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金完燮 親日派のための弁明2 ① 三一運動 (扶桑社2004) [日記 (2020)]

親日派のための弁明〈2〉英雄の虚像、日帝の実像 (扶桑社文庫)  『親日派のための弁明』の続編ですが、こちらの方も過激で面白いです。「まえがき」に、

最初に収録されている「関妃事件と韓国人のアイデンティティ」は、本来、初版の『親日派』に収録するつもりで執筆したものの身の危険を感じたため涙をのんで割愛した原稿であり、『2』にはどうしても掲載したかった。
 
朝鮮近代史ではほぼ常識となっている「閔妃事件」について歴史的事実を述べることは(それが親日であれば)、現代韓国では「身の危険」に繋がることだと言います。著者は、(自著が裁かれる)法廷でテロリストの襲撃を受け負傷したそうです。このテロリストは、1996年に金九を殺した安斗煕を撲殺し、刑期3年のところ恩赦で1年半で出所したという反日の殺人犯。李榮薰は(『反日種族主義』の著者)が、「従軍慰安婦は一種の公娼」と発言したため激しいパッシングに曝され元慰安婦に土下座させられます。著者はガリレオが無理矢理「地動説」を放棄させられた宗教裁判を連想し、李榮薰は「それでも地球は回っている」と言いたかったのではないかと書きます。

韓国の歴史論争は討論ではなく、戦争である。歴史問題にみえるが、実は人間の基本的権利である言論の自由に向かっての闘争なのである。あきれたことに、韓国人はこの国に言論の自由がないという事実さえ知らない。

*****目 次*****
第一部:歪められた英雄たち
 閔妃事件と韓国人のアイデンティティ
 きつね狩り
 東洋のビスマルク
 星を射る
 朝鮮総督府は強盗だったのか
 三一運動の真実
 柳寛順ストーリー
 独立軍の正体、
 穂積産業革命
第二部:大東亜戦争の真実
第三部:戦後韓国のアイデンティティ

 第一部では、日本軍に暗殺された悲劇の王妃・閔妃(乙未事変)、伊藤博文を暗殺した英雄・安重根の実像に迫り、朝鮮の土地の40%を奪ったという朝鮮総督府の「土地調査事業」を検証し、3月1日を祝日にまで仕立て上げた独立運動「三一運動」、満州で日本に抵抗したの朝鮮「独立軍」の真実を明らかにします。「穂積産業革命」では、総督府官僚・穂積真六郎を取り上げ、朝鮮の近代化は日帝よって成し遂げられたとする「植民地近代化論」を論じます。

三一運動
 万歳デモが拡散すると、日帝は憲兵警察はもちろん軍人まで緊急出動させ、デモ群集を無差別殺傷し) 晴州、砂川、畠山、送安、南原、孟郎、送安、敵原 陝川などの地では、日本軍警の銃撃により数十人の死傷者を出し、華城、堤岩里では全住民を教会に集合させた後、監禁して火をつけ虐殺した。また、デモに参加したという理由で無数の人々が投獄され、日本警察に非人道的な刑罰を受け数多くの人々が命を失った。当時、万歳デモに参加した人員は二百余万人であり、日本軍警に殺された人は七千五百余人、負傷者は一万六千余人、逮捕された人は四万七千人であり、壊されたり燃やされたりした民家は七百二十余戸、教会が五十余ヶ所、学校が二ヶ所だった。(『国史』344ページ)

 これが韓国の歴史教科書で教える「三一運動」です。三一運動は、1919年日本の統治下の朝鮮で起こった独立運動で、現代の韓国では3月1日は運動を記念して祝日です。教科書は、朝鮮全土に波及した独立運動は、日本の軍警によって弾圧虐殺を受けたと記述しています。この記述は「大韓民国臨時政府」の朴殷植の『韓國獨立運動之血史』からの引用で、朴殷植は1919年には上海にいたわけですから、伝聞に過ぎません。

