ハラスが亡くなって『ハラスのいた日々』が生まれ、愛猫ノラが失踪して百閒センセイは『ノラや』を書くわけです。犬なり猫なりが居なくなって生まれるエッセイです。
主人の帰りを待ちわびている犬が、主人と出会った際の描写です、
人間にはとうてい不可能なくらい、犬は全身でよろこびをあらわす。跳び上がって主人にからだをぶつけ、手といわず顔といわず舐め、声をあげて安堵と歓喜のさまを示す(中野孝次『犬のいる暮し』)
ほんとうにその通りです。帰宅した時、犬が出迎えてくれる喜びは犬を飼った者にしかわかりません。
遊びをせんとや生まれけむ
著者は志賀高原にハラスを連れて行った時のエピソードです。スキーヤーがゲレンデを去った夕刻からは、近所の15,16頭の犬たちの饗宴が始まるというのです。
彼(ハラス)は冬山に滞在中毎日、その夕方の犬の饗宴に加わるのを最大のたのしみとするようになったのである。犬たちが集ったり、散ったり、上になり下になり遊んでいる。 次第に暗さを増してゆく西空の最後の明るみの下で、なかば凍ったゲレンデ上の寒気に身慄いしながら、わたしはそのさまをいくら眺めていても倦きなかった。(p62)
著者は犬たちの臥い転ぶ(こいまろぶ)様子を見て「梁塵秘抄」の一節を思い浮かべます。犬と人間の至福の瞬間です。
犬と共に老いる
犬が人間にとって本当にかけ替えのないもの、生の同伴者といった存在になるのは、犬が老い始めてからだ。・・・老いの徴候をいやおうなく見せだしたあと、彼はなにか悲しいほど切ない存在になる。からだをまるめて眠っている姿を見つめていると、「生ハ悲シ」といった思いがふつふつと湧いてくるようである。(p159)
「生の同伴者」たるハラスに最期が訪れます。著者が外出、奥さんが買い物に行っている間に主人を待つように門扉の内で亡くなります。
十三年間つねにそこにいた存在が突然いなくなった。だが、私と妻との感覚の中にはいまだに彼が存在しつづけていて、日常なにかの折に「ああ、もういないのだな」と意識させられるのである。(p192)
いずれは死ぬと覚悟はしているものの、死は突然訪れます。ウチの駄犬(ターボ)は、8歳で我が家にやって来て家族の一員として9年近く共に暮らし、突然いなくなりました。動物霊園の共同墓地に埋葬したので、志賀高原のハラス様に他の犬と仲良く遊んでいることでしょう。
本書に収められている荒畑寒村が愛犬マルに死なれた時に作った歌は胸を打ちます、
来ん世には犬と生れてわれもまた 尾をうち振りてマルと遊ばな