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島内景二 王朝日記の魅力② 蜻蛉日記(1) (2021花鳥社) [日記 (2022)]

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 『蜻蛉日記』の作者・道綱の母は、藤原倫寧の娘で摂政・藤原兼家の妻。兼家の妹・愛姫は醍醐天皇の皇子で左大臣・源高明に嫁いでおり、藤原道長は兼家の五男ですから甥で、息子の道綱は大納言に上り詰めます。道綱の母は、和泉式部と比べると、貴族としてはきらびやかです。

安和の変
 源高明は、藤原氏から謀反の疑いをかけられ、太宰府へ追いやられます。この「安和の変」は藤原氏の策謀であることは宮中では誰もが知るところ。自分の夫がその策謀に荷担し、高明の妻・愛姫とは旧知の仲ですから、道綱の母の心中は複雑だった筈です。高明と愛姫への同情と夫への非難が長歌に託して日記に記されています。あからさまに書くわけにはいきませんから、比喩と掛詞を巧みに使ったものだそうです。愛宮への同情と愛宮の夫を陥れた男達への非難は、同時に夫に疎んじられた作者の嘆きでもあります。

 余談ですが、源氏物語の「光る源氏」は、この源高明がモデルだそうです。紫式部は道長の娘・彰子の女房であり、源氏物語を書くために当時貴重品であった紙を道長に仰ぐなど、道長の庇護を受けています。ところが、藤原氏の政敵・源高明を主人公とした小説を書いたわけです。著者は、『源氏物語』は一種の政治小説だと言います。女性は、紫式部、道綱の母、菅原孝標の女と呼ばれるだけで、その本名も伝わらないところから、一段低い身分だったと思われますが、彼女達もしっかりと「見ている」わけです。

一夫多妻
 兼家には正妻・時姫の他に、保子内親王、中将御息所、権の北の方、源兼忠娘、対御方(近江)などの妻があり、彼女達は道綱の母のライバルです。当時は男が妻の元に通う妻問婚。通う頻度が愛情の深さですから、道綱の母は通って来ない夫に不満を覚えます。

斯くて、数ふれば、夜、見ることは三十日余り、昼、見ることは四十日余りに成りにけり。

夜に通うことは30日も絶え、昼間顔を見せることも49日絶えている。愛を取り戻すために神仏に頼る他はないと、道綱の母は近江の唐崎(日吉神社)に詣でます。留守の間に兼家が訪れていた、というオチが付きます。

 道綱の母付きの女房が良からぬ噂を耳に入れます、

女房A:失せ給ひぬる小野の宮の大臣の御召人ども、有り。此らをぞ、思ひ掛くらむ。近江ぞ、奇しき事

「小野の宮の大臣」とは、五月に亡くなった兼家の叔父・藤原実頼。実頼には「召人」だった「近江」という女がいます。実頼が亡くなった頃から兼家の足が遠のいたため、近江が兼家の新しい愛人ではないか、という噂です。和泉式部も敦道親王の「召人」でしたから、召人とは主人の愛人でもある女性のことです。

女房B:もし、然らずは、先帝の皇女達がならむ

先帝(村上天皇)の三女・女三の宮とも付き合ってる様ですよ、と噂する始末。近江は、実頼が亡くなると甥の兼家の愛人となり、後に兼家の長男・道隆の愛人になった「色めく者」のようです。通綱の母を取り巻く人物の相関図を作ると、兼家の女性関係は皇女から受領の娘まで「壮観」。

 この時代、上流階級は自由恋愛で一夫多妻。妻の方は夫に捨てられる不安があり、平安時代の女流文学は、一夫多妻と妻問婚の上に成り立っているようです。もっとも女性が財産を相続しますから、経済基盤は比較的安定。夫の方は妻の下に通うだけで扶養義務無し?、子供が生まれれば妻の実家が養育しますから悩む必要はなく、文学など生まれようがありませんw。

色ごのみ
  平安時代の代表的女流作家は、藤原通綱の母、和泉式部、紫式部、清少納言、菅原孝標女。和泉式部は離婚、再婚、愛人多数あり。紫式部は藤原宣孝との結婚は再婚だという説もあり、藤原道長との男女関係も疑われています。清少納言も離婚→再婚。「二夫にまみえず」は藤原通綱の母、菅原孝標女のふたりで、平安時代の貴族は離婚も再婚も珍しくなかったようです。妻問婚の制度が男女の結び付きを緩いものし財産は娘が相続するため、経済的にも安定した女性は婚姻や男女関係でも自由だったと思われます。

 「色ごのみ」と称されるものです。中村真一郎(『色好み構造』)によると、「色ごのみ」とは、高度にソフィスティケイトされた《文化》だったいうのです。ひとりの女性だけを愛するということの方が「異常」であり「野暮」だといいます。当時の男女は、気の利いた文章と趣のある歌を、趣味のよい和紙に達筆で書き、季節の花の枝に結んで恋文を贈ります。これが出来てはじめて、優れた「色好み」で、従って「色好み」は平安紳士淑女の条件だといいます。「貴族道」みたいなものです。

 近江は兼家の叔父・藤原実頼の愛人=妻だったのですが、実頼が亡くなると兼家の妻となって娘を産み、後には兼家の長男・道隆の愛人となって一女を産みます。何とインモラルなと思うのすが、『大和物語』には、在原業平が醍醐帝の御息所の元に忍んでいったら、御息所は帝の弟とできていたとか、そな話がゴロゴロあったようです。光源氏の2番目の妻・三の宮は、源氏の異母兄の娘で、姪にあたります。姪との結婚が物語に登場しても、読者は違和感なく受け入れたのでしょう。和泉式部が、為尊親王と浮名を流し、親王が亡くなると弟の敦道親王と恋仲となります。和泉式部は藤原道長から「浮かれ女」と言われるものの、当時としてはまぁ許容範囲?。

 それにしても、平安貴族の世界は不思議な世界です。 →王朝日記の魅力③

タグ:読書
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