続きです
三浦の乱
 朝鮮政府が倭寇懐柔策として商館「三浦」を作ったところ、対馬から食い詰め者が移住して来て居留地は膨れ上がり近隣を巻き込んで「マージナル(境界)」が生まれた、そいう話でした。

四夷と通商するは、古えよりあり。且つ我が国緊要の物、皆倭国より来たる。互市すると雖も何の害かあらん。(成宗35甲申)

 朝鮮の輸入は、赤色染料の蘇木、胡椒以下のスパイス類、そして銅・鑞・硫黄・金などの鉱物が主な物で、とくに銅は、「銅鉄は民の欲するところであり、もし倭人がもってこなければ、国家の需要をみたせない」と「朝鮮王朝実録」にもあるように、重要な輸入品です。輸出品は綿布。綿布は朝鮮の代用貨幣であり、衣服として麻より暖かいので日本でも需要が高かったようです。輸入超過で支払う綿布が枯渇したという記述もあり、対日貿易は当時から赤字だったようです。「我が国緊要の物、皆倭国より来たる」は、2019年に輸出規制をかけた韓国の必需品レジストフッ化水素みたいなもので笑います。

 1470年代から全羅道を中心に再び海賊(倭寇)の活動が活発となり、朝鮮政府はこれを三浦の倭人と見做します。もともと倭寇は倭人、朝鮮人、中国人混在の存在です。これを三浦の倭人とする根拠ありませんが、近隣の朝鮮人やソウルの富商を巻き込んだ無秩序な膨張に手を焼いていた役人は、こいつらは三浦の奴等だ!。
 1508年三浦のひとつ浦の近くの加徳島で海賊事件が起きます。この取り調べ中に今度は全羅道の市吉島で朝鮮の船が倭船に襲われ、賊17人を捕えその首に三浦にさらし、浦の倭人数十名が朝鮮の役所に乱入します。1510年、齊浦・釜山浦の倭人たちは、対馬の宗盛順の援軍を得て大規模な暴動を起こし倭人抑圧政策の変更を迫ります。三浦の乱です。

 齊浦・釜山浦の役所を攻め落とし、齊浦の役人頭を捕虜にし釜山浦の役人頭を殺します。倭軍は熊川城(齊浦に隣接)を囲み熊川県監に降伏を求め、釜山浦から東萊城に迫って東萊県令に要求書を送り、付近の各所を略奪、巨済島でも水軍の基地に攻撃をくわえます。慶尚道都很帥(軍総指令官)は鎮定軍を送り、薺浦は陥落、倭軍は295名の戦死者を出して対馬へ撤退となります。

壬申約条
 三浦の倭人と対馬宗氏が引きおこした暴動は完全に裏目に出て、対馬は築いてきた居留地と朝鮮との間で保っていたすべての権益を失います。1512年の「壬申約条」(対馬・朝鮮の復交条約)で貿易は再開され再開されますが、交易は齊浦に限定され居留は不可となって倭人が築いた「三浦」は崩壊します。三浦とは何だったのか、

三浦には、朝鮮という異国のなかに食いこんだ日本中世社会という一面がある。倭風の家がたちならび、倭船が帆柱をならべ、倭語・倭服の人々が行き交う港町、というだけではない。・・・倭人の行動自体が中世を体現していた。かれらのエネルギッシュで、自由奔放で、論理を超えたふるまいは、国家機構の統制力が極端に弱い中世社会ではぐくまれたものだった(もっともこの「中世社会」は、日本人だけのものではなく朝鮮人も参加したわけですが)
 「壬申約条」で対馬からの通交は厳しく制限され、対馬島主・宗氏が朝鮮に派遣できる船の数は、年間50艘だったのが25艘に半減。島主には年間50艘以外にも特別な理由があれば随時船を送ることが認められていたのが、全廃。島主以外の島内の有力者にも船を送る権利が認められていたのが、これも全廃。経済を三浦に依存していた対馬宗氏は完全お手上げ状態となります。そこで考え出されたのが、「宗氏の船ではなく日本国王使の遣いと偽って交易船を仕立てる「日本国使臣」という抜け道。三浦の乱後の1511~1581年までの70年間に20回の「偽日本国使臣」が派遣されます。三浦の乱を境に日朝貿易は宗氏の独占となり、日朝貿易から締め出された人々は対馬・朝鮮ルートから東シナ海に活路を求め「後期倭寇」を形成することになります。

後期倭寇