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島内景二 王朝日記の魅力① 和泉式部日記 (2021花鳥社) [日記 (2021)]

王朝日記の魅力
 『源氏物語』以来久々の古典。著者が講師を務めたNHKラジオ「古典購読」が元となっているそうで、『蜻蛉日記』『更級日記』『和泉式部日記』の3編が収められています。まずは恋多き女性和泉式部の日記から。『和泉式部日記』は、1008年頃、亡くなった恋人との愛の日々を綴った日記(歌物語)だそうです。

 和泉式部は越前守・大江雅致の娘、夫も和泉守・橘道貞で受領階級の出身です。貴族としては中流?、その和泉式部が冷泉天皇の第三皇子・為尊親王と浮名を流し、親王が亡くなると弟の敦道親王と恋仲になります。身分違いの恋と兄弟との恋は宮中でスキャンダルだったはずで、藤原道長からは「浮かれ女」と言われ、紫式部は日記で、

和泉式部といふ人こそ、面白う書き交はしける。然れど、和泉は、怪しからぬ方こそあれ

と評しています。兼好が徒然草で「あやしうこそ、ものぐるしほしけれ」と書いた「怪し」ですから、紫式部は和泉式部の歌と散文は評価しながら、その素行は「ちょっと普通でない」と思っていたようです。2人の親王の他にも大江挙周(赤染衛門の息子)や源雅通とも関係を持っていたようです。『古今著聞集』に、こんな艶聞が収録されています。
 和泉式部が伏見稲荷に参詣した時、時雨に会い、稲刈りをしていた「童」に襖(あを、綿入れ)を借ります。翌日この童が歌を持って現れ、

時雨する 稲荷の山の紅葉葉 は青かりしより 思ひそめてき
と書きたりけり。式部、哀れと思ひて、この童を呼びて、「奥へ」と言ひて、呼び入れけるとなむ

童は和泉式部に恋の歌を捧げ、式部は「哀れ」と思って「奥」へ誘うわけです。この場合の「あはれ」は「かわいい」「いとおしい」という意味でしょう。偶然知り合った「童」を「奥へ」誘ったんですから性奔放。事実かどうかは別として、そんな話が生まれるほど和泉式部は多情だったのでしょう。

 和泉式部はどんな時代に生きていたのか?
年表.jpg相関図.jpg
 和泉式部と紫式部は藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子に仕え、清少納言は一条天皇の后・定子に仕えています。この3人は、同じ時代の空気を吸って生きていたことになります。和泉式部と紫式部は職場の同僚です。年表にするとこうなります、

 978頃 :誕生
 ~999 :この頃迄に和泉守・橘道貞と結婚、娘・小式部内侍生まれるも後に離婚
 ~   :為尊親王と恋愛関係となる
1002 :為尊親王死去、後に弟の敦道親王に言い寄られる
1004 :敦道親王の牛車で葵祭を見物し話題となる、屋敷で同棲
 ~   敦道親王の正妻家出事件、男子誕生(早世)
1007 :敦道親王死去、敦道親王を悼む和歌を詠む
1008頃:和泉式部日記成立
1009頃:彰子の女房となる、紫式部は先輩
1013頃:藤原道長の部下・藤原保昌と再婚
1025 :娘・小式部内侍死去
 ~   没年不明

 20歳も年上の橘道貞と結婚し、娘・小式部内侍が生まれるものの離婚。何人もの男性関係の後、為尊親王と恋愛関係となり、親王が亡くなると弟の敦道親王と同棲します(和泉式部が3~4歳年上)。男子が生まれるも親王は死去。藤原道長の娘・彰子の女房となり宮仕えし、藤原保昌に見初められ35歳で再婚。47歳で一人娘を亡くす。没年不明。

 日記ですから本文の解説があると思ったのですが、本書は全編和歌の解説です(学習参考書みたい)。例えば、

黒髪の 乱れも知らず 打ち臥せば まづ掻き遣りし 人ぞ恋しき

・・・自分の長く美しい黒髪が乱れているのもかまわずに、打ち臥して、思いに沈んでいると、そんな時、すぐに私の髪の毛に手を入れて優しく撫でてくれた、あの人が恋しくてたまらない

寝覚めする 身を吹き通す 風の音 昔は耳のよそに聞きけむ

夜半に目が覚めると風の音がする、風は我が身を吹きすさぶようだ。敦道親王訪れていた頃は、親王の言葉に耳を傾けるので風の音など気にしなかったのになぁ。ということになるんでしょうか。当時は妻問婚ですから男が女の邸を訪れる「逢瀬」です。今は訪れる人もなく、風が「身を吹き通す」という辺りに、式部の寂寞感が出ています。そんな歌と解説がずらりと登場します。

 皇族と中流貴族のバツイチの女性の恋。その親王が亡くなると、弟に言い寄られ、正妻を追い出して屋敷で同棲、その辺りが日記の本文にどう書かれているのでしょう、気になります。 →王朝日記の魅力②

タグ:読書
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