 三一運動は、3/3の高宗の葬儀に合わせ、1919年3月1日に京城(ソウル)のパゴダ公園で民族代表33名が「独立宣言」を読み上げたことに始まります。暴徒化を恐れた主催者は、パゴダ公園ではなく付近の妓生館で独立宣言を読み上げ、警察に自首したそうです。パゴダ公園に集まった群衆は数万人に膨れあがり、独立運動はその後3ヶ月にわたって朝鮮全土に拡散します。

 著者は、「独立宣言」を読み上げた33人の民族代表が、キリスト教徒16人、天道教徒15人、仏教徒2人であるところから、三一運動は、広範な国民によって起こされた運動ではなく、キリスト教と天道教(東学、庚午農民戦争)よって起こされた運動だといいます。
 当時の韓国のキリスト教は長老派と監理教(メソジスト派)の二大勢力が布教にしのぎを削っています。劣勢である監理教が独立運動と連携することによって勢力を拡張しようとした、それが三一運動だといいます。天道教は、庚午農民戦争の東学党の流れを汲んだ新興宗教です。東学党は「親日」の一進会に発展し、その勢力を恐れた総督府によって解散させられますから、独立運動に加担しても不思議はありません。逮捕者2万人のうち、キリスト教徒が3300人、天道教徒が2200人ですから、この二派が運動を牽引したことを物語っています。

 三一運動は暴動に発展し、前掲の『国史』では、デモに参加した人員は二百余万人で、犠牲者は、七千五百余人が日本軍警に殺され、負傷者は一万六千余人、逮捕者は四万七千人、壊されたり燃やされたりした民家は七百二十余戸、教会が五十余ヶ所、学校が二ヶ所だといいますが、朝鮮総督府の資料によると、デモ参加者は延べ106万人、死亡者553人、負傷者1409人、軍警の死者8人、負傷者158人となります。韓国側の最近の研究によると、デモ参加者は全人口の2.7%の46万人。三一運動を過大評価したい側と過小評価したい側で集計は異なりますが、キリスト教、天道教の煽動だったにしても、少なくとも50万人の国民がこの運動(デモと暴動)に参加したことは動かしようのない事実です。
 大韓民国憲法では、独立の流れを三一運動 →大韓民国臨時政府 →大韓民国と謳っています。つまり、韓国の独立は、日本の敗戦による「棚ボタ」でなく、韓国が不断の闘争によって勝ち取ったものだ、というわけです。

提岩里教会事件
 著者は、三一運動が地方に波及した「提岩里教会事件」と朝鮮のジャンヌダルク「柳寛順」から、韓国で流布している日帝の暴虐を検証します。
 提岩里協会事件は、鎮圧に当たった日本軍警がキリスト教徒と天道教徒を教会に集めて銃殺し、教会を焼いた(という)事件です。

四月十五日午後、日本軍中尉が部隊を率いて水原郡南にある堤岩里に出現し、住民たちに訓示があるといってキリスト教徒と天道教徒三十余人を教会に集合させた。そして、窓と入り口に固く栓をすると、兵士たちが一斉に射撃を開始した。教会の中にいたある女性は抱いていた赤ん坊を窓の外に放り投げ、「私は死んでもいいですが、子供だけは助けてください」といったが、日本軍は子供の頭を撃って殺した。(韓國獨立運動之血史)

 暴動と混乱のなかで30名内外のキリスト教徒、天道教徒が殺され、教会が焼け落ちたことは、日本側の資料によっても明らかです。日本軍は子供の頭を撃って殺したというのは、他の資料には現れず、著者は創作だとします。

