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スパイ・ゾルゲを読む スパイの誕生 [日記(2009)]

388px-Richard_Zorge_memorial_Moscow.jpg モスクワのゾルゲ像

◆諜報部の任務(情報局のこと、調書の記載は一貫して『諜報部』であり、以後この記載に従います)

 コミンテルン情報局についてゾルゲはこのように語っています。

 諜報部の任務は、国際共産党に関して各種の定期報告を作成し・・・一国の労働運動の状況や各国の政治的、経済的状況について報告し、また時によっては国際的に重要な特殊問題について特別な報告を作成することであった。
 こうした報告の基礎資料は、各国の党からコミンテルンに送られてくる資料、各国の新聞、雑誌、書籍、それの旅行者や党代表から随時もたらせる報告などであった。

 コミンテルンは、各国の共産党を応援し世界のソヴィエト化を目指す組織です。従って『諜報部』とは、各国の政治・経済の調査・分析するセクションです。まさにintelligenceの世界であり、espionageとは異なります。

◆諜報部の組織
 ゾルゲによると下記のようなものとなります。調査分析が仕事ですから、言語による組織となっていることは当然でしょう。この通常の組織以外に、騒乱事件、大ストライキ、パルチザン戦闘などは別個に組織され、事務局長を経由して部長に報告されています。構成員も最大30名程度であったようです。また、特別な場合にはソ連共産党の幹部が、パルチザン関係の軍事問題には赤軍が研究会に参加しています。この辺りも、コミンテルンが独立した組織ではなくソ連共産党と表裏一体の組織で在ることがうかがえます。

組織図.jpg

◆情報局員としてのゾルゲの活動
 情報局の仕事のもう一つの側面が、各国共産党の指導です。ゾルゲは組織問題についての援助と表現しています。
 ゾルゲは1927年スカンジナビア派遣され、デンマークとノルウェーで活動します。

(デンマークで)指令に従って党の首脳部と並んで積極的な指導者の地位に就き、各種の会合や会議に出席し、国内の主な党組織を訪ねて回った。・・・デンマークの政治経済問題について諜報活動も行い、私の観察や見解について党代表者と意見も戦わし、モスクワに対する私の報告の中には彼らの意見も含めた。

 1928年には、ノルウェー共産党の組織問題で再び訪れていますが、この時は党の問題が多岐で十分な政治経済方面の調査分析が行えなかったようです。

 1929年、労働運動、共産党の地位、政治経済状況の調査にイギリスを訪れています。この時は、

党内の抗争には決して関係してはならないとの指令を受けていたが、この事は私の性分とも合致し、おかげでスカンディナヴィア諸国の場合によりもずっとよく政治経済方面の諜報活動に従事することができた。

 派遣された国で、共産党の指導をするケースと、純粋にその国の調査をするケースがあることがうかがえます。この後ゾルゲはコミンテルンに対し、調査分析活動と組織支援活動の分離を提案しています。

・諜報計画は、各地共産党の支配権をめぐっての内部抗争から引き離して、その外におくべきこと。
・純粋に内国的な、局限された党問題の解決のためには、必要に応じ特別使節を派遣すべきこと。
・(諜報活動を行う派遣使節は)経済、国内行政、外交政策の問題につき、基本的な諜報活動に専心従事しないまでも、少なくともそれに大いに力を注ぐことの出来る者でなければならないこと。
 私は、こういうふうに仕事を分離することが諜報活動の秘密保持上絶対に必要な所以を指摘した。さらに私は、外国における諜報に従事する者は従来よりも一層はっきりとコミンテルン組織から全面的に引き離すことが秘密保持上必要である旨の提案を行った。

 ここでゾルゲが言っているのは、intelligence部門を作れ、という提案です。このintelligenceはゾルゲ自身私の性分とも合致していますが、1928年のコミンテルン第6回大会以降の組織の変質(ソ連の政策転換)と無縁ではないのかもしれません。

 この提案、及びコミンテルンの変質をぞるげはこう語っています、

 1929年夏の末、私がスカンディナヴィアおよびイギリスから帰ると、私とコミンテルンの関係は絶たれ、私はホテルの自室や方々の家で諜報事務に従事した。職務上以外にはコミンテルンの同志とも接触せず、ただ私の仕事に直接関係のある二三の枢要の地位にある者と会うだけであった。私は、私の中国行きに関して数名のコミンテルン員およびその他の共産主義機関と協議した。
・・・会合出席者の顔触れ中には、ソヴィエト共産党およびその中央委員会の代表だけでなく、赤軍および赤軍の諜報機関である第四部の連中も含まれていた。
・・・かくして、コミンテルンから分離された結果、私に課せられた任務の性質にははっきりした変化が認められた。私は、中国および日本の共産党とは一切の交渉を禁ぜられ、勝手に会うことはもちろん、彼らを援助することも許されなかった。

 私の諜報活動の主たる目的は政治情勢を評価し判断することであった。第二次的な目的としては、国の経済、特に戦時経済に重点を置いて、その情報を集めることであった。そして、第三次的な目的としては、軍事情報を集めることであった。

スパイ・ゾルゲの誕生です。

 では、スパイ・ゾルゲは何処に所属し、情報を誰に報告していたのかです。ゾルゲは自分が何処に所属しているか確認出来ていなかったようで、コミンテルン本部、赤軍第四部(諜報部)、ソ連邦外務人民委員部、ソ連共産党中央委員会などが挙げられています。無線技士のクラウゼンは赤軍第四部から派遣され、ゾルゲの情報は赤軍第四部宛に送られていますが、第四部は中継点に過ぎず、中央委員会の中枢に直結していたのではないかと考えています。調査の重点が政治、経済の広範な分野におよび、これらの情報は中央委員会が必要なものであったことを根拠に挙げています。
 かれの諜報活動が、独ソ戦のために極東の赤軍を動かしたほどですから、報告はスターリンまたはその側近まで届いていたこと事実でしょう。
 この自供によって、調書は『ソ連共産党中央委員会機密部員』としています。

参照 現代史資料1 ゾルゲ事件(1) みすず書房
編集中

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