1909年10月30日付のイギリスの雑誌 『エコノミスト』誌は、「外国から現代的な行政システムの援助を受けたほうが、むしろ韓国の国民にとって利益となるだろう」と報じました「日本が韓国を完全に支配すれば、大韓帝国の皇帝は権力を乱用し国民を搾取することができなくなり、両班もこれ以上民を搾取できなくなっだろう。併合されれば韓国という国はなくなるが、その国民は日本の支配下で、よりましな暮らしができるようになる」からでした。

1910年6月3日、日本政府は韓国を併合する方針を決定します。8月22日、併合条約が締結され、8月29日、大韓帝国の皇帝は、日本の皇帝に大韓帝国の統治権を永久に譲渡することを民の前に宣布しました。そうなっても大韓帝国の臣民は、いかなる抵抗もしませんでした。

 高宋は国民にも見放された、という書き様です。角田房子、イザベラ・バード、呉善花、李栄薫、金完燮などの著作を読むと、おおよそこうした理解になります。混乱の時代ともいうべき李朝末期を韓国の人々は(というか韓国政府は)どう考えているのかと思い、高校「歴史教科書」も読んでみました。教科書によると、李朝末期は、朝鮮民衆と開化派よる改革の歴史であり、日韓併合に至る悲劇の歴史、という書き振りです。大院君は農民蜂起の原因となった三政を改革し、国家財政を拡充し、民生を安定させようとした名君であり、高宋は甲午改革を積極的に推し進めようと洪範十四条を頒布したこれも改革派の王となっています。
 日本にも「皇国史観」があったわけですから、韓国が自国の歴史をどう組み立てようと、自由と言えば自由ですが →面白いです。
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