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江藤淳 犬と私(1966、1999三月書房) [日記 (2023)]

犬と私―第一随筆集  『ハラスのいた日々』に続き、亡くなった駄犬を偲ぶ第2弾です。著者は保守派の評論家・江藤淳。これも大昔読んだものの再読です。

犬と奥さん
 著者は犬(雌のコッカースパニエル、名前はダーキイ)を飼いはじめて3年、海外から招かれて2年の外国暮しとなります。奥さんは連れていらっしゃい、 犬は人間ではないから連れて来てはいけない、ということになります。で、著者は考えるわけです、

しかし、女房の本質と犬の本質は、それほど違うものなのだろうか。

話はアメリカのジェイムズ・サーバーの描く漫画に及びます。

私は、サーバーがその漫画に、女房をあたかも犬のように、犬をあたかも女房のように描いているのを見るたびに、ああなんという鋭い哲学的考察だろうそしてなんという繊細な男性的優しさだろうと、心から感心せずにはいられなかったのである。(p64)

奥さんも犬も同じ次元に存在しているわけです。著者は奥さんがいる部屋では原稿が書けないそうです。奥さんが出掛けて犬と二人きりになると、犬は書斎に入ってきます。

はいって来て、私の顔を眺めている。昔はおしっこが出たいのかと思ったものであるが、今は何をしに来たのかよくわかっている。彼女(犬)は私を憐んでいるのである。そして、男というものは、何でこんなつまらないことにむきになっているのだろうか、と変に智慧のありそうな眼で、少し首をかしげて不思議がっているのである。

犬がいると原稿が書けないとは言っていませんが、犬が自分を憐れんでいると感じるわけですから、同じことです。

犬を飼っているということは、二人女房を持っているようなものだ。・・・まったく同じ女房が二人いるという意味である。だから、女房を連れて来いというなら、犬も連れて行かなければならない。 犬を置いて行けというなら、どうして女房を置いて行ってはいけないのだろう。

犬が奥さんと同列の存在となっているわけで、逆に言うと江藤夫人も「二人の旦那がいる」と感じている筈です。結局、著者は犬を預けてアメリカへ旅立ちます。面白いのは、ダーキイもハラスも本当に懐いていたのは旦那の方ではなく奥さんの方だったということです。二匹とも奥さんの布団の端で寝ることで分かります。これは餌を与えるのが奥さんだと云うことと関係しているのかも知れません。ウチの駄犬もそうでしたw。

山川方夫
 犬の最期については記されていません。代わりにダーキイの散髪を扱った『犬のことなど』と『山川方夫のこと』の二篇はがそれに代わります。ダーキイは散髪すると全身がツルリと流線型になってオットセイかアザラシに似て来るそうです。 ツルリした印象が、交通事故で死んでしまった友人の山川方夫に重なります。

その山川と散髪したてのダーキイが向いあって坐っていたことがあったが、あれは何とも心愉しい光景であった。・・・もし私が突然この世を去ったら、ダーキイは同じように私を待つのであろうか? 「不在」と「死」との境界を犬は、 そして人間は、どこにもうけるのであろうか?。(p134)

『山川方夫のこと』で、著者は親友・山川から在米の著者に来た手紙を読み返し、

読み終って手紙の束を机の上に置くと・・・この手紙を書いた山川はもう地上のどこにも存在しないのだという現実が、否応なくおし寄せて来て私を耐えがたくさせた。それでもなお私には彼の死が信じ切れない。ある手紙に山川は書いている。「あるとき、君の家の電話のダイヤルをまわしかけ、われにかえってギクリとした。君は東京にいないのだった」まったく同じように、私は、彼の家に電話しようかと考えはじめている自分に気がついて、ときどきギクリとする。そしてあらためて思ったりする。(p287)

親友の喪失も愛犬の喪失同じことです。

山川はその前で私が「無私」になり切れる数少いというよりはほとんど唯一の友人であったとでもいうほかはない。(p289)

山川のことを書いているのですが、愛犬ダーキイにも通じる記述です。中野孝次が「遊びをせんとや生まれけん」と書いた犬のまえでは、江藤もまた、「無私」になり切れる数少いというよりはほとんど唯一の友人であった、筈です。問題は、「不在」と「死」との境界を何処に設けるかです。

タグ:読書
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