 三一運動による暴動が如何なるものだったのか、日本陸軍の提岩里事件の報告書からうかがうことができます。3月下旬から4月初旬にかけて総督府の官公署が暴徒によって破壊焼却される事件が頻発し、巡査が殺され、「民心ノ恐慌憤怒一時其ノ極ニ達セリ」という状況となります。1000名近い暴徒が太極旗を押立て路上で演説し、日本人の家屋に投石暴行、白昼小学校に放火して万歳を叫び、発安場周囲の山上80箇所に篝火を焚いて示威行動、日本人の退去を迫るという有様。平和に行われたデモが、次第に暴動に発展するのは、先のアメリカの”black lives matter”と同じ展開です。総督府は暴徒鎮圧のために軍警察を派遣します。

有田中尉ハ、(中略)堤岩里ニ到着スルヤ巡査補ヲシテ天道教徒及耶蘇教徒二十有余名ヲ耶蘇教会堂ニ集合セシメ、先回ノ騒擾及将来ノ覚悟ニ関シ、二、三質問ヲ試ミツツアリシ間、一名ノモノハ逃亡セントセシニヨリ之ヲ防止セルニ、他ノ一名ト共ニ打掛リ来リシヲ以テ、直チニ之ヲ斬棄テタリ。此ノ景況ヲ見ルヤ鮮人全部ハ暴行ノ態度ニ出テ、其ノ一部ハ木片又ハ腰掛等ヲ以テ反抗シ来リシヲ以テ、直チニ出テテ兵卒ニ射撃ヲ命シ、殆ント全部ヲ射殺スルニ至レリ。 此混乱中、西側隣家ヨリ火ヲ発シ、暴風ノ為メ直チニ教会堂ニ延焼シ、遂ニ二十余戸ヲ焼失スルニ至レリ。(総督府報告書)

 真相は藪の中ですが、30名内外の住民が銃殺され教会は焼け落ちます。当時の朝鮮全土の憲兵は8000人、警官は6000人に過ぎません。提岩里に何人の軍警が派遣されたのかは分かりませんが、30人程の民間人の抵抗にあって恐慌を来たし全員射殺するのですから、少人数だったと思われます。

 三一運動の被害は、民間人の死者553人、軍警の死者8人を出し、総督府の建物は108ヶ所が破壊され、『韓國獨立運動之血史』によると教会47ヶ所、学校2ヶ所、家屋715ヶ所が破壊され3ヶ月に及ぶ暴動は終息します。逮捕者は12700人、4000人が有罪となりますが、騒乱罪を適用され死刑の判決が出てもおかしくないこの事件で3年以上の懲役刑はわずか80人、それも翌年の大赦免で刑期は半減されます。総督府が反乱を如何に恐れていたかでしょう。

 著者は三一運動をキリスト教と天道教に唆された「暴動」だったと言いますが、この運動によって総督府の武断統治が文治統治へと変わりますから、それなりに意味のある暴動だったことになります。

柳寛順
 朝鮮のジャンヌダルク「柳寛順」です。三一運動が起きると、監理教の梨花学堂の学生であった柳寛順は故郷の天安郡に帰り独立運動を指導します。柳寛順は逮捕され日本の官権の拷問によって獄死。その遺体は

耳と鼻が切りとられ、髪と指の爪がすべて抜けているなど、一箇所も痛んでいない所がないほど残酷だった。

 『国史』の記述や提岩里教会事件で子供を撃ち殺したという記述から、著者はこの拷問も捏造だとします。総督府が拷問を禁じていたこと、拷問の痕が生々しい遺体を引き渡すはずはなく、引き取った梨花学堂の校長はがその事実を全く延べていないこと、三一運動の逮捕者は最大禁固3年でありしかも大赦によって刑期が半減されていることなどから、柳寛順の拷問は捏造だと断定します。
 李朝では拷問は盛んに行われ、上海で暗殺された革命家・金玉均の遺体は京城に運ばれ凌遅刑にされています。自分達がやったのだから日帝もやった筈だというわけです。

 大韓民国憲法で謳う三一運動です。著者の韓国近代史は説得力がありますが、三一運動については「親日」が前面に出過ぎていると思われます。
面白いので続きます

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