辺見庸 1★9★3★7 イクミナ [日記(2016)]
「1★9★3★7」とは1937年、昭和12年、 日本が盧溝橋事件によって日中戦争に太平洋戦争に突入していった年であり「南京事件(南京大虐殺)」の起こった年を指しています。
敗戦後のニッポン社会が、挙国一致や精神総動員といった思想を根本から唾棄し、きれいに打ち捨て、清算し、死ぬほどの思いで総括し、二度と幽鬼が生き返らぬようにしっかりと手を打ったか...と反省するき・・・1937年が2015年の現在とも、思わずゾットするような、発想の親和性、近似性があることに気づく。
著者は、「安全保障関連法案」など時代がキナ臭くなった現代に、軍靴の足音を聞き、その象徴として日本が軍国主義に突入する1937年を重ねます。著者は、南京大虐殺に象徴される日本軍の行為に自分自身を重ね、(当時大陸で戦った父上を重ね)一兵卒としてその場に居合わせたら自身はどんな行動をとっただろう、と激しく自問します。
なかでも「ツオ・リ・マア!」(p153)の悪魔的所業(武田泰淳『汝の母を!』)は絶句以外のなにものでもありません。この所業を命じた分隊長が「内地の農村で役場の書記をしていた、すこぶる気の小さい男」だったとすれば、私であってもあなたであっても何の不思議でもないわけです。善良な庶民がどうのように悪魔に変身するのか?。著者は、「ああ、すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」と何度もつぶやきますが。
戦争犯罪に見られる惨禍は、人間が神にも悪魔になれる二面性を持つ存在だということでが、本書で取り上げられるのは、日本人固有の精神の有り様です。
海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草生す屍
大君の
辺にこそ死なめ
かへりみはせじ (唱歌「海ゆかば」)
なにごとかただごとではない空気の思いうねりと震えがこの歌にはある。それが知りたくもあり知りたくもなし、といった、巻き込まれて地の底に引きずられていくような気分にさせられる。それをうまく説明することはできないのだが、たぶん「死」とそのありかたが関わる、「ニッポン精神」とでも呼ぶべき心的な古層が、音の底で妖しくうねりくぐもっているように思えてならない。
・・・正直に言えば・・・いくら否定しても嫌悪しても、「海ゆかば」にどうしようもなく感応してしまう遠い記憶がわたしの体内にはあるようだ。
もしもこのクニの過去と現在に目に見えにくい根生(ねお)いの「生理」のようなものがあり、それをかりに「天皇制ファシズムの生理」と概括的によぶとしたら、その隠されたテーマソングというか、メロディと歌詞は「君が代」と「海ゆかば」ではないのか。ニッポンジンのからだに無意識に生理的に通低する、不安で恐ろしい、異議申し立てのすべてを非論理的に無効にしてしまう、いや、論理という論理、合理性のいっさいを認めない、静かでとてつもなくセレモニアスな、「死」の讃歌...。(p57)
大東亜戦争のイデオロギー「天皇制ファシズム」とそれを支えた日本人の中に 、生理として埋め込まれた「海ゆかば」があるといいます。「生理」であるなら、時の権力が「海ゆかば」のテーマソングを鳴らせば、日本人は戦争をしかねないわけです。生理を克服するためには、どんな方法があるのか?。辺見庸の採った方法のひとつが、執拗に徹底して「墓をあばく」ということです。
この本を読むことは正直辛いです。
--- 目次 ---いま記憶の「墓をあばく」ことについて序章 よみがえる亡霊第一章 屍体のスペクタル第二章 非道徳的道徳国家の所業第三章 かき消えた「なぜ?」第四章 静謐と癇症第五章 ファシスと「脂瞼(しけん)」第六章 過去のなかの未来第七章 コノオドロクベキジタイハナニヲ?終章 未来に過去がやってくる
タグ:読書
コメント 0