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島内景二 王朝日記の魅力③ 蜻蛉日記(2) (2021花鳥社) [日記 (2022)]

王朝日記の魅力 蜻蛉日記.jpg


 蜻蛉日記の続きです。
新しいライバル 近江
 兼家は新しい恋人「近江」に夢中となって、作者(道綱の母)の下に通うことはありません。和泉式部は敦道親王の邸で同棲を始め、親王の正妻は家出をしますから、作者は、和泉式部とちょうど真逆の立場、敦道親王の正妻の立場で『蜻蛉日記』を描いたことになります。著者は「石山詣」で近江に触れていますが、「新しいライバル 近江」という章まで設けます。

 天禄二年(971)正月、作者は、例年通り正月には兼家が通ってくるものと期待に胸を膨らませています。牛車の音を聴いて、彼女は兼家が来た迎える準備をしますが、何と素通り。この所業は後に何度もあり、期待と落胆を繰り返し、心は引き裂かれるばかり。

「二月も、十日余りに成りぬ。(世間の噂)「聞く所(近江邸)に、三夜なむ通へる」と、千種に、人は言ふ。

 結局、兼家は1月には通ってこず2月も10日ほど経ってしまいます。こんな噂を耳にします。当時、3日連続女の下に通えば婚姻が成立したとされます。『大鏡』で、兼家の妻の一人として名前が挙がっている「対御方」という女性が、この「近江」です。『源氏物語』で、紫の上は「対の方」「対の御方」などと呼ばれ、「対御方」とは邸(寝殿造)の「東の対」や「西の対」に住んでいる妻という意味です。従って近江は兼家の正式な妻となった様です。兼家には正妻・時姫の他に、道綱の母、保子内親王、中将御息所、権の北の方、源兼忠娘と6人の妻がいますから、新たに7番目の妻が加わったことになります。妻と言ってもいいし愛人と呼んでもいいですが、7人の妻・愛人を抱えていれば道綱の母と疎遠になるのも、致し方ないことでしょう。

嫉妬
「我が腹の中なる蛇、歩きて、肝を食む。此を治せば様は、面に、水なむ沃るべき」と、見る。此も、悪し良しも知らねど、斯く、記し置く様は、「斯かる身の果てを、見・聞かむ人、『夢をも仏をも、用ゐるべしや、用あるまじや』と定めよ」となり。

「夢に蛇が現れ肝を食む」とはけっこう重症。蛇は夫・兼家の象徴だと著者は考えますが、兼家の背後にいる近江への呪詛が生んだ妄想、嫉妬でしょう。「かる身の果てを、見・聞かむ人」に「斯く、記し置く」とあるところから、作者は日記の読者を意識して書いているのではないか?。この夢は事実ではなく創作ではないかと思います。

 正月の様に、兼家は近江に通うために、作者の邸の前を牛車で素通りを繰り返しますが通うことはありません。彼女は嫉妬に苦しむ日々が続きます。作者の心境は、

稲妻の 光に来ぬ屋隠れは 軒端の苗も  物思ふらし

「稲妻」の「つま」は、夫と稲の掛詞。稲妻によって稲の穂が実るという言い伝えがあり、夫の通わない「軒端の苗」である自分も稔らないと「物思ふ」わけです。一方の兼家はどうだったのか?。兼家から手紙が届きます。
「文、物すれど、返り事も無く、はしたな気にのみ有ンめれば、慎ましくれなむ。『今日も』と思へども」などぞ有ン める。
手紙を書いても返事はない。アンタの態度は「はしたな気」、とりつくしまもなく冷たい。今日も行こうかと思ったけど、気が進まないので止めた、というのです。兼家にとってみれば、男が何人も妻を持つのは世間では当たり前のことで、妻の方は嫉妬などせず受け入れるべきだと考えています。
 どういう風のふきまわしか兼家が通って来たのです。兼家曰く(「」のところ)、

「慎む事のみ有ればこそ有れ、更に、『来じ』となむ我(兼家)は思はぬ。人(道綱の母)の気色ばみ、曲々しきをなむ、奇しと思ふ」
など、心無く、気色も無ければ、気疎く覚ゆ。

 物忌で外出出来なかった。来たくないというのではないが、でもねぇ折角来ても、アンタの態度は何だかよそよそしくて冷たい、と手紙と同じことを言います。その日兼家は屋敷に泊まり翌朝「また来るよ」と言って帰っていきますが、道綱の母は「心無く、気色も無ければ、気疎く覚ゆ」、愛想が尽きたと言うところでしょうか。こうやって道綱の母と兼家の関係は疎遠となり、『蜻蛉日記』は彼女が40歳を迎える大晦日で終わります。道綱の母は60歳で亡くなりますから、『蜻蛉日記』の後20年生きたことになります。
 華麗な『源氏物語』の世界も、六条御息所がいたように、女性には嫉妬と懊悩の世界だというのが『蜻蛉日記』です。

 原文と現代語訳の混じった本書は、読むにはけっこう骨が折れます。

タグ:読書